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第1話:コイツはモデルで変態でオバカ

 小綺麗な応接室内に、呻き声が響き渡る。 「う……痛……ぃ……」  しかし、久住奏人は完全無視を決めこんだ。  誰が、救ってやるものか。  すると机を挟んだ反対側のソファーに座っていた社長の金井が、大人の渋みを持つ顔を小さく崩して、笑った。 「そろそろ、許してあげてもいいんじゃないか?」  その声に反応し、読んでいた資料から視線を上げた奏人が壁際を見遣る。と、そこには息を呑むほど美しい男、鵜飼ケイが冷たい床の上で正座するという奇異な姿があった。 日本人にしてはやや彫りが深く、鼻筋の通った端正な顔に涼しげな目元。さらに物憂げな表情が何とも魅力的なこの男は、いわゆる『人の目を引くタイプ』の人間であり、ただそこにいるだけで異様なまでの存在感を放つ。    だがいくら容姿が完璧でも、正座の理由が『悪ふざけをして叱られたから』では目も当てられない。 「けどもう三十分も経つぞ? さすがにケイも辛いだろ」 「いいえ、この打ち合わせが終わるまで、あのままでいさせます。でないと反省になりませんから」  ケイに温情をかけようとする金井の提案を冷たい声で却下し、艶のある黒髪をサラリと靡かせながら視線を資料へと戻す。すると奏人の威圧に負けた金井は、苦笑いを浮かべたままさっさと引き下がった。 「そ、そう……でも、今日は一体どんな悪さをしたの?」 「それは――――」 「あのね、今日も奏人さんが可愛くて……抱きついたら我慢できなくなって……ついキスしちゃった」  奏人が説明しようと口を開いた矢先、壁側から、耳心地のよい声が割りこんできた。足の痺れを我慢しているため、少し苦しそうだが、それでも十分魅力のある低音だ。 けれど、それで誤魔化される奏人ではない。 「ケイ、俺がいいって言うまで、喋るのも禁止って言ったはずだけど。あと、五つも年下の人 間に可愛いって言われたくない」  再び絶対零度の視線で、睨みつける。 「…………ごめんないさい」   奏人の怒気を感じ取ったのか、ケイは素直に謝ると口を噤んで双肩を縮めた。 「キスか、それは災難だったな」  二人の様子をみていた金井が、プッと吹き出す。 「ええ、本当に。道で不意に犬のアレを踏んだぐらい災難です」 「犬の……ま、まぁさ、久住君もケイに劣らず綺麗な顔してるから、つい出来心でしちゃったんじゃないの?」  決して悪気があったわけじゃないと、金井がケイを助けようとする。 「金井さんまで、そんなことを言うんですか? 俺、綺麗って言われても、全然嬉しくありません」 「そう? 普通なら嬉しいと思うけど」 「この外見のせいで学生時代、同級生から『男を惑わす妖艶な女みたい』って散々からかわれましたけど」  中性的な容姿に加え、高貴な猫のような瞳、そして紅をさしたかのごとく赤みの濃い唇。これが女性なら何も文句はないだろうが、奏人にとっては少しも褒め言葉にならない。 「そうか、それは災難だな……」 「ええ、本当に。あと悪気のない人間は、舌まで入れてこようとはしません」  あまりにも毎日周りでうるさくされて仕事にならないから、時と場所を弁えるという条件で抱きつくことは『仕方なく』許したがキスは別だ、もっての外だ。 「え、舌まで入れられたの?」  さすがに、それは駄目だろう。庇いきれなくなった金井が呆れた目で壁際を見ると、慌てた様子でケイが否定した。 「入れてないよ! 入れようとした途端にバインダーで思いきり殴られちゃって、最後までできな…………」  鎖骨の下まで伸びるアッシュブラウンの髪が、首を振ったことでフワリと揺れる。緩やかなウェーブがかかっているそれは、男にしては長めなのに全く違和感を覚えない。いつもならマネージャーという立場上、褒めることもあるが今はそれすらも腹立たしかった。 「ケイ、俺は何て言った?」  たった一言に、全ての怒りを詰めて投げつける。今度はもう、睨んでやることもしなかった。 「打……ち合わせが終わるまで、正座したまま一言も喋るなって」 「約束破ったら、どうするって?」 「仕事以外、一切口をきかない……」 「今は?」 「打ち合わせ中です」 「分かってるなら、いいよ」  じゃあ、すぐに黙れと最後通告をする。奏人の言葉から優しさが消えたことで、今度こそ最後だと悟ったのだろう。ケイが完全に沈黙した。  これで、ようやく打ち合わせに集中できる。安心して読み終えた資料を纏めていると、金井が感心した様子でうんうんと頷いた。 「しかし、すごいね。これまで誰一人手綱を握れなかった人間を、ここまで従順にさせるなんて。ケイがこの事務所に入ってから四年経つけど、今みたいに『言ってきかせる』を成功させたのは久住君だけだよ」  ケイはその美しい容姿と理想的な体格から、この業界でも知名度の高いモデルの一人として名を連ねている。故に雑誌の仕事などは途切れることなく入ってくるのだが、当の本人が仕事に興味を持っていないため、奏人がマネージャーになるまでずっと、気に入らない仕事は一切してこなかった。そのケイが、今では奏人がいるならと仕事を受けるようになった。事務所の社長としては、その変化が喜ばしくて仕方ないらしい。 「そんな、大袈裟ですよ。ちゃんと強く言えば……」 「それが誰にもできなかったんだよ。だから、うちの事務所にとって久住君は救世主のようなものだ。