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第1話

 錆び付いたベランダに雨の振り込む音が聞こえる。外は雷雨で荒れていた。  そんな薄暗い部屋のなかに男がふたり、パイプベッドの上でひとつになっていた。それをたまの稲光が明るく照らす。 「ね、教えて。どうしてあのとき、僕を殺さなかったの?」  頬に小さな傷のある若い青年が、組敷いている男に問いかける。  そこに恋人同士のような甘さはなく、その行為はまるで拷問のようだった。 「殺そうと思った。でも、殺すために抱き上げたら、あったかくて、ちいさくて、いとおしさが溢れたんだ……ヒ、ギィッ!」  頬に傷のある青年が男の腰を掴み、腰を乱暴に打ち付けたため、男は呻き声をあげた。 「いとおしい? 僕の母親のことは、あんなにも残忍に殺したくせに。僕は全部、全部を見ていたぞ。春日良一」 「おい、どうして泣くんだ……泣かないでくれ」 「春日良一、アンタは僕の何なんだ」  一瞬の眩しい光の後、轟音が立て付けの悪いガラス戸を震わせながら鳴り響いた。      ※  骨に当たりなかなか奥まで突き刺さらないナイフを、男は忌々しげに睨み付けた。  ぐったりと、それでいてヒクヒクと痙攣を起こして横たわる、目の前の肉体の至るところをさらに刺す。  血がとろとろと床に溢れていき、できた赤黒い水溜まりが膝をついていた男のズボンを濡らした。  手についた血でついにナイフが滑り落ち、血溜まりを潤滑油につるりと床を泳いだ。  ナイフを追いかけた男は自分の作った水溜まりではないものに気がついた。鼻につくアンモニア臭。その上には、まだ小さな男の子が立っていた。  男はその男の子にナイフを向けた。怯えて動けない男の子を抱えて、男は子供部屋のベッドに寝転がった。  まるで抱き枕のように男の子を抱きしめて、男は眠った。ぐっすりと。その時に男の持つナイフが男の子の頬を傷付けたが、男の子は声をあげることもせず、されるがままだった。 「そして男はそのまま眠り続けてしまい、その家の父親が帰ってきたことで捕まったわけだが、犯人の男はまだ中学2年の男の子だった」  白髪混じりの男がそう言うと、吸い殻で溢れている灰皿に今まで吸っていたタバコを押し付けて消した。  その光景を不織布のマスクをした男が見つめながら言った。 「それは、公表されているお話ですよね。僕は、あなたが調べた当時13歳の男の子の、公表されていないお話が知りたいんです。少年犯罪を専門に記事を書いていたあなたなら、色々とご存じのはず」 「ふぅん……ところでアンタはどうしてこんな事件を調べているんだい? まだ学生だろう?」 「少年犯罪が、卒業論文のテーマなんです。それで、色々調べてて」 「少年犯罪なら、もっとインパクトのある事件があるでしょう? ほらあれ、被害者をコンクリート詰めにしたやつとか」 「そうですね。でも、僕はこの事件で論文を書きたいんです」 「そうか。まぁ、もう古い事件だからねぇ。あまり協力できないかもしれないけど。そういえば被害者の男の子、確か吉野巧くんだっかな? あの子は当時小学1年生だったなぁ……もう15年も前の話だから、もうハタチは越えてるな。ちょうど、アンタと同じくらいか?」  白髪の男はマスクの青年をじぃっと見て言った。マスクの青年は鼻で笑って肩をすくめてみせると、そっとマスクを外した。  色の白い、不健康そうな頬に一筋の古い傷痕が刻まれている。  白髪の男は椅子から立ち上がり古い段ボールを漁ると、紙表紙のくたびれたフラットファイルを取り出した。ファイリングされている一枚一枚を丁寧にコピーすると、クリアファイルに入れ青年に渡した。 「当時の資料と、ボツになった俺の記事だ。好きに使え……ただし、ネットに晒すのは勘弁してな。一応、実名も載ってるから」 「大丈夫です。実名はもう調べていますから。ありがとうございます」 「なあアンタ……いや、巧くん。なんで今さらこの事件のこと調べてんだ?」 「忘れてしまったんです。事件のこと」  青年、吉野巧はカバンの中に資料の挟まったクリアファイルを入れると、扉の前で部屋を出た。白髪の男はその後ろ姿を扉が閉まる瞬間まで見ていた。

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