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第3話

 雨京さんにもらった紫陽花を枯らすのが勿体なくて、装飾花を何枚か取って押し花にすることにした。押し花なんて古風な少女趣味だなと思われるかもしれないけれど、雨京さんは読書が趣味らしいので、栞にしてあげたら喜んでくれるだろう。いつも貰ってばかりなので、僕からのささやかなお返しだ。  栞作りに没頭していたせいで、亮也が仕事から帰ってきたことに気付かなかった。「オイ」ときつめに言われてハッとした。亮也が僕を睨むようにして見下ろしている。 「さっきから呼んでんだろ」 「ご、ごめん」  盛大な溜息をつきながら亮也は僕の前の席に座った。 「急に押し花なんか始めて気持ち悪ィな。紫陽花なんかどこで貰ってきたんだよ」 「ご近所さんだよ。雨京さんっていう男の人、知らない?」 「さっさと捨てろよ。テーブルの真ん中に置かれちゃ邪魔なんだよ」 「でも、まだ綺麗に咲いてるし」 「花が好きな男なんか気色悪いな。どうせそのウキョウって奴もヒョロヒョロした奴なんだろ」  ヒョロヒョロしているどころか、雨京さんはフットサルをしている亮也より断然逞しい体をしている。運動で無理やり鍛えた体ではなく、生まれ持って逞しいのだ。勝手な想像で物を言うのはやめて欲しい。それに、もしそうだったとしても、植物を大事にしているなんて素敵なことじゃないか。そう言い返したかったけれど我慢した。プライドの高い亮也にそんなことを言ったら怒らせるからだ。僕が何も言わないでいると、亮也は畳みかけてくる。 「時々おかずも貰ってくるだろ。それもウキョウって奴がくれんのか? 女々しい奴」 「雨京さんはいい人だよ。亡くなったお母さんの紫陽花を大事にしてる優しい人だ。料理だっていつも作り過ぎたって言うけど、わざと多めに作って分けてくれる。亮也だって食べてるんだから、むしろお礼言わないといけないくらいだよ」  あ、と思った時には遅かった。亮也が冷たい眼で僕を睨んでいる。 「……お前がそうやってよその男とヘラヘラしてるあいだに俺は仕事でヘトヘトになってるってのに。今まで花なんか興味も示さなかったくせに、その男に貰った途端、花瓶なんか買いやがって」  亮也はただ機嫌が悪い時はむやみに声を荒げるだけだけど、本気で怒っている時は呻るように声を低くする。僕は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。けれども間違ったことは言っていないはずだ。 「別にヘラヘラなんか……してない……。雨京さんと話すのは普通に楽しい、だけ」 「俺は楽しくないっていうのかよ」 「そうやって上から押し付けるような態度を取られたら誰だって嫌だと思う。よく知りもしない人のことをバカにするのを聞いたり、扱き使われて楽しい人っているのかな」 「お前だっていっつも辛気臭ぇツラして、こっちのほうが気分悪いんだよ!」  亮也は花瓶を思い切り払いのけた。テーブルから落ちた花瓶はパリン、という音とともに割れ、紫陽花は葉やつぼみを散らした。 「なにするんだよ!」 「苛々すんだよ! そんな花、二度と持って帰ってくんな!」 「そうやって僕を邪険にするくらいなら、さっさと別れたらいいだろ!? 僕は亮也のストレス発散のための道具じゃない!」  大概、我慢の限界だった僕は勢い余って家を飛び出した。夜も更けた住宅街では行くあてもないのに、何も持たずに出てきてしまった。運悪くポツポツと雨が降ってきた。風が強い暗闇の中で雨に打たれるなんて、底まで落とされる気分だった。薄いTシャツ一枚では寒さも冷たさも凌げず、震えが止まらない。闇雲に歩いていた時だった。 「陽向さん」  大きな手が僕の腕を掴む。顔を上げると雨京さんがいた。どうしてここに、と言おうとして気付いた。僕はどうやら無意識に雨京さんの家へ来ていたらしい。すぐ傍に紫陽花があった。 「こんな時間に雨の中でどうしたんですか」 「……ちょっと……喧嘩、して」 「喧嘩?」 「一緒に住んでいる彼と喧嘩して、家を出て来たんです」 「帰ったほうがいい。いくら男性でもこんな夜道では危ない。たまたまカーテンを開けてあなたが歩いているのを見つけたから良かったけど、わたしが見つけなかったら一体いつまで外にいるつもりだったんですか」  送っていきます、と手を引かれたが、僕は動かなかった。子どもが駄々をこねるように、雨京さんの手を振り払って、絶対に帰りたくないと意地を張った。雨で体が冷えていく。本当は暖かい部屋が恋しいのに。やがて小さく溜息をついた雨京さんが言った。 「分かりました。今夜はうちに泊まって下さい」

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