34 / 34

第33話

 記入し終えて何十回も確認した試験問題と解答用紙を教授に提出してから教室を出る。この一週間、やれるだけのことは全てやった。睡眠時間はなるべく削らずに起きてる間は基本、ノートかテキストに目を通して、食事も欠かさずに摂っている。食事に関しては毎朝、木津手作りの朝ごはんを食べ、昼は松来も入れた3人で昼食を摂り、晩御飯は夜7時半に届く木津からの『晩ご飯の写真送れ』メールに自炊したご飯を添付して送信するという木津による監視生活を送っていた。  そのおかげもあってか不摂生な生活は無くなり、気持ちに余裕が出たためかいつも以上に勉強内容がすんなりと頭に入ってきたのだ。  教室を出てからエレベーターの下りるボタンを押して携帯を取り出す。  ここ数日、目覚まし機能と木津とのメール以外では全く触っていない携帯の連絡先に登録してる浅葱の名前を表示させる。金曜日は木津と松来の2人も一緒の午前のテストで終わりのはずが、自分だけとった授業の中でひとつだけ金曜日の5限に試験時間が変更された授業があった。せめて4限にしてほしいが、おかげで勉強時間が増えて結果的にそれなりにスラスラと解けたと思う。  浅葱とは試験期間に入る前に最後の試験が金曜の5限になったことを伝えると、彼は4限で終わったら待ちますので一緒に帰りましょうと誘ってくれた。今日、待ってくれてるとは限らないが念の為に終わったとだけでも伝えよう。そう思って浅葱にメッセージを打とうと画面をタップしようとすると、それよりも先に画面にはある人物の名前が表示された。  七瀬由紀、表示されたその名前に思わず固まったが、そういえば七瀬さんから試験が終わったら連絡してと言われたのを思い出した。  応答ボタンを押して携帯を耳に当てると向こうから『もしもし』という声が聞こえてきた。  『美津?もう試験終わった?』  「はい。…すごいタイミングですね。何でいま試験が終わったと分かったんですか?」  『試験が終わる時間が分からなかったから、5限が終わる頃に電話かけようと思ったんだ。まだ大学にいるよね。』  「いますけど…。」  タイミングよくエレベーターがきて、俺は中に入りながら1階へのボタンを押す。その間、七瀬さんに試験どうだった?と聞かれ、出来るだけのことはやりましたと答えると彼は美津なら大丈夫だよといい加減なことを言ってきた。いい加減だけど、それでも七瀬さんに大丈夫だと言われるとなんだか本当にそんな気がしてくるから不思議だ。  エレベーターが1階に到着し、俺は校門を目指して歩くと同じように5限で試験を終えた生徒たちがなぜか頬を赤く染めながら校門で溜まっていたりウロウロと往復している。それも大半が女子生徒で、なんだこれと目を細めながらも七瀬さんに「もう帰るので電話切っていいですか」と聞くと彼は『まって』と俺を引き止めた。引き止めたはずだというのに何故か呼び止められたような気がして、それと同時に視界に入ってきた姿に思わず足を止めた。  「……なんで…。」  「会いたくて来ちゃった。」  なにしてんのこの人。  目の前にいたのは今も携帯から声の聞こえる相手で、七瀬さんは俺の携帯に手を伸ばして電話を切ると、それから手を掴んだまま校門を出た。「ちょ、ちょっと何してるんですか!?」「だから会いたくて来たんだって。」「っていうか手、離してください!」多くの女子生徒に手を繋がれたところを見られたという羞恥心で今にも死んでしまいそうだが、それでも七瀬さんは全く気にしていない様子で大学から歩いて直ぐのところにある駐車場まで連れられた。ほぼ無理矢理に助手席に座らされ、七瀬さんは運転席に座るとそれから車を走らせる。どこへ連れて行かれるんだろう。というかこれって一歩間違えれば誘拐じゃない?隣をみると七瀬さんはこちらを見てニッコリと微笑んだ。いつになく機嫌がいい気がする。  「…なんかご機嫌ですね。」  「まあね。今回、いつも以上に早く入稿を終えたから気分がいいんだよ。」  七瀬さんは基本的にいつも締切を守る作家さんだと一緒に住んでいたときに何度も家に来た担当の人が言っていたが、今回はその締切よりも早くに原稿を書き終えたということだろうか。今までこれといって大きな修羅場を見てきたことはないが、それでも何日も彼が作業部屋から出てこないのを寂しいと感じて、ドアの前でそっと七瀬さんの名前を呟いていた遠い日のことをふと思い出してしまった。