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第32話

 それから木津に言われたので俺はカフェのメニューにあったハンバーグを頼むことにした。  みんなが勉強している中、一人だけハンバーグを食べながら教科書を見ることしか出来ない。少しでも食べる手を休めてペンを取ろうとすると木津に腕を掴まれて微笑まれる。怖い。浅葱が少しだけ心配そうに見てきたが、やはり木津相手ということもあってか何も声をかけてこなかった。その判断は間違っていないと思う。  「そういえば」  暫く皆が黙って作業を続けていると、真っ先に試験勉強に飽きたのか松来が突然こっちを見ながら口を開いた。  「木津から聞いたけど、美津は夏休みの集中講義に出るんだっけ?」  「ああ、うん。出るよ。」  「えー!マジかよ…今年も天体観測しようと思ったのに。」  残念そうな声を出す松来。そういえば1年の夏休みは都心から離れた山にあるキャンプ場で天体観測しに行ったんだっけ。本格的に天文学を学んでから初めての天体観測だったからあまりの綺麗さに感動してちょっと泣いたのを覚えている。  「いや、集中講義では課題が出ないし、バイトさえ重なってなければ全然いけるよ。」  「えっ、いけんの!?木津、行こうぜ天体観測!」  天体観測が出来ることで嬉しくなったのか、松来はとなりに座る木津の腕を揺らす。それによってノートに書き込んでいた木津が少し苛立った顔を一瞬だけ浮かべたが、彼もまた満更でもない様子で「また3人で天体観測するか」と呟いた。  「3人で天体観測とか仲良いですね!なあ、俺らも天体観測する?」  話を聞いてた久坂が浅葱に聞く。話を振られた浅葱はどうしていいか分からないながらも笑って誤魔化している様子だ。  「まあ天体観測の話はまたするとして…美津、飯田教授から聞いたけど、後期から3年の授業も選ぶんだって?」  「一応は選んでみるつもり。面白そうな選択がいくつかあったから気になって。でもまぁ、正直4年の先輩に聞いても難しいって言ってたから落とす覚悟だけど。」  基本、天文学科は自分たちより上の学年の選択授業は取らない人が多い。  それは今の授業内容についていくのに必死で課題も多いからという理由が何より大きいと思うが、正直バイトもそこそこ入ってる俺からすれば3年の選択を選ぶことはかなり悩んだ。  おまけに選ぼうと思った3年の選択授業は実際に天体観測を行うだけでなく、毎回レポート提出が求められたり、予め学生に本や論文をそれぞれ読んだ上で授業を開くため、多くの先輩が口を揃えてあの授業と教授は選ばないほうがいいと言っていた。  しかし授業で学べる範囲は他と違って広い上に深く、個人的に興味があったので他の教授にも相談した結果、選んでみることにしたのだ。恐らく2年生は自分だけになるだろう。  「まあ、美津なら上手くやれるとは思うけど、あんまり無理しないようにな。バイトだってまだ辞めるつもりはないんだろ?」  「えっ…」  今まで黙って話を聞いていた浅葱が思わず声を漏らした。  「バイトは辞めないよ。とりあえず両立出来る範囲で頑張ろうと思う。あの店は何だかんだで卒業するまでは辞めないつもり。」  だから心配するな。その言葉はあえて口にしなかったが、困惑しているような顔を向けてくる彼に俺はハッキリと辞めないと伝えた。それを聞いた彼は少し安心したようだが、正直俺からしてもこの選択は間違ってないのか分からない。今の生活だけでもいっぱいいっぱいなのにこれ以上忙しくしてどうするんだろう。  ただ一つ、俺の頭の中では教授が言っていた言葉が少しだけ引っかかっていた。  『来学期になったら彼も戻ってくるだろうから、君とは話が合うだろうね。』  *  「それじゃ期末頑張ろうな。」  「単位落とさず楽しい夏休み過ごそうぜ!」  カフェで夜7時まで勉強会をしていた俺たちはそれぞれ駅でお別れすることになった。方向が同じだという木津、松来、久坂3人に手を振り、俺は浅葱と二人で電車に乗って帰る。  「勉強会、誘って頂いてありがとうございました。」  「少しでも力になれたらそれていいよ。初めての期末頑張って。」  