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第一話 待ちぼうけ

 ルーカスがイングランドに帰ってからもう二年も経ったらしい。あれからイングランドの貿易商も何度かやってきたがルーカスが乗っているウォーリックの船は一度も訪れていない。たった数日の出来事だった筈のルーカスとの時間は思いの外長く感じていたようで、ルーカス日本を去ってすぐに胸に穴が空いたような寂しさを感じた。    別れてから俺は今、初めてやっとまともな仕事に就いている。そして仕事の合間に英語の勉強も始めた。本当はもっと色々……航海術とか貿易云々とか中国語とか蘭語とか学んだ方が良いんだろうけどそこまでの時間は無いし、教えてくれるツテも無い。    そしてもう一つの日課は朝と仕事終わりに港に行く事だ。そこに行けば時折商船や漁船が停泊している。その中にウォーリックの船がないかを毎日探している。 「今日は何も居ねーな」 今日の港は静かで、漁船の一艘すらも見えない。取り敢えず石垣に座って日が沈みきるまでは待つが、もう一年以上持ち歩いている短い英語の一文を幾つも綴った手紙はきっと今日も俺の手を離れる事はない。他のイングランドの商人に渡せばもしかしたらルーカスにたどり着くかもしれないが、やっぱり自分の手で渡したい。だがしかし、 「来ねえか……」 辺りが真っ暗になって空に星が見えるまで座っていたが、港はただ潮風を運んできただけだった。これもいつもの事だ。俺は溜息をついて立ち上がる。    会えないのは年単位になるだろうとは言われていたがこんなにも堪えるとは思わなかった。俺は自分で思っている以上にルーカスを想っているらしい。離れてからやっと分かった。ルーカスはいつも真っ直ぐに気持ちをぶつけてくれて、誠実で、俺に光を与えてくれる人だ。この二年間でいろんな人と関わってきたし、年頃の見た目の良い娘に想いを告げられた事も何度かあった。その中には上品で見た目も良い娘もいた。だけど告白される度に俺はルーカスの顔が浮かんだんだ。    また朝になれば起きて朝飯を済ませて港へと向かう。今日は雲一つ無く良く晴れている。おかげで太陽に直接照らされて若干鬱陶しい。そしてやっぱり、港に泊まる船は無かった。朝は仕事があるからそんなに長くは待っていられない。俺は港を離れた。  俺が働いているのは庶民向けの食事処で、俺より十幾つか年上の砂山夫婦とその一人娘の薫の三人家族で経営している店だ。そこに数時間ずつ俺と薫の幼馴染の航大と、その他三人くらいが入れ替わって手伝いに入っている。給金は雀の涙程だが使う気にもなれなかった花魁時代の俸給がまだかなりの額が残っているから別に気にしていない。 「アイリスさん、お疲れ様〜。もう航大が入るから上がっていいよ」 夫婦の妻の方、千代さんが声を掛けてきた。もう交代の時間らしい。 「はい、ありがとうございます」 「お茶いる?」 はい、と長い髪を無造作にひと括りにした薫が緑茶が入った湯呑みを差し出した。俺は礼を言って受け取る。薫は俺の隣に座って大きく伸びをし、そのまま脱力して俺の方に寄り掛かってくる。 「つーかーれーたー……」 「おい、あんまりくっつくな。俺が航大に怒られる」 「けち。あんたには疲れた先生を労ろうって気持ちは無いのかい? 私はなんて酷い生徒を持ってしまったのでしょう……」 面倒臭い……心底面倒臭い。構えば航大が五月蝿いし構わなければ薫が五月蝿い。だが英語を教わっている以上あまり無下にもできず仕方無く自分の肩に薫を引き寄せた。 「うむうむ、苦しうない」 「航大が来たらそっち行けよ」 「そんなツンケンしてたら恋人に嫌われるぞ」 「なっ……」 薫は俺にもたれ掛かったままニヤニヤとこちらを見ている。 「図星か? 図星か? ほんとに恋人居るんか?」 「鎌かけたな……」 俺は薫を睨んだが薫はけらけらと笑った。   「恋人はどんな子だい? 可愛い子? それとも別嬪さんかい?」 「あー……どっちかっつうと男前だな」 美人ではあるけどな。ルーカスは美人のくせに男らしい。女装をしても女らしさは全く見えなかった。 「意外だなあ。そういえばこの前も履物屋のとこのかわい子ちゃんを振ったんだってね。あの子はこの辺で一番の子だってのにさ。いっぺんあんたのコレを見てみたいよ」 コレ、と言いながら薫は自分の小指を指差す。 「また今度な。っつうか、まだ恋人じゃない」 俺が言うと薫は意外そうな顔をした。そしてその顔がすぐに悪戯を思いついた子供のようになる。 「なんだい、片想いかい? 私がひと肌脱いでやろうか?」 「いや要らん」   「ええー?」 結局二年前、俺はルーカスの気持ちに曖昧な返事をしたまま別れた。また日本に来たときに返事をすると約束したものの、まだ“恋”というものはよく分かっていない。でももし生涯の伴侶を選ぶならルーカスが良いし、町の恋人同士を見て自分とルーカスに重ねては羨ましいと思う事はある。だけどこう……何か目を見るとドキドキするとか体温が一気に上がって顔が熱くなるとか、そういうものが今でも無いんだ。 「恋って何なんだ?」 「あんたがルーカスって人に想う感情じゃないか」 薫は眉をひそめて袖に忍ばせていた飴玉を口に放り込んだ。 「いや……分からないんだ。好きは好きだけど、なんていうか、違う気がするんだ」 「まー私にも分からんけどね。今は嫁に行くより遊びに行きたいもん。そーだ、いつかあんたイングランドの船乗るんでしょ? 私も乗っけてよ」 「それは駄目だろ」 「ほんとにあんたけちだなあ。私が居れば通訳になるんよ? 会話の仲介できるんよ? しかも船旅の経験もあるからあんたも安心できるでしょ?」 その言葉通り、薫の英語は堪能だし船旅の経験もある。夫婦から聞いた話では、五年程前、スコットランド商人と仲良くなり、夫婦への許可も取らずに商人の船に乗り込みそのまま彼方此方旅をしたという。昨年帰ってきて大目玉を喰らったとか物凄く心配されて泣かれたとか。夫婦は早く嫁に行って落ち着いてほしいと願っていて、十も離れている俺にまで縁談話を持ちかけてきたくらいだ。 「両親が心配するだろうよ」 「今度はちゃんと言っておくから大丈夫」 止められるんじゃねえかな……っていうか俺が殴られるんじゃねえか? 特に航大に。あいつは薫に片想いしているからな…… 俺は薫に気づかれないように溜息をついた。

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