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第13話:明かされた衝撃の真実
心に柱があるとするなら、今の奏人の柱はきっと見るも無残に折れていることだろう。
大切に守ってきた希望を奪われてから、身体が動かなくなってしまった。今でも彰文を説得してケイの下に帰りたいという願いは変わらないが、気力が生まれない。
この一週間、一日中ベッドの上で横になり、無駄な時間を消費していく。
そのうちに「自分はこのまま灰色の世界に囚われて、消えてしまうのではないか」と思うようになったが、今の奏人にはどうすることもできない。
「――――奏人、入るぞ」
何も考えないまま一人で宙を見つめていると、不意に部屋の扉が開き、彰文が中へと入ってきた。
その姿を、目線だけで確認する。
最近、彰文を見ても何も思わなくなってきた。どうせ好き勝手に身体を開いて、満足すればいなくなるのだ。なら好きにすればいい。
「まるで人形だな。まぁ、俺はそれでも構わないが、今は起き上がったほうがいいぞ」
彰文に促され、奏人は沈黙を保ったままノロノロと身体を起こす。
「今日はお前に会いたいという人間を連れてきた」
「俺……に……」
「そう鬱屈そうな顔をするな。せっかくお前に会いにきた鵜飼ケイが、悲しむぞ」
「え……?」
予想の中にすらなかった名前を唐突に出され、奏人はまるで生き返ったかのように、双眼を見開く。
「嬉しそうだな。なら、早速入ってもらうか」
「ま、待って、何でケイが……」
慌てて立ちあがり、彰文の下に駆けよる。そして理由を聞くが、「それは本人から直接聞けばいい」と撥ね除けられた。しかも、まだ心の準備すらも整っていないのに、彰文は扉の外に向かって入ってもいいぞと、続ける。
すぐに、ゆっくりと扉が開けられた。
外からまず、長い人影が室内に入ってくる。それから間を置かずに、会いたくて堪らなかった人間の姿が目に飛びこんできた。
少し痩せただろうか。いつものようにシンプルなシャツとパンツをきちんと着こなし、静かながらも風格を感じさせる佇まいを見せているが、最後に見た時よりも幾分か影が濃くなったかのように見える。
「ケ、イ……」
「奏人さん」
目が合った瞬間に、自然と名前を呼び合った。
ケイがふわりと微笑んでくれる。
涙が溢れそうになった。
同時に愛おしいと思う気持ちが胸の奥からどんどん湧き出てくる。黙って出てきてしまったことに少々の気まずさはあったが、それ以上に再会できた嬉しさが勝って、心を躍らせた。
「どうして、ここに……?」
「セドリックに頼んで調べてもらったんだ。そしたら奏人さんが、ここにいるって」
だからここまで来たのだと、ケイは言う。
何故ここでセドリックの名が、と不思議に思ったが、奏人はすぐに納得した。セドリックの人脈の広さは群を抜いている。彼が本気を出せば、人一人の居場所なんてすぐに特定してしまうだろう。
「……ねぇ奏人さん、ボクと一緒に帰ろう? 社長もスタッフも皆、奏人さんの帰りを待ってるよ」
「え、でも俺、事務所に退職届が……」
「それは奏人さんが自分の意思で出したものじゃないでしょ? 社長も奏人さんの字じゃないって言ってたし、ボクと一緒にいたいと言ってた奏人さんが、そんなものを出すわけがないと思ったから、受理しないように頼んでおいたよ」
ケイとの会話の途中、不意に彰文が鼻で笑う。
「麗しい友情だな。だが、悪いが奏人を渡すわけにはいかない。奏人は俺の物だからな」
割り込んできた彰文の言葉に、ケイの視点が冷たく切り替わった。
「奏人さんは物じゃない、人間だよ。いくら親族だからって、奏人さんを物扱いするのは許さない」
