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第8話:必死に努力する姿に、俺の心は揺り動かされたんだ。
愛する人のために、心の傷を乗り越える。
言葉にするのは簡単だが、現実は甘いものではなかった。
ケイがショーへの出演依頼を正式に受けた後、開催日までの時間がないということで過密なスケジュールが組まれた。既に入っている雑誌の仕事をこなしながらフィッティングやスタイリングの打ち合わせをし、空いた時間でウォーキングのレッスンをする。
そういった仕事量の増加はさほど大変ではなさそうだったが、ケイにとっての最大の難局は会場に移ってからのリハーサルで訪れた。
たった一度、会場に作られたランウェイを歩いただけで、ケイは嘔吐を繰り返すようになったのだ。
食事も満足に取れない。けれど体力を落とすわけにはいかないため、無理矢理食事を口に詰めこむのだが、舞台から帰ってくると全て吐いてしまう。
だが、それでもケイは一度として諦めると言わなかった。
そんな彼の強さに胸を打たれながらリハーサルを過ごし、迎えた当日。
「奏人」
ショーが行われる会場の関係者通路、ケイの控え室のすぐ外で待機していた奏人に声をかけてきたのは、心配そうな顔を浮かべるセドリックだった。
「ケイはまだ中デスカ? もうそろそろ時間なんデスが……」
「うん、ギリギリまで一人になりたいって」
「そうデスカ。それで体調の方は……?」
閉ざされている控え室の扉を見つめながら、セドリックが不安そうな表情を浮かべる。
「今のところは大丈夫。あ、でも、セドリックが厚意で個室を用意してくれたおかげで、大分気が楽だって、ケイも言ってたよ」
「部屋を用意することぐらい、お安いご用デス。というよりも、ケイは私が直に指名したモデル、デスからネ。それ相応の待遇はうけるべきデス」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ。じゃあ、俺はケイの体調を見ながら舞台裏まで連れて行くから、待っててもらえる?」
「分かりマシタ。では、あとは奏人に任せることにしマス。あ、それとは別に、ショーが始まったら、関係者席にきてもらえマスカ?」
実は関係者席のいい場所を、取ってあるとセドリックは言う。
「でも、俺はマネージャーだから舞台裏にいないと……」
「ショーが始まってしまったら、舞台裏はモデルとスタイリストがメインになりマス。ですから、マネージャーの出番は終わるまでそんなにありまセンヨ。それにモデルの晴れ舞台を見届けるのも、マネージャーの仕事の一つ。そうじゃありまセンカ?」
ケイにはセドリックが選んだトップスタイリストや、もしものための救護員も待機させている。だから大丈夫だと言われ、奏人は納得する。
「分かった。じゃあ、ケイを送り出したらセドリックのところに行くね」
「ええ、待ってマス」
笑顔で別れ、去って行くセドリックの背を見届ける。それから奏人は大きく深呼吸をし、控え室の扉を小さく叩いた。
「ケイ、俺だけど入ってもいい?」
声をかけると、すぐに中から『どうぞ』という返答がかえってくる。奏人はゆっくりと扉を開けて、中へと入った。
直後、奏人は驚きにワッと声を上げる。
「ケイ、すごい綺麗! まるで別の人みたい」
美しく結い上げられた髪と、少々濃い目のショーメイク。そして恐らく、ケイしか着こなせないだろう、奇抜かつ、繊細に作られた衣装。それら全てがケイの魅力を百パーセント引きだしている。
さすが世界でトップデザイナーと呼ばれているセドリックだ。だが、それ以上にそれら全てを着こなしてしまうケイもすごい。
やはり、ケイは正真正銘のトップモデルだ。見ているだけで胸が高鳴る。
「ありがとう。奏人さんにそう言ってもらえると、嬉しいよ」
目を輝かせながら見つめる奏人に対し、ケイは優しく微笑んでくれる。
けれど、その笑顔には少し違和感があった。
「ケイ……あ……」
