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第8話
マンションの近くにある電話ボックスで小銭を積みあげて、受話器を手にした。
家に電話をかけて姉を呼び出すと、思った通りに叱責が飛んでくる。
「耳が痛い」
『痛いでしょうね、痛いはずだわ。親から大金巻きあげて、なにのつもりでそんなこと』
「俺の結婚資金だろ」
『そうよ。母さんが、苦労して貯めたお金だわ!』
「だからさー、結婚するんだよ。オヤジには言えなかったんだよ。相手を探られたら、たまんねぇじゃん」
『ほんとに……?』
「うん、本当に。好きな女ができたんだ。心底、惚れてんだよ」
胸ポケットには、折りたたまれた婚姻届がある。それは初めて見た美緒の本名だった。
『そう……。その子、大丈夫なの? 借金の清算でしょ?』
「いや、親の入院費」
美緒の嘘をそっくりそのまま真似る。
『……まぁ、あんたがいいならいいわ』
信じていない声を出す姉は、すこぶる勘が鋭い。
『困ったことになったら、また電話してきなさい。お金のことも、今度は私の方にね。親だからってね、ヤクザを脅すようなことはやめなさい』
「これで、あきらめついただろ」
『お父さんは、あんたがしたいようにさせてくれるわよ。ともかく、結婚を理由にして、静岡を離れなさい。相手が事情を知らないと言えば、引き留められることもないでしょ』
「わかった」
『私が入れてる生活費は、残ってるの』
「それは手をつけてない」
『じゃあ、そっちは自分で清算できるわね』
「うん、大丈夫だ」
『大阪はダメよ』
「東京へ行くつもりだから」
『わかったわ』
簡単な別れの挨拶をして、電話を切る。
胸ポケットから紙を取り出し、悠護は公衆電話にもたれた。しばらく目を閉じる。
結婚を約束してからも、美緒はいつもと変わらず悠護の部屋を訪れ、シャワーを浴びて髪を乾かしたあとでキスをした。それまでと違っていたのは、困ったように指を貸してくれることだ。
そして、毛布にくるまった身体を寄せ合って眠った。
寝込みを襲うことはできたし、借金を盾にすれば身体を要求することもできなくはなかった。だけど、これまでとこれからの関係を思えば、そのどちらも無理強いしたくなくて、紳士で通した。
美緒のトラウマになっている過去と、姉の過去がオーバラップしたからかも知れない。心にざっくりと刺さったナイフを引き抜き、血の流れない傷は存在しないも同然だと気丈に振る舞う女の弱みにはつけ込めなかった。
婚姻届をそのままポケットにしまい、小銭を手にして電話ボックスを出る。
結婚の約束が本気だったのかどうか、美緒に確かめることができても、答えは聞きたくない。
婚姻届と金を交換して一週間が経つ。『明日、一緒に役所へ行こう』と言った美緒は、そのまま姿を消した。店のママの話では、一緒に暮らしていた女が連れていったのだと言うが、ふたりは夜逃げ同然で出ていったらしい。
女にはサラ金から借りた三百万ほどの借金があり、そろそろ風俗へ売られるところだったと教えてくれたのは、おやっさんに付き添う若い男だった。借りた先がおやっさんの組の系列だったのだろう。そこからの借金はきれいに返したが、店のママから借りた三十万ほどの金は踏み倒したのだと笑っていた。
その金の出どころが自分だとは言えず、悠護は複雑な気分のまま、婚姻届に書かれた名前の主を探すように探偵へ依頼を出した。その返事が届いたのは、昨日のことだ。
女は存在した。でも、悠護のまったく知らない人間だった。美緒の本名は店のママも知らず、探偵には一緒に逃げたという女の方を探すように依頼を出し直した。
女のことを、美緒は姉のように慕っていた。頼まれて断り切れずに悠護をカモにしたのか。自分から言い出したのか。それは、もうどちらでもよかった。
騙される覚悟は、金を貸してくれと言われたときからしていたのだ。しかし、もしかしたらと思った。
いまでも、そう思っている。
今日にでも部屋の電話が鳴って、美緒が寂しげな声で謝ってくるんじゃないかと……、なかば願うように想像した。
冬の冷たい風が吹き抜け、悠護はブルゾンの襟にあごを埋める。くわえ煙草で振り向く美緒の、少年めいた清々しさを思い出す。
女の借金に半分が消えたとしても、もう半分の金が残っているなら、ふたりは新しい人生を始めることができるだろう。
もしも、男のようなあの子が、男よりも女を好む性癖なら、彼女と幸せになってもいい。
そう思って、足元に目を向けた。
視界が歪んで、悠護は苦々しく奥歯を噛んだ。
一度でいいから、抱きたかったと、心から思う。自分のものにならなくても、他の誰かを大切にしていても、真実の愛とは違うところで本気になった恋だった。
だからこそ、手を出さずにいることで傷つけずに済んだのなら、嬉しくも思える。毛布一枚を隔てた夜が、交わらないふたりの人生を、それでも肯定したと信じたいからだ。
生まれと育ちを憎んで、自棄を起こして刑務所に入り、それでもこの世界と手を切れずにいる。そんな自分が、あの子のよりどころになれたなら、それがたとえ利用されただけだとしてもかまわない。
どこかで幸せになっているなら、二度と会えなくていい。だけど、きっと、自分は美緒を求め続ける。もしも困っていたら、と、それだけを案じてしまう。
涙がコンクリートに一粒落ちて、悠護は鼻をすする。
「寒さが目にしみる……」
独り言で言い訳して、美緒と歩いた道を、いまはひとりでたどった。
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