物言いはいつもと変わらないが、言葉の中に棘のような鋭さを感じる。
「威勢がいいな。そんなに君にとって奏人は大切なものか?」
「勿論。奏人さんは命より大切な人だよ」
「命より大切か……青臭いことを言う。まるで学生の恋愛ごっこを見ているようだ。どうせ君は、自分には同性の壁をも越える深い愛があるなんて、生温いことでも考えているんだろう? だが、そんな甘い覚悟だけで、奏人の相手ができると思っているのか?」
「それは……どういう意味?」
彰文の含んだ言い方に、ケイが怪訝な表情を浮かべる。
瞬時に奏人は嫌な予感を覚えた。
そして、その予感はすぐに的中する。
「君は奏人のことを、心も身体も清らかな人間だと勝手に思いこんで、勘違いしていると言っているんだ。本当の奏人は――――」
「彰文さんっ!」
やはり、彰文は奏人の性癖をケイに話すつもりだ。気づいた奏人は、声を上げて彰文の言葉を止めた。
「ケイに、余計なことを言わないでくださいっ!」
やにわに大声を上げた奏人を、ケイが驚いた顔で見る。その様子に彰文は口角を上げて、企みのある笑みを浮かべた。
「何故止める? 本当のお前を知ってもらういいチャンスじゃないか」
「嫌です! 止めて下さい!」
ケイに汚れた本性を知られる。考えるだけでも狂ってしまいそうだった。
「奏人さん……?」
必死に隠そうとしているところを、ケイが不思議そうな顔で見つめてくる。きっと、ケイは奏人の全てを知りたいと言うだろう。けれど、絶対にあの姿を知られるわけにはいかない。
「ケイ、ごめん……いくらケイでも……駄目だ」
「どうして? 奏人さんのことなら、ボクは何があっても平気だよ」
「そういう問題じゃない。俺が知られたくないんだ」
必死に訴える奏人を見て、ケイが戸惑いを浮かべる。そんな様子を見て、彰文が面白そうに笑った。
「だが、真実を知らされない限り、彼は納得しないぞ」
そうだろう、とケイに話を向ける。
「今、何も聞かず、奏人も諦めてこのまま帰るか、残って話を聞くか。君はどっちを選ぶ?」
わざと気掛かりが残るような言い方で、彰文がケイを煽る。
「ボクは…………奏人さんが困ることはしたくない。けど、ここで奏人さんを諦めるわけにはいかない」
「ケイ!」
奏人は真実を知る選択をしたケイを止めるため、駆け出そうとする。しかし、すぐに彰文の腕に捕まり、そのまま胸の中へと抱えこまれてしまった。
「せっかく彼が知りたいと決めたのに、邪魔をしては駄目だろう」
「離してください!」
腕の中で必死に抗い、逃れようとするが、奏人の力では片腕すら振り解くことができない。そのうちに彰文が空いた手でポケットから何かを取りだし、ケイに向かって投げた。
一体、何を渡したのだ。注視すると、ケイの手に一台のスマートフォンが握られていた。
続けて、スマートフォンのスピーカーから耳を疑いたくなるような音声が聞こえてくる。
『やっ……ぁん……っ、彰……文さん……』
瞬間、驚き過ぎて心臓が止まるかと思った。
「な……んで……」
少々音が割れている部分もあるが、それは紛うことなく奏人の嬌声だった。
「それは、奏人が十七歳の時の映像だ。目隠しされているが、君ならそれが奏人だと分かるだろう?」
そして、奏人を相手にしているのは勿論、自分。彰文は勝ち誇った顔で内容を語る。
「ケイ、やめて、見ないでっ! 今すぐ、それを消して!」
画面を見つめたまま、驚きの眼で固まるケイに向かって叫ぶ。
「お願いだから、ケイ! ケイっ!」
「もう遅い。彼は今、お前が淫らに男を求める姿にご執心だ」
「あ……あぁ……」
現実を前に、奏人は彰文の腕から離れ、足元から崩れた。
『もっと欲しいか、奏人。欲しいなら、何をすればいいか分かっているだろ?』