よく見ると、握り締めた手が震えている。
まだ恐怖が残っているのだ。すぐに察した奏人は、椅子に座るケイの前で膝を折った。そのまま床に膝を着き、見上げる形でケイを覗きこみながら両手でケイの震える手を包みこむ。
「大丈夫?」
「……大丈夫だよ」
「嘘、こんなに震えてるくせに」
苦笑を零しながら突っこんでやると、ケイは観念したように眉を下げた。
「そうだね。まだ、ちょっと不安があるかな……」
「じゃあ何が不安か、一つずつ俺に教えて」
俺が全部解消してあげるから。自信満々の顔を見せて、不安を吐き出すことを促す。と、ケイはちょっとだけ困惑を見せながらも口を開いた。
「もし、ランウェイを歩いている途中で気分が悪くなったら、どうしよう?」
「そうなったら、逃げてきちゃえばいいよ。俺も一緒に逃げてあげるから」
「緊張して、こけちゃったら?」
「その時は、ケイ以上に目立つ声で大笑いして、お客さんの目を逸らしてあげる」
気分が重くならないように軽く返すと、ケイからも小さな笑いが零れた。それから数秒置いて、ようやくケイが一番の不安を漏らす。
「……リハの時にね、時々彼女の幻影が頭に浮かぶことがあったんだ。ランウェイの先端に立って、蔑むような目でボクを見てる。それで失敗した時もあって……」
もし、本番で母親の幻影を見てしまったら。それを考えると足の震えが止まらないと、ケイは胸中を吐露する。話を聞いて奏人は、自分ができることはないかと考えたが、母親の幻影を見ないようにランウェイの先端に立つわけにもいかない。
一度舞台に出てしまったら、一マネージャーである自分は何もすることができないのだ。そう思うと、悔しくて堪らなかった。
「ただ……」
「ん?」
「本当は怖くて逃げ出しちゃいたいけど、やっぱり逃げたくない。奏人さんに、格好いいって言われたいもん」
奏人に認められる男になるために、絶対に逃げない。そう語るケイは見たことのないほど強い目をしていた。
誰よりも格好よく、凛々しい。
心が、突き動かされる。
「ケイ」
奏人は呼びながら、腰を上げた。
ゆっくりと近づく二人の顔。その時の奏人の目に映るケイは、驚きに双眸を見開いていた。近くで見れば見るほどケイは綺麗で、触れたくなる。そんなことを頭の隅で考えながら、奏人は――――そっと自らの唇をケイに重ねた。
「ん……」
触れたのは、ほんのわずか数秒程度。けれど、それは確かにキスだった。
「奏人……さん……?」
「……え、あっ! ごめん、俺、何して……」
名を呼ばれたことで我に戻り、慌てて身体を離そうとする。しかしその腕をケイに掴まれ、再び引き寄せられた。
身体が、ケイの腕に包みこまれる。
「嬉しい、奏人さんからキスしてくれるなんて」
「本当ごめん、本番前なのに……」
キスした理由なんて、自分でも分からなかった。ただ、ケイの決して折れない強さと眩しさを前にしていたら、引き寄せられてしまったのだ。
「すごく、大きな勇気をもらったよ」
抱きしめられる心地好い体温と、耳朶を優しく撫でる落ち着いた声。聞いているだけで安心する。本当はいつ、この身体が薄汚れた欲望を晒すかわからないから、抱きしめられるのは怖いけれど、それでもこのままがいいと心が願ってしまう。
「奏人さん、大好きだよ。ボク、今日は奏人さんのためだけに頑張るね」
もうすでに馴染みになってしまった言葉。今日ばかりはずっと聞いていたいと思ってしまうが、もう時間が迫っている。奏人は柔らかくケイの背中を叩き、惜しみながら抱擁を解いた。
「うん、ケイが頑張ってるところ、ちゃんと見てるから」
笑って頷く。
するとケイは返事の代わりに、奏人にしか見せない笑顔を浮かべて頷き返してくれた。
きっとこれ以上、ケイに励ましの言葉はいらないだろう。
確信した奏人はケイの隣にそっと寄り添って、共に控え室を後にした。
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