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洸一(こういち)! そろそろ起きないと、アポの時間に遅れるよっ」  耳触りの良い声が公園のベンチで眠っていた横谷(よこたに)洸一(こういち)の鼓膜を震わせた。 纏わりつくような湿度と肌を刺すような日差しの熱。薄っすらと目を開けると眩いほどの太陽が視界を奪った。 「――暑い」  気怠げに体を起こしながら、隣に座りスマートフォンを見ていた部下であり恋人である仙崎(せんざき)雅士(まさし)を恨めしげな目で見つめた。生まれた時からある脇腹の痣がなぜか疼き、小さく舌打ちする。  仙崎は嬉しそうに笑みを浮かべながらスマートフォンの画面を横谷に見せた。 「関東地方、梅雨明け宣言! どうも暑いわけだ……」  軽い昼食を済ませた後、取引先の商談の時間まで余裕のあった横谷は睡魔に負け、オフィス街の中央にある公園で昼寝を決め込んだ。誰も考えることは一緒で、梅雨の合間の太陽から逃げるように木陰のベンチは生憎満席となっていたが、横谷は少しでも涼しい方がいいと噴水の近くに拠点を決めた。 隣には付き合い始めて三年目になる恋人、仙崎がいる。寝過ごすことはない。 「だんだんと梅雨が短くなってる。去年の記念日は大雨でしたからね?」 「あぁ……。あれ? もしかして明日……記念日か?」 「あっ。もしかして忘れてました? 酷いなぁ……俺、愛されてない?」 「ば、バカを言うなっ。あ……愛してるに決まってるだろ」  一流商社営業部主任の横谷は整った顔を真っ赤に染めて、顔を背けながら言った。それを楽しそうに笑いながら見つめているのは部下である仙崎だ。互いはゲイであり、気が付いたら付き合っていた。  横谷は仙崎とこういう関係になったプロセスを覚えていない。だが一緒にいて一番安らげる存在であることは確かだ。  そう――夢の中に出てきた生まれ変わりを信じる恋人たちのように。 「雅士……。俺、不思議な夢を見てた。まるで……自分の前世なんじゃないかって男が出てきてさ。死神と一緒に消える恋人に向かって必死に叫んでた」  仙崎は一瞬目を見開いたが「へぇ……」と興味深げに鼻を鳴らした。 「リアリストの洸一でもそういう夢見るんだ?」 「記念日を前にその男が死ぬんだよ……。って、なんか縁起でもない話したな。ごめん……」 「気にしてない。だって、それは夢でしょ? 大丈夫、洸一は絶対に死なないからっ」  犬を散歩させている初老の男性が横切っていく。過ぎ去ったタイミングで二人はどちらからともなく唇を重ねた。  薄い唇を何度も啄み、三度目の記念日を前に二人で祝える喜びを噛み締める。  チュッと音を立てて唇が離れた時、仙崎が腕時計を見て声を上げた。 「いけねっ。そろそろ行かなきゃ!」  慌てて立ち上がった時、彼のスマートフォンが鳴った。画面を見て顔を顰めた仙崎は、すぐ隣でネクタイを締めていた横谷に言った。 「洸一、ごめん。先に行ってて! 客先からの電話入っちゃった。すぐに追いかけるから!」 「わかった。じゃあ、先に行くぞ……」  襟を正し、上司らしくそう言って歩き出した横谷の背中を見つめていた仙崎は、手にしたスマートフォンをすっと下した。  いつからそこにいたのだろうか。ベンチの後ろには黒い日傘を差した紳士が立っていた。汗ばむ陽気だというのに黒いスーツにネクタイ、そして帽子を目深に被っている。足元には暑そうに舌を出して呼吸を繰り返す黒い大型犬。 『――どうやら捕まえたみたいですね。かなり苦戦なさっていたようですが』 「そうだね……。三十年――かかった。長かったなぁ……。でも、もう絶対に離さない。もちろん、貴方にも渡さない」 『管理者の素質――私の目に狂いはなかったようです。でも、まさか……貴方の恋人があんなことになるなんて。私でも予想出来ませんでした』 「俺も――だよ。まさか本当に管理者になるとは思ってもみなかった。天に召された魂を管理し、転生させる……。転生は誰でも平等に与えられた権利だ。ただ……陽一の魂だけは自由にはさせない。俺だけを見て、俺だけを愛して欲しいから」 『貴方は管理者ですから、(ピース)である私が口出し出来ることはありません。私はただ、管理所へ魂を運ぶだけ……』  仙崎は振り返ることなく俯き加減のまま、薄い唇をふっと綻ばせた。  その背中に広がったのは大きな灰色の翼――。天使でも悪魔でもない中立を司る管理者の証。  湿った風が微かにそよぎ、薄灰色の羽根を太陽へと舞い上がらせる。  花壇に咲いた紫陽花の葉が風に揺れ、溜まった雨の滴がその重みでゆっくりと傾いた。 「もう雨は降らせない……。湿った記念日なんてまっぴらだからね」  仙崎は嬉しそうに顔をあげると、誰に言うでもなく呟いた。 「やっと祝えるよ……。交際三年目の記念日――ジューンブライド」  陽一――いや、今は洸一と名を変えた魂を両手に抱いた瞬間の愛しさは今も忘れることはない。  雨の中で自身の血に塗れ、煙草を咥えたままの窪田の亡骸を見た時、仙崎――いや松崎の決心は固まっていた。  互いに惹かれ合う魂――それを守るのは自分しかいない、と。  管理者となって三十年。老うこともなく、ただ容姿だけが自在に変わる。そんな運命を背負いながら、ただひたすらに追いかけてきた。 「永遠に一緒だよ――洸一」  笑みと共にすっと目を細めた仙崎は、背後にあった黒い紳士の気配が消えたことを知ると、自身の胸に手を押し当てて一粒だけ涙を流した。あの時の窪田のように……。  それが三十年前の雨の日以来だったことは、誰も知らない――

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