『……しい……んぁっ……あ、ぁん……欲しい、もっと……っ、熱くて太いの……』
どんどん心が苛まれ、壊れていく。いっそこの場で意識を失い、そのまま二度と目覚めないでいられるなら、どれだけ幸せなことだろうか。しかし、現実から逃げることができない奏人は両手で頭を抱え、蹲ることしかできなかった。
「今も十分綺麗だが、昔の奏人も綺麗だろう? 縛られて卑猥なおもちゃで責められているというのに、嬉しそうに腰を振っている」
奏人はもう、否定の言葉すら紡げなかった。
恐らくケイは映像の中の奏人を見て、嫌悪感を抱いていることだろう。
もう全て終わった。
「これで分かっただろう? 奏人は君が思っているような純潔でもなければ、君の手に負える人間でもないことが」
勝ち誇ったかのように、彰文が唇を釣りあげて笑う。
それからわずかの間、三人の中に沈黙が流れた。が、スマートフォンから流れる動画が途切れたことを機に、ケイが顔を上げて口を開く。
「貴方は、奏人さんのことを愛してるの?」
動揺のない、落ち着いた声で彰文に問いを投げかける。
「何を聞くかと思えば……。無論、愛しているに決まってるじゃないか。奏人は、俺が心から愛してる女性の代わりなんだからな」
「愛してる女性の代わり……」
ケイが悲しそうな声で呟く。声に反応して奏人が顔を上げると、そこには悲しみと怒りが混ざった複雑な表情があった。
「……ざ……るな」
「何だ?」
「ふざけるなと言ったんだ! 他の人の代わりだなんて、そんな理由で奏人さんの自由を奪って、苦しめて……貴方は……ううん、貴方達は奏人さんのことを、一体何だと思ってるんだ!」
部屋中にケイの怒声が響き渡る。
声を張り上げるケイを一度も見たことのない奏人は勿論、その迫力に彰文も言葉を止めた。しかし、すぐに男の関心は別のところへと向かう。
「俺達、というのはどういう意味だ?」
ケイが批難しているのは、彰文一人だけではない。言葉の端から感じ取った彰文が怪訝そうに眉を顰める。
「貴方と奏人さんのお母さん……美菜さんのことだよ。貴方達二人は自分の都合のいいことばかりを大義名分のように語って、奏人さんを蔑ろにする。本当に勝手な人達だ」
「何故、君が美菜の名を……」
やにわに美菜の名を出したケイに、彰文が動揺を見せる。
「美菜さんには、ここに来る前に会ってきた」
ケイが、母に会った。
奏人達でさえも、十年以上会っていないというのに。これには驚きを隠せなかった。
「ケイ……母さん達に会ったの?」
「うん……勝手なことしてごめんね。でも奏人さんを取り戻すためには、美菜さんの事も知っておく必要があると思ったから、そっちもセドリックに調べてもらって……」
唐突に両親の所在を知った奏人の中に、聞きたいことが溢れかえる。
今、どこで何をしているのか。あの時、どうして何も言わずに姿を消したのか。なのに――――。
「母さん達……元気だった……?」
口から出てくるのは、その一言だけだった。
知りたいことが多すぎて、何を一番に聞いたらいいのか分からない。
「美菜さんは、元気だったよ」
「母さんはって……じゃあ、父さん……は?」
「お父さんの方は………八年前に病気で亡くなったって……」
言い辛そうに、ケイが父の死を言葉にする。
「父さんが……」
奏人の記憶にある父の最後の姿は、鬼のような形相して腕を振り上げる姿だったが、それでも暴力がはじまる前は誰よりも優しくて、尊敬できる父親だった。だからだろう、父の訃報に胸が締まる。
「ごめん、辛いこと聞かせて……」
「あ、ううん……いいよ。教えてくれてありがとう」
父の死は辛いが、ずっと知らずに過ごすよりはいい。けれど思いに詰まって、それ以上の言葉が出てこなかった。
