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第1話
ヴ、壁の向こうで音がする。さっきからひっきりなしに鳴っているけど、いいかげん用件を済ませたらどうかな。週末だというのに珍しく同居人がいて、いつもなら気にならない通知の短いバイブ音、小さな咳払い、それに、音ともつかない気配までがちくちくと皮膚に障る。
今日が返却期限のDVDもまだ見ていない。テレビとゲーム機、冬は炬燵になるテーブルはダイニングで共有していて、今まで一度も不便や不満を感じたことのなかったそのことが、今はとても億劫に感じる。
ヴ、と、また音。
ケーブルに繋ぎっぱなしの自分のスマホは暗く沈黙したままで、意味もなく通知ゼロを確かめてもため息が出るばかり。
熱帯夜の寝苦しさような奇妙な苛立ちが、もう何日も続いている。
きっかけは同居人の一言だった。
初めはただ気まずかった。そのうちに、そんな気持ちにさせた彼に腹が立ってきて、そうしたらあっちまでなぜだか不機嫌になって。言い合いを最後に、口をきいていない。
何度目かのため息を吐く。そうするたびに、体内のもどかしい気持ちばかりが濃くなっていくような気がする。寧人(やすと)は掛け布団を抱きしめて、ごろりと寝返りを打った。
啓(ひらく)とは元々、学生寮のルームメイトだった。一部屋四人の自治寮は、プライバシーはないし行事は多いしあちこちでトラブルが起きるしで、自分には合わないと入ってすぐに痛感した。同室の彼も同じように感じていたらしく、社交的と内向的、文系と理系、イケてるほうの鈴木とイケてないほうの鈴木etc……タイプはずいぶん違ったが不思議と馬の合った自分たちは、なにかとつるむようになった。そして翌年には、寮の更新手続きをせずに、二間のアパートを探して同居を始めたのだ。ありふれた鈴木姓に生まれると、同居人と表札の苗字を分かち合うことになったりもするらしい。まるで結婚したみたいだなんて言って笑ったっけ。
学部が違うから大学では滅多に会わないし、週二日の家庭教師でじゅうぶんな寧人と違って、バイトと遊びで多忙を極める彼はあまり家にいなかったが、せっかく寮を出たというのに結局リビングで一緒にいることのほうが多い自分たちは、何もかも違うのに、どこか似た者どうしだった。
今朝、彼のノックを寝たふりで無視した。
喧嘩どころか言い争いすらほとんどしたことがなかった自分は、いつまで意地を張ったらいいのかすっかりわからなくなっている。休日の立てこもりはもうとっくに限界で、気づけば彼の気配を追ってばかりいるし、こうするうちにもDVDの返却期限は迫っているし、空腹で切ないし。
腹の虫がきゅるると鳴く。寧人はベッドを降りて部屋を出ると、斜め向かいのドアをわざとノックなしに勢いよく開けた。
細長い身体をクッションに預けてスマホを弄っていた啓が、驚いたように顔を上げる。
「……なに」
咳をしていたせいか、少しいがらっぽい声。
「腹減った」
「あ、うん、そう」
「啓は?」
ボストン眼鏡の奥で、血統の良い猫のような形の目が瞬く。
「……減ったな」
啓は唇だけで笑い、ゆっくりと立ち上がった。
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