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「昨夜はすみませんでしたっ!」  重怠い体を引き摺りながら所轄署に出勤した窪田を迎えたのは、グレーのスーツに身を包んだ後輩の松崎だった。色白ではあるが知的な顔立ちをしている彼は、現場叩きあげで警部補になった窪田とは違う、いわゆるキャリア組と呼ばれる人種で二十代半ばにして窪田よりも一つ上の警部だ。  今は警視庁に上がる前の県警勤務でこの所轄の刑事課に籍を置いている。  窪田が、実際には上司に当たるであろう松崎を『後輩』と呼ぶのには理由があった。それは自分よりも年下で、経験も浅い彼を『上司』と認めたくないという変なプライドからだった。  しかし、それが逆転したのは昨夜のこと。共にした酒の席でいつも以上に酔っぱらった窪田を、松崎は介抱すると言ってホテルに連れ込み、そのまま体を繋げた。重なった肌の熱さと、彼の長大なペニスで貫かれた時の快感は、泥酔していた窪田でもハッキリと記憶に残っていた。  同じセクシャリティを持っていることは薄々気づいていた。松崎もまた、それを察知してアプローチしていたことも気付いていた。  所詮、ノンキャリアの窪田とは住む世界が違う。知的で容姿も良く、女性受けする松崎に比べ、窪田は整ってはいるがいつ牙を剥いてもおかしくない獣のような雰囲気を纏っていた。  プライドも高く他者を寄せ付けない見えない畏怖を纏った松崎が、真正面から窪田に謝罪した。  全てをかなぐり捨てて酒に責任転嫁することもなく、泥酔した窪田を犯したことを詫びたのだ。  その時の驚きと気まずさと、ほんの少しの気恥ずかしさは、窪田にとって初めて抱く感情だった。  そんな格差に縛られた二人は、お互いに理解し合うことはないと思っていた。しかし、何度か体を重ねていくうちに『警戒』は『情』に、ついには『愛情』に変わった。付き合い始めた六月に掛けて『ジューンブライド』だと随分と先走ったことを口にしながら、互いに頬を寄せ合って笑う関係になっていた。  職務中は上司と部下、先輩と後輩――そしてバディ。 夜になれば愛情と安らぎ、快楽を求めあう恋人……。  窪田も松崎も大人として、刑事として公私混同することなくきっちり割り切っていた。  そんなある日――その日は交際二年目の記念日。午後になって急に松崎の様子がおかしくなったことを窪田は気づいていた。心ここにあらずといった表情で、上司の話もまともに頭に入っていないようだった。気にはなっていたが、誰しも感情や気分の起伏は訪れる。窪田もそう思っていた。 居酒屋での食事を終え、窪田の住むマンションに向かった二人は、部屋の入るなり貪るように口づけを交わした。そのまま寝室のベッドになだれ込み、幾度となく最愛の男に惜しみなく愛情を注ぎ、また強請った。 朝から降り続いている雨は一向にやむ気配がない。エアコンをつけているとはいえ、二人が発する熱によって湿度が急激に上がる。今年の梅雨は平年よりも長く、鬱陶しい日々が続いていた。 汗で湿った肌を触れ合わせ、互いの精液でベトベトになった身体をゆっくりと起こした松崎は、ベッドに浅く腰掛けてナイトテーブルに置かれたままの缶ビールを掴んで一口煽った。そして、まるで独り言のように窪田に背を向けたまま呟いた。 「――ねぇ、陽一。刑事って本当に因果な職業だよね。自分の身体を張って、容疑者確保の為に命をも投げ出さなきゃいけない時もある。絶対に死なないって保証はどこにもない……」 「何を言い出すんだよ、急に……」  歳のせいだと認めたくはないが、あちこち軋む体に顔を顰めながら体を起こした窪田を肩越しに振り返った松崎は泣いていた。 「今日さ、警察学校で一緒だったヤツが捜査中に。逆上した容疑者に襲われて……亡くなった。それ聞いたら、陽一も俺も、いつ離れ離れになるか分からないって恐怖しかなくて。