すると、二人の会話を黙って聞いていた彰文が、間を見計らって言葉を挟んでくる。
「それで、君は美菜と何を?」
心を壊してしまうほど焦がれた相手の名に、平静を失うかと思いきや、彰文の口調はやけに落ち着いていた。まるで美菜のことになど、興味がないと言うかのように。
だが、奏人には逆にそれが歪に映った。
もしかすると彰文の心の内もまた、奏人と同様で混乱に溢れかえっていて、それを懸命に隠しているのではないだろうか。そんな風に思えてしまう。
「美菜さんからは、昔の話を聞かせてもらった。貴方との出会いから、奏人さんを置いていなくなるまでの話も、勿論、その後の話も全部」
ケイは、美菜に「自分は奏人の友人だ」と話して近づいたそうだ。そして奏人が何も言わずに姿を消してしまったこと、自分にとって大切な友人だから何としてでも助けたいということを訴え、美菜から何とか話を聞き出したのだという。
「美菜は、君に失踪した理由まで話したのか……」
「最初は戸惑っていたけど、奏人さんのためならって」
不意にケイの声が硬くなる。こちらを見ていた視線も、いつの間にか逸らされてしまっていた。
「ただ、奏人さんには申し訳ないけど、美菜さんの事情を聞いたところで、ボクは仕方がない話だと納得することはできなかった」
一体、母からどんな話を聞いたのだろう。奏人は緊張しながら、耳を傾けた。
「失踪を決めたのも、これまで連絡を入れなかったのも、全部奏人さんを守るため。でも結局、美菜さんはいつも逃げてばかりで、その度に辛い思いをする奏人さんのことを、全く考えてない。……勿論、貴方も含めてね」
ケイが、彰文に凍てついた視線を送る。
「俺が……逃げてるだと? 俺がいつ逃げた? 根拠もないのに変な言いがかりをつけるのは、やめてもらいたいものだな」
彰文が強い口調で捲し立てる。けれど、それに対するケイの反撃も容赦なかった。
「じゃあ、どうして貴方は美菜さんに会いにいかないの? 貴方ぐらい財力がある人間なら、探偵でも何でも雇って彼女を探し当てることができたはずだよ」
ケイが、彰文の弱い部分を言葉の刃で非情に突き刺す。
「それでも探さなかったのは、会いに行って拒絶されることが怖かったからでしょう? だから貴方は逃げて、奏人さんに縋った」
「っ……」
奏人が説得を始めて以降、何度「母に会いに行くべきだ」と言っても、ずっと強気な態度で撥ね除けていた。そんな彰文が、ケイの厳しい責め立てに初めて動揺を表す。
それだけ、ケイの言葉が重たく響いているのだ。
「二人共、人を本気で愛する勇気が足りなさすぎる」
双眸を震わせる彰文に対して、ケイは真っ直ぐ見据えて切りこんだ。普段、奏人以外の人間に対する感情の起伏が乏しいだなんて、嘘かのように。
だが、こうして怒ってくれているのは、紛れもなく奏人のため。だからだろうか、自分の母親を批難されても不思議と怒りは湧いてこなかった。
「本心を言ってしまえば、ボクにとって貴方達の人生なんてどうでもいい。けど、貴方達が逃げ続けることで、本来守られるはずの奏人さんが苦しむはめになるなら、それは絶対に許さない」
「俺の……美菜への愛が足りない? そんなはずがないだろう……俺は出会った時から美菜だけなんだぞ。彼女が結婚しても、奏人を産んでも、愛は全く変わらなかった」
ふと、奏人の視界に固く握られて白くなった指が映った。毅然と振る舞っているように見せているが、明らかに声も震えている。きっと動揺を内側に抑えておくことが、できなくなっているのだろう。
「大切なのは愛の長さじゃない、深さだよ。本当なら貴方は美菜さんが結婚すると聞いた時、家も親も全て捨てて彼女を攫うべきだった。そうしていれば奏人さんも、美菜さんの旦那さんも不幸にはならなかったんだ」