何でいまそれを思い出してしまったんだろう。  「これから何処に向かうんですか?」  「ウチ。晩ご飯、作ってきたんだ。温かいうちに食べてもらおうと思ってね。」  ああ、だからこんなにも急いでるのか。車の窓に目を向けてぼんやりと眺めていると、試験が終わったためか緊張がほぐれ、瞼が重たくなってきた。やばい、寝そう。そう思ったのも束の間で、俺はそのまま瞼を閉じて眠ってしまった。  「…美津、美津。起きて。」  優しく肩を揺さぶられ、閉じていた瞼を開けると七瀬さんは助手席のドアを開けて俺の隣にいた。「あ…すみません、寝てしまいました。」まだ少し重い頭を抱えながら体を起こして車から下りる。いつの間にか既に彼のマンションの駐車場に到着していたようで俺は一度体を伸ばした。ぐっすり寝ていたね、そう彼に言われて少し恥ずかしいと思いながらもエレベーターに乗って最上階へと向かう。エレベーターの中でちらりと七瀬さんをみると彼はぼんやりとどこかを見つめていて、その整った横顔に慌てて目を逸らした。エレベーターが到着して彼が家のドアの鍵を開けると、既に中から美味しそうな匂いが玄関まで漂ってきた。お邪魔します、と呟いてから靴を脱ぎ、スリッパを履いてリビングに向かうと食卓ではラップがかけられたお皿がいくつも並べられていて、全て自分のために作ったんだと思うと感動してしまう。  朝ごはんは木津の手料理を食べてきたが、誰かに晩御飯を作ってもらうのって改めて考えるとちょっと久しぶりな気がする。  「まだ温かいから今のうちにどうぞ。」  七瀬さんはラップを全て取りながらそう言ってきた。「い、いただきます。」一番鼻を掠めたチャーハンをスプーンですくって口に運ぶ。ガーリックが入れられてるのか一口食べたら二口、三口とパクパク口に運んでしまう。美味しい。なにこれ、初めて食べたかも。  美味しさに感動していると、目の前の席に座った七瀬さんは嬉しそうにこちらを見ながら「美味しい?」と聞いてきた。  「はい、とても美味しいです。…でも、七瀬さんってチャーハン作れましたっけ。」  一緒に暮らしていた間、ほとんど家事は俺が進んで行ってきたが、それでも何度か彼の作った料理を食べたことがある。主に和食とイタリアン、フレンチといった洋食ばかりで中華料理は食べた記憶がない。彼に疑問をぶつけると、七瀬さんは「たまには中華も食べたくなるんだよね」と自分のお皿にかけられたラップを取って同じようにチャーハンを口に運ぶ。今までは作る気力がなかったのか。そう簡単に自己解決した俺は特に何も気にせず、彼の作った料理を再び口に運んだ。  食べ終えた食器を洗ってる間、七瀬さんは風呂場にお湯をためてくれたが、なかなか戻ってこない。皿を全て洗い終えてから水を止めると、ほんの微か、風呂場から近い部屋の方から彼の話し声が聞こえる。別に盗み聞きするつもりはないが、原稿、締切、連載といった単語が聞こえてきたため、恐らく担当と電話をしているのだろう。  『七瀬さん、本当におめでとうございます。』  またしても頭の中で突然流れてきた過去の映像に思わず目をギュッと閉じた。何で突然、過去のことを思い出してしまうんだろう。思い出したのは彼がまだホストをしていた頃で、初めて連載が決まった日だ。あの日も大学から帰って直ぐ、上機嫌な彼が作った料理を食べて連載が決まったと知らされたのだ。  『ありがとう、美津。でもこれは全部……』  「美津?」  ふと顔を上げると目の前に七瀬さんがいて、彼は俺を呼びながら少し不安そうに顔を覗き込んでいる。「疲れてるみたいだね。もう今日は早めにお風呂入って寝る?」「…すみません、そうします。」彼から距離を取るようにリビングを離れて風呂場へと向かう。どうして今日はこうも彼と恋人だった過去の思い出ばかり頭に浮かぶのだろう。彼の家にいるから仕方のないことだとは分かっているが、それでも幸せだった頃の思い出を思い出す度にまるであの頃に戻ったかのように錯覚する。  だめだ、ここにいたらいけない気がする。  頭の中ではそう分かっているのにそれでもこの足も手も口も思い通りに動いてくれない。  『ありがとう、美津。でもこれは全部、美津のおかげだよ。』  試験勉強でパンパンだった頭がやっと開放されたかと思いきや、まるで入れ替わるかのように俺の今の頭の中は七瀬さんのこと以外、全く入ってこないのだ。

ともだちにシェアしよう!