足が震えた……」  松崎の様子がおかしくなった理由――それは同期の死だった。  着痩せする松崎の身体は綺麗な筋肉で覆われている。その背中を後ろから抱きしめように腕を回した窪田は、汗ばんだ肌に頬を寄せたまま言った。 「別に……刑事やってなくたって死ぬときは死ぬ。交通課の課長が嘆いてたぞ。交通事故死亡者数がまた増えたって……」 「そうじゃないんだよ。――陽一との出逢いは運命だったと思ってる。身体とか心が繋がってるっていう軽いもんじゃない。何だか分からないけど……魂が呼び合った気がするんだ」 「へぇ……現実主義者のお前が珍しい事を言うなぁ」 「人間は死んだら、この世に残るのは亡骸だけだ。じゃあ、魂はどこに行くと思う?」 「さあな……。死んだことないから分からないけど、いつか生まれ変わるって聞くし、どこかに保管でもされるんじゃないのか?」 「その保管庫の管理人は……誰?」 「知るかよ。それ知ってどうするつもりだ?」  松崎の栗色の髪は普段きちんと整えられている。しかし、情事のあとの乱れ具合は窪田も息を呑むほど色っぽく、男らしい。少し伸び始めた前髪を大きな手でぐしゃりとかき上げた彼は、肩越しに窪田を見つめると、泣き腫らした目を数回瞬かせた。 「――もし、陽一が死んだら……俺はその魂を守る管理人になる」 「は?」 「誰にも渡さない……。たとえ、今の記憶がなくても陽一の魂は変わらない。陽一が生まれ変わるたびに、どんな手段を使っても必ずそばにいるから。陽一のいない世界なんて考えられない。それくらい――愛してる」  窪田は、年下の男にこれほど真剣で情熱的な告白をされたことは初めてだった。  今までも何人かの男と体の関係を持っている。しかし、どれも長続きせず、自然消滅という形で関係を解消していた。  付き合う前の期間も含めて二年半。これほど長く続いたのは松崎が初めてだった。  それに、窪田も薄々気づいていた。松崎という男は他の者たちは明らかに違っていた。年上である自身に物怖じすることなく言いたいことを言う。だが、そこには溢れんばかりの愛情という裏付けがあってのことだ。  いつもならば照れ隠しに突っぱねるのだが、松崎の言葉は不思議と窪田の心にストンと落ち付く。それに、一緒にいてこれほど心地よい距離感や空気感はない。 「さっきから聞いてれば……俺が死ぬ前提で話すなよ。俺だって、生まれ変わってもお前と出逢いたいと思ってるし、出逢えるような気がしてる。いずれ弘美が本庁に入れば、おのずと離れ離れになる時間は増える。でも――どこにいても、何をしていても繋がっている。これって、お前が言う『魂が呼び合う』ことなんだろうな」  申し合わせるでもなく二人の唇が窓を叩く雨音とやり場のない沈黙を破る様にゆっくりと重なった。  自分の死。松崎の死。どちらも今は考えたくない。  窪田は心の奥底に追いやっていたはずの不安に恐怖を覚え、それを揉み消すかのように松崎の頬に手を添え、強く引寄せては舌を絡ませた。松崎に自身の不安は見せたくない。彼の前では、いつでもカッコいい男でいたい……。 (つまらないプライドだな……)  ふっと自嘲気味に笑った窪田に気付いた松崎の体をベッドに沈め、体を跨ぐ様にしてわずかに力を蓄えているペニスを自身の後孔に押し当てた。十分すぎるほどに潤んだ蕾は難なくそれを咥えこみ、自重で最奥まで沈めていく。 「ん――っあぁ」  腰から背筋を這い上がる快感に、窪田は身を震わせて松崎の肩に爪を立てた。  カーテン越しに二人の顔を閃光が照らす。少しして遠くの方で地響きを伴った雷鳴が轟く。  グチュグチュと卑猥な水音を立てて繋がった場所が熱く爛れていく。  来年もこうして松崎と繋がっていられるだろうか――。  窪田はただ快楽だけを貪欲に求めた。死への恐怖よりも松崎を失う恐怖を払拭するために……。

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