「美菜を攫う、だと?」
彰文から小さな笑いが零れはじめ、それがやがて大きな笑いとなる。
「フッ……ハハッ、君は面白いことを言うな。俺が美菜を攫っていたら、君が大切に思う奏人はこの世に生まれてこなかったんだぞ? それでは本末転倒じゃないか」
重箱の隅を突いたかのような指摘に、ケイが一瞬だけ目を見開く。
けれど、それは自分の言葉が間違っていたことにケイ自身が気づいたから、というようには見えなかった。今のはもっと別の――――そう、言葉にするなら『言ってはいけないことを、つい口走ってしまった』そんな感じだ。
「待って、ケイ。今の……」
思わず言葉を挟んでしまう。
今までケイから聞く話を受け入れることに精一杯で、意味を深く考えていなかったが、思い返してみれば、これまでいくつか引っかかるものがあった。
失踪した美菜の行動が最善ではないというのなら、果たしてケイの考える一番は一体何なのだろう。
そして、今の失言。これらから考えるに、ケイは奏人達すら知らない何かを知っているとしか思えない。
「ねぇ、もしかして母さんから聞いてきた話の中に、俺や彰文さんも知らないことがあるんじゃないの?」
「それは……」
思い切って聞いて見ると、あからさまにケイの動きが止まった。
「やっぱり……ケイ、お願いだから隠さないで。例えケイが知った真実が俺や彰文さんにとって辛いことだとしても、それを聞かないと、俺も彰文さんも前に進めない」
言い淀むケイに、真実を告げるよう願う。すると、ケイは強い困惑を見せながら、視線を彷徨わせた。
しかし、それも一分と保たず、ケイは観念したように口を開く。
「奏人さんは、どうしてお父さんが急に暴力を振るうようになったか、聞いたことはある?」
「ううん、一度もないよ。あの頃の父さんは、とても話ができる状態じゃなかったから」
何を言っても怒鳴り、腕を振り上げる。そんな父を前に、中学生になったばかりの奏人は腕力でも言葉でも無力だった。
「全てのきっかけはね、美菜さんのお父さんの会社を疎ましく思う人間が話した、心無い噂だったそうだよ」
「噂って、どんな?」
「美菜さんには結婚前から愛し合っている男がいて、結婚後もずっとその相手と通じている。だから……」
「ケイ?」
「奏人さんは……その男との子供だって」
衝撃的な話に、一瞬、息が止まる。
が、すぐに彰文が抗議の声を上げた。
「そんなのは嘘だ! 俺と美菜は、彼女の結婚を機に関係を終わらせた。そして、それ以降は一度だって関係を持っていない!」
「美菜さんも、同じことを旦那さんに言ったそうだよ。奏人さんは、自分達夫婦の子で間違いないって」
家族間での血液型の不一致もなければ、親子が似ていないと言われたこともない。そのまま何の問題もなく、十二年という歳月を家族として過ごしてきたのだ。今更そんなことを言われようが、当時の美菜は一切信じなかったらしい。
「でも旦那さんは疑いを捨てきれなくて、結局DNA鑑定をすることになった……」
ケイが酷く辛そうに眉を寄せ、こちらを見る。その顔で、次に続く言葉が何となく分かってしまった。
「俺が……父さんの子じゃないって結果が出た……?」
奏人の質問に、ケイが何も言わずに頷く。
「嘘だ……俺は、そんなこと美菜から一度も聞いていない……」
これには彰文も、酷い狼狽を見せた。瞠目したまま、動けないでいる。
ケイはそんな彰文を横目に、話を続けた。
「美菜さんは、ボクに話すまで誰にも真相を打ち明けなかったそうだよ。勿論、旦那さんにも」
当時、奏人の父に美菜の不貞を耳打ちした人間も、相手が彰文だとまではさすがに言えなかった。加えて美菜も、真実が明るみになれば多くの人間や会社に、影響がでてしまうからと口を閉ざした。
