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第9話

5月の末。例年より少し早い梅雨入りで、傘をさしながら凪沙は友達と3人で下校していた。 「俺はここで。」 今日は雨が降っているから、水やりはしなくていいかもしれないけれど、一向に変化を見せない蕾の事が気になって、凪沙は時雨の家の前で足を止めた。 「あれ、お前の家マンションじゃなかったの?」「確かペット禁止とか言ってたよな?」 友達が不思議そうに凪沙に尋ねる。 「大切な人と約束があるんだ。」 「怪しい口ぶり。お前もしかして彼女か?」 「いやここに住んでるの、確か有名な小説家だろ?」 友達の返答を聞いて、凪沙の胸がちくりと痛む。どちらも大体正解で、だからこそ少し辛い。 「とりあえず、また明日な。」 「お、おう。」 「気をつけろよーっ!」 友達に手を振り、庭に足を踏み入れる。 出会ったのも梅雨だった。思えば思うほど会いたくなってきて。久しぶりに涙がこぼれた。 「会いたいよ、時雨さん… もっと一緒に居たかったのにっ…!!」 一度こぼたら、もうだめだった。どんどん雫がこぼれていく。 あの優しい笑顔も、肌の温もりも、心に染みる言葉も、もう2度と感じられない。 傘を持つのも面倒になって投げ捨て、頬を伝う液体はもはや涙なのか雨なのかわからなかった。 近所に聞こえてしまうだろうか。それでもいい。 会いたい気持ちで心はいっぱいで。 ‘せっかく会いにきたのに、そんなに泣かれたら悲しいな。’ 突然、目の前から声が聞こえた。ここには自分以外いないはず。 驚いて前を見ると、ぼやけた視界の中に、いるはずのない人が確かに映っていた。 嘘だ、そんなはずがない。幻だろう。 ‘久しぶり、凪沙くん。’ しかし目の前にははっきりと見える。もういないはずの大好きな人の、優しい笑顔が。 「し、時雨さっ…、時雨さんっ!!」 思わず抱きついて、会いたかった、と大声で叫ぶ。背中に彼の腕が回り、凪沙の背をトントンと撫でた。 そして優しい口づけをして。 すぐに、彼は消えた。唇には、微かに温もりが残っているように感じる。 ふと、あることに凪沙は気づいた。ずっと蕾のままだったあの木に、花が咲いているのだ。 「あのー!」 表札前のあたりから、声が聞こえてきた。続いてチャイムが響く。 明らかに時雨の声ではない。涙を袖でぬぐって、凪沙は声の方に歩いて行った。 「宅急便です。」 立っていたのは、荷物を持った男の人。 「えっと、人違いじゃ… 」 今この家には、誰もいないはずなのに…。 「でも、住所はここですよね?」 綺麗にラッピングされた小さな箱。宛先に『工藤凪沙様』と書かれている。それよりも驚いたのは、差出人だ。 『桜庭時雨』 「あ、あって、ます。」 なにが起こったのかもよくわからないまま、凪沙はその荷物を受け取った。宛名の筆跡は少なくとも時雨のものではない。 「ではここに、サインをお願いします。」 急いでサインをして家の中に入り、ラッピングを丁寧に外していく。 中身はハードカバーの本だった。しかしバーコードは印刷されていない。 表紙は無地で、作者の名前も書いていない。 パラパラとめくっていくと、真ん中に何か二つ折りの紙が挟まっている。凪沙はそれを手に取り、震える手で恐る恐る開いていった。 『梅雨は好きになれましたか?』 紫陽花模様の一筆箋には時雨の筆跡で綴られていて。 いたずらっぽく笑う彼の顔が、その中に見えた気がした。

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