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第2話

『飲み会行くからメシいらん』  亮也からそんなメッセージが入ったのは仕事が終わって直後のこと。帰りにスーパーで食材を買って帰るつもりだったけれど、自分一人のために料理をする気になれないので、今夜は総菜で済ますことにする。  会社を出ると雨は降っていなかったが、鈍色の雲が垂れこめていた。のんびり歩いていたら降られてしまうかもしれない。僕はスーパーに寄るのをやめて家路を急いだ。  アパートの近くまで辿り着いて、ふいに昨日の紫陽花を思い出した。せっかく紫陽花をくれようとしたあの男の人の厚意を、素っ気ない態度で断ってしまったことを少し後悔している。まだ六時前。僕は道を変えて紫陽花が咲いている白い家へ向かった。  鮮やかな紫陽花は遠くからでも目立つ。閑静な住宅地を彩る寒色が、賑やかで涼しげだ。ここに越してきたのは二年前だが、今まで紫陽花なんて咲いていただろうか。咲いていたとしたら、これまで気付かなかったことが悔やまれる。ぼうっと目を奪われていたら、またウッドフェンスの向こうから声を掛けられた。 「こんにちは」  昨日の男の人だ。 「あ、あの……。仕事の帰りに紫陽花のこと思い出して、寄ったんです。昨日は……」  ごめんなさい、と謝ろうとしたら遮られた。紫陽花を三株、差し出される。 「二株では数が悪かったなと反省して、今日は三株にしました。よかったら受け取って下さい。昨日は失礼しました」  謝るつもりが謝られてしまった。しかも気にするところがそこかよ、と可笑しくて、僕は噴き出した。 「何か変ですか」 「違うんです。僕が謝ろうと思ったのに、なんであなたが謝るんですか」 「あなたが何を謝ると」 「昨日、せっかくあなたが紫陽花を下さったのに、僕が感じの悪い態度で断ってしまったから。本当は嬉しかったです。でも花瓶を持っていないから、いただいても枯らしてしまうと思って。迷っているうちにあんな態度になってしまって」 「感じが悪いとは思いませんでしたよ。あなたはいつもお綺麗です」  かあっと顔が熱くなった。生まれて初めて「綺麗」と言われて、恥ずかしかった。僕は至って平凡な造りの顔なのに。僕の心情を読んだかのように、男の人は続ける。 「時々、男の人と一緒に歩いているのを見かけます。あなたはいつも背筋が伸びていて歩き方も美しい。ただ、ひとつ言わせていただくと歩く時は前を向いたほうがいい。俯いていると何かにぶつかると危ないし、元気がなさそうに見えます」  言われてみればそうかもしれない。僕はいつも地面を見ている。紫陽花に気付いたのも水たまりに葉っぱが浮かんでいたのを見つけたからだ。葉っぱが落ちていなければ、僕は紫陽花に気付かなかったかもしれない。 「その通りですね。前を向いて歩いていたら、去年も紫陽花に気付いていたかもしれないのに」  そして男の人が持っている三株の紫陽花に目をやる。真っ青な紫陽花だ。こんな綺麗な花が部屋にあったら癒されるだろう。僕はそっとその紫陽花を受け取った。 「有難くいただきます」 「またいつでも来て下さい」 「名前を伺っても?」 「雨京と申します」  それから僕は一日置きに紫陽花を見に行った。相変わらずすっきりしない天気にすべてが億劫に感じる日もあるけれど、綺麗な紫陽花を見ると不思議に心が落ち着いて前向きな気持ちになれた。  雨京さんは僕が紫陽花を見に行くと必ず家から出てきてくれる。いつもTシャツとチノパンという気楽な格好だけど、時々甚平を着てくることがある。紺のしじら織甚平を、逞しい筋肉質な身体に纏っている姿はすごく格好いい。いかにも日本人男性という顔つきの雨京さんによく似合った。涼しくて着易いですよ、と勧められたが、僕は着こなせる自信がないのでやめておく。  紫陽花を見ながら三十分ほど雨京さんと話をする。雨京さんは表情も喋り方も淡々としているけれど、優しくて器の大きな人だと思う。仕事の愚痴をこぼしてしまっても、退屈そうにしないで聞いてくれるし、僕がいつもこの辺を一緒に歩いている男の人は恋人だと言っても下世話な反応をしない。 「あなたのような人に想われる彼は幸せですね」  けれども、それには残念ながら何も答えられなかった。  雨京さんは恋人にどういう風に接するのだろう。少なくとも亮也のような粗暴な振る舞いはしないはずだ。そんな風に雨京さんと亮也を比べてしまっては自己嫌悪に陥った。 「雨京さん、恋人は?」 「いません。意中の人ならいますがね」 「どんな方なんですか?」 「それは秘密です」  帰る時間が迫ると、作り過ぎたからと夕飯のおかずを分けてくれる。金平だったり、煮浸しだったり、漬物だったり。いつも僕が行くとタッパーに入れて用意しておいてくれるので、作り過ぎたというより、もしかしたら分けてくれるために多めに作っているのかもしれなかった。そう思うと雨京さんの優しさに胸が痛くなった。

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