それが、悲劇を生むこととなったのだ。
「そのせいで奏人さんのお父さんは心を病んでしまって、身体も壊してしまった。美菜さんが姿を消したのは、闘病の果てに余命を告げられた旦那さんが、『最期は誰にも邪魔されない場所で、二人だけで過ごしたい』って望んだからだそうだよ」
ケイが話し終えた途端、再び三人の間に沈黙が走った。
彰文は、状況を飲みこむことに精一杯という表情で、天を仰いでいる。
その中、奏人は頭を垂らし、両の瞳をグッと瞑ったまま迷っていた。
一つの家族の運命を大きく狂わせた、全ての発端。それをここで明らかにすることが、自分や彰文のために必要だと分かってはいるものの、どうしても言葉にするのを躊躇ってしまう。
しかし、それでも未来を掴むためには、全ての真実を聞かなくてはならない。
「ねぇ、ケイ……やっぱり俺の本当の父親って……彰文さんなの?」
覚悟を決め、ケイを一直線に見つめる。
その奏人を見て、もうこれ以上隠せないと悟ったのだろう。ケイはすぐに答えを返した。
「…………そうだよ」
すると、すぐ隣いた彰文がふらりとした足取りで、一歩後退した。
「奏人が、俺……の子……?」
「信じられない? でも貴方ほど執着の強い人間なら、今でも覚えてるはずだよ。美菜さんが式を挙げる直前、別れを惜しんだ貴方が最後に一度だけと関係を望んだことを……」
奏人が生まれたのは、それから九ヶ月後。日数的に夫妻の子としても成り立ってしまったがために、当事者ですら信じて疑わなかったと、ケイが語る。
「それでも信じられないというなら、次は美菜さんを疑うことになるよ。彼女が、貴方や旦那さん以外の人間とも関係を持っていたと……」
「バカなことを言うな! 俺が美菜を疑うはずがない。美菜は……夫になる男への不義理だと承知しながらも、俺の願いに頷いてくれた優しい人間だ。そんな彼女が、他の人間と関係を持つわけがない」
美菜を侮辱された彰文が、首を大きく横に振って否定する。
何も言わず姿を消されたうえ、十年近くも会っていないのに、今でも即座に擁護できるほどの強い愛。それは奏人にとって嬉しいものだったが、彰文が美菜を信じるということは、すなわち全てを認めると同義にもなる。
酷く、複雑な気分だった。
「……これで分かった? 貴方達の弱さが、どれだけの人間を不幸にしたかってことが」
本来なら、どちらかが危険性に気づいて踏み止まるべきだった。逆に踏み越えるのなら、二人で覚悟と責任を負うべきだった。それがケイの意見だった。
「奏人が……俺と美菜の……」
真実を知り、呆然とする彰文の目は左右に細かく揺れるばかりで、何も捉えていない。やがて先程よりもふらつきが強くなったと思った途端に、その場で足を崩してしまった。
がくりと首を落とし、床を見つめたまま両肩を大きく震わせる。
「彰文さんっ」
崩れ落ちた彰文に驚いて声をかけるが、返事は戻ってこない。こんな風になる彼を見るのは、美菜が失踪した時以来だ。
今回のことで今より心を壊してしまったら、彰文は二度と元には戻れないのではないか。胸に不安を過ぎらせていると、ふと温かいものに肩を抱かれた。
「奏人さん……」
「ケイ、彰文さんが……」
「うん……今、すごく苦しいと思う。でも、全てを受け入れないと、誰一人、前に進むことはできない」
奏人も彰文も、そして奏人を必要とするケイも。
「ねぇ……奏人さんはどうしたい?」
「俺……?」
真実を知った上で、願うこと。それをケイが尋ねてくる。
奏人は、もう一度彰文を見つめた。
未だ衝撃を受けたまま、動けずにいる。
彼には、確かに怨みにも似た感情を抱いている。けれど願うことは、いつも一つだけだ。