はい、と返事した浅葱は少しだけ元気がないように感じた。もしかして疲れてるんだろうか。そう思って深く聞こうとしたとき、電車が止まった駅で多くの人が車両に乗ってきて俺と浅葱はドアの隅に追いやられた。ドアの窓に頬が当たるほど人に押されてしまう俺を浅葱は「大丈夫ですか」と聞いてきて俺は何とか頷く。あと3駅で最寄り駅に着くし、開くドアもちょうど自分たちの隣にあるこのドアだから少しだけ我慢しよう。  大学だけでなく、基本的に出かけたら帰宅ラッシュの時間を避けて電車に乗るが今日は浅葱と一緒だから他で時間潰そうとワガママを言えなかった。何より期末まで時間もないため、早く帰って勉強したい気持ちの方が強かったのだ。  「……ッ、」  ふと感じた感覚に少しだけ眉を寄せる。後ろか横の人の荷物がやけに太ももに当たっているのが分かる。これだけ人がいれば荷物が当たるのも仕方ないと流せるが、やけにその触れているものが熱を帯びていた。まさか、と思いながら当たっている太ももに手を伸ばすとその人物に手を掴まれてしまう。掴まれた手がその熱の中心部に触れた。その感覚は見なくても直ぐ分かった。明らかに男の勃起した陰茎で、咄嗟に掴まれた手を何とか振りほどくと今度は人の手が自分の太ももの内側をそっとなぞる様に触れてきた。先ほどの人がいた方とは違う、真後ろの人の手が自分の太ももの上、そして付け根付近にあるそこの形を確かめるように触れてきて俺は思わず目の前にいる浅葱のシャツを掴んだ。  助けて。  そういう前に彼の腕が俺の腰にのびて、引き寄せるように抱きしめられた。まとわりつくように触れていた手が離れ、俺は目をギュッと閉じる。浅葱のシャツを掴む手は依然と力が込められたままで、なんだか彼から手を離したら再び後ろにある手が伸びてきそうな気がしたのだ。  電車が駅に着くと浅葱は俺の体を支えるようにして車両から降りた。ずっと早く着けと祈っていた俺はやっとの思いで駅に着いたことでホッとしたが、見上げると浅葱は怖い顔で恐らく俺に触れていた人たちを睨み付けている。しかし電車のドアが閉まったこともあって、浅葱は直ぐに俺に「美津さん」と名前を呼んできた。  「頼ってくれてありがとうございます。怖かったですよね。歩けそうですか」  「…うん。もう平気だから。」  まだあの気持ち悪い手の感覚が忘れられないが、何とか家に着くまでは大丈夫だろう。いつもに比べてゆっくりになる俺の足取りに浅葱は合わせてくれて、不安だからといった彼は結局俺の家まで送ってくれた。乗っていたマンションのエレベーターから降り、俺の部屋の前に到着すると浅葱はギュッと抱きしめてくる。「ちょ、ちょっと待って」慌ててドアのカギを開けてから彼の腕を引っ張って中に入る。彼が抱きしめてくるのは構わないが、他の住人にそんな場面を見られてしまったら流石に困るのだ。  浅葱は俺の体を抱きしめている腕をそっと離し、それから顔が近づいてくる。自然と目を閉じてそれを受け入れようとするも、唇に感覚がない。あれ、と思って目を開けると浅葱は俺の頬に手を伸ばして優しく撫でていた。  「すみません。やっぱり我慢します。」  「……は?」  「もうすぐ期末ですし、テスト終了まで美津さんに触れるのを我慢します。…僕を頼ってくれた美津さんが可愛すぎるから、キスだけじゃ終わらないような気がして。」  頬を少し赤らめながら浅葱はそう言ってドアノブに手を伸ばそうとする。俺はそんな彼の手に触れてから彼を見上げた。相変わらず悔しいほど好きな顔だ。  「これでテストの点が悪かったら二度と口きいてやらねえからな。」  早く帰れ。そう言って彼から手を離すと浅葱は少し驚いたように目を見開いたが、それから優しく微笑みながら「はい。頑張ります。」といってドアから出て帰ってしまった。彼が帰った後の部屋で俺は勉強を開始する。帰ったらあの教科の問題を解いて、レポートを見直してといった予定が既に頭の中で立てられていたのに、浅葱のせいで足りないと思ってしまう自分がいた。  テストが終わったら悪口を100個ぐらい言ってやろう。  そしたら彼は何回謝りながら笑ってくれるのだろうか。

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