こればかりは突然君を引っ張りこんできたケイに感謝しないとな」  笑う金井の言葉で、奏人はふとケイと出会うきっかけとなった出来事を思い出す。  あれは今から一年前の話。 当時、ビルのアルバイト清掃員をしていた奏人は、仕事で訪れた撮影スタジオのロビーで、手に火傷を負ったケイを見つけた。  どうやら買ったばかりのカップコーヒーを零してしまったらしい。目に入ったケイの手は痛々しさに目を細めたくなるほど、赤くなっていた。  当然驚いた奏人は、大丈夫かと声をかけた。  が、返ってきた言葉は衝撃的なものだった。 『ねぇ、この火傷放って置いたらボク、死ねる?』    勿論、その程度の火傷で死ねるはずがない。けれど抑揚のない声や、人と話しているのにどこか遠くを見ている眼差しからケイが本気で死を期待していることを悟った奏人は、即座に腕を掴んで洗面所へと走った。  そして患部を流水で冷やしながら、「甘えたことを言うな!」と一喝したのだ。  ケイがどんな理由で死を望んでいるかは知らない。だが、簡単に命を手放そうとするのが、どうしても許せなかった。  その後、怒られたことで唖然としているケイを事務所のスタッフに引き渡し、そのまま帰ろうとした――――ら、突然ケイに抱きしめられたのだ。  しかも、多くの観衆がいる前で「貴方はボクの運命の人だ! 貴方の言うことなら何でも聞くから、ずっと側にいて!」と告白までされる始末。  当たり前だが、奏人はケイを振り切って逃げようとした。だが助けてくれるだろうと思ったスタッフにまで逃亡を阻止されたため、結局観念せざるを得なくなったのだ。 スタッフ曰く、引き止めた理由は。ワガママなケイが言うことを聞くと言った人間は初めてだったから。    そんな傍迷惑な理由に、無論、奏人は頷くつもりはなかった。が、話を聞きつけた金井にトライフォースプロダクションでの正規雇用に加え、家賃の負担、さらにマネージャー業に必要な車の免許取得も負担するという高条件を提示された瞬間、奏人は見事に落とされた。大学を卒業して早一年、早く一人前の社会人になりたいという願望に、抗えなかったのだ。  こうして始まった、ケイのお世話生活。当初はどうなるかと心配したが、仕事面に関しては想像以上に楽しく、引き受けて正解だと思った。  ただその代わり、ケイの直球すぎる求愛攻撃に毎日悩まされているが。  顔を合わせば好きだ、愛しているだの言われ、抱きしめられる。唇を無理矢理奪われたのも、今日が初めてではない。  どうして、ここまで好かれてしまったのか。不思議に思って何度か聞いてみたが、聞く度に「奏人さんは、ボクをボクとして見てくれたから」と、意味不明な答えしか返してこないため、バカバカしくなって追及をやめた。 「まぁ何はともあれ、ケイを生かすか殺すかによって、この事務所の明暗も分かれてくるから、そこのところはよろしく頼むよ」 「それは重々承知してます。ですから飴と鞭と鞭を使い分けて、上手く接して行こうと思ってます」 「鞭のほうが多いんだ……ま、いいよ。それじゃ、何かあったらまた連絡するということで、打ち合わせはこの辺にしておこうか」 「はい」  金井と笑顔で頷き合って打ち合わせを終えると、奏人は手早く資料をバインダーに挟んで席から立ち上がった。  さて、そろそろケイを許してもいい頃か。そう思いながら、壁際に目線を向ける。すると、あれから約束どおり言葉を一切挟まなかったケイが、主人の帰宅を喜ぶ飼い犬のごとく目を輝かせた。 「もう立ってもいいよ」  「うん!」  まるで十九歳とは思えない幼子のような返事をしたケイが、勢いよく立ちあがる。と、途端にその顔が険しくなった。 「どうしたの?」 「……っ……足、痺れた……」 「はぁ……全く、自業自得だよ。ホラ、手貸してあげるから、一度椅子に座ろう」  今にも転びそうなケイに手を差し伸べ、身体を支えてやる。と、次の瞬間、奏人の身体はケイの腕の中にすっぽりと抱きこまれた。  「優しいね。だから大好き」 「こらっ、人が優しくした途端に調子に乗るな!」 「だって……奏人さんの温もりがないと、ボク生きていけないし……」 「そんな言い方しても、騙されないよ。って、何、人の尻触ってんの!」  ふと臀部を弄る感触に気づき、声を荒げる。続けて抱擁のわずかな隙間から腕を振り上げると、持っていたバインダーの角でケイの頭を思いきり叩いた。 「痛いっ」  ボコン、と聞くだけで痛そうな音が部屋中に響いた後、痛みに負けたケイが奏人から離れる。 「ひ、久住君、ソレ、一応商品だから角はやめよう、角は!」 「ええ、ですから髪の毛がある場所を叩いてるんです!」  例え患部が派手に腫れたとしても、ケイは長髪だから結ってしまえば見えることはない。というよりも寧ろ、瘤ができて結う時に痛がればいい。 「余計なことする元気があるなら、休まなくてもいいね。さっさと次の現場に移動するよ」 「でも、足の痺れは本当で……」 「錯覚だよ」  人の優しさを仇で返す人間に、温情なんていらない。問答無用に外へと出て行く奏人の後をケイがヒヨコのようによちよちと歩いて続く。その何とも情けない姿を廊下で目撃した別のスタッフ達は皆、驚いて立ち止まったが、またいつものことだと笑いを浮かべて二人を見守った。

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