「ケイ、少しだけ待ってて」
立ちあがると、ゆっくりと彰文へと近づき、膝を落として視線を合わせた。
「彰文さん」
「奏人……」
一呼吸を置いてから柔らかく呼ぶと、彰文が怯えた目でこちらを見てくる。
「俺は貴方に、前へ進んで欲しい。そして……これからは、後悔しない人生を生きて下さい」
そっと形にした願いに、彰文が心底驚いた様子で双眸を見開いた。
「どうして……あんな酷いことをしてきた俺に、そんな……」
「正直、貴方を恨んでないと言ったら、嘘になります。でも中学生の時、父さんの暴力で憔悴しきっていた俺を救ってくれたのも、間違いなく彰文さんですから……」
どんな事実を前にしても、決して相殺にならない感謝の気持ち。長い年数が経ってしまったが、今、やっと言える気がする。
「あの時は本当にありがとうございました」
礼を告げて、再び立ち上がろうとする。その時、同じように彰文に近づいてきたケイが、シャツの胸ポケットから綺麗に折りたたまれた紙を出した。
「奏人さん、これ……中に美菜さんの居場所が書いてある。もうボクには必要ないから、好きにしてもらっていいよ」
さも興味がないという顔をしているケイ。だが、渡された紙からは、ケイの大きな愛が溢れ出ていた。
手の中の紙を、慈しむように見つめる。
そして思った。
この愛を次に繋げたい、と。
「彰文さん、これを」
そっと彰文の手を握り、開かせた掌の上に紙を乗せる。
「今度こそ、幸せになって下さい」
飾らない、ただただ純粋しかない願いを告げる。と、彰文が顔を上げた。
「……奏人」
消え入りそうな声と共に、彰文がこちらに何かを差しだす。
「あ……」
それは、奪われていたケイの指輪だった。
「取り上げて、すまなかった」
もう二度と戻ってこないと思っていたものを渡され、心の中が嬉しさで満たされる。まるで、自分の一部が戻ってきたかのようだ。
「奏人……俺は、謝ることすら許されない過ちを犯した。だから……せめて謝れない代わりに、お前の願うよう、これからのことをちゃんと考える」
「彰文さん……?」
「美菜に会いに行く。多分……会っては貰えないだろうが、会って貰えるようになるまで諦めない」
もう絶対に逃げない。
奏人の願いのために。
そして、自分のために。
声にはまだ幾ばくか不安が混ざっていたが、それでも前に進むと、約束してくれる。
彰文はどれだけ心が弱くても、一度言葉にしたことは必ず守る男だ。ならば、もう心配はいらないだろう。
「頑張ってください」
確信を覚えた奏人が、柔らかに微笑む。
「じゃあ……もう俺、行きますね」
立ち上がって、今度はケイに笑顔を見せる。その後、すぐに手に持っていた指輪の存在を思い出した奏人は、アッと声を上げて謝罪を言葉にした。
「あのケイ、これ……勝手に持ち出しちゃって、ごめん」
「ああ、この指輪、奏人さんが持ってたんだ」
「心細かったから、御守り代わりに持っていたくてさ……」
謝りながらケイの手を掬い取り、指輪を手の平に乗せようとする。だが奏人は途中で手を止め、ケイの手を優しく反転させた。
そして、長くて綺麗なケイの指に指輪をとおす。まるで結婚式での指輪みたいに。
「ねぇ、俺、ケイの部屋に行ってもいい?」
今は、一秒でも長く二人でいたい。
「勿論。じゃあ――――一緒に帰ろう?」
「うん、一緒に帰ろう」
微笑み合った二人は、繋いだ手を離さないまま歩きだす。
ずっと求めていたケイの体温。手の平から伝わる温もりを感じていると、ようやく戻れるのだと実感して、また涙が出そうになった。
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