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第7話
「ちゃんと温まったのか? 風邪ひくなよ」
首に手を当てると、グラスを手にした美緒が振り向く。
「ゴーちゃん」
「うん?」
なにかを言うつもりで来たのだろう。タイミングを計っている美緒の瞳が淡く揺れる。
ソファの背もたれに肘をつき、悠護はこめかみを支えた。美緒のくちびるが動く。
「……お金を、貸して……欲しい」
「お金……」
口の中で繰り返すと、美緒はうつむいた。
「なんのお金? いくらぐらい」
「六百万」
「は?」
「六百万円」
「すごい金額だな。あごがはずれるかと思った。そんな金、俺が持ってると思うのか」
「……無理?」
「なにに必要なんだよ。まさか、変なとこから借りてるんじゃないだろうな。おまえ、パチンコするよな?」
「……お、親の入院費……」
わかりやすい嘘だ。思わず舌打ちした悠護は、前へと向き直り、足に肘をついた。組み合わせた手に、頭をぶつける。
「親の、入院費なぁ……。どこで借りた? このあたりの闇金なら、知り合いの顔が……」
うつむいたままつらつらと続ける悠護の腕を、美緒がふいに掴んだ。驚くほど冷たい両手が腕を引く。
「そこで金を借りれるように、頼んで……」
「そんなこと、俺がさせると思ってんのか」
「ゴーちゃん」
「そんな金を借りたら、おまえな……っ!」
借金は雪だるまのように増えて、噂を聞きつけたおやっさんが弱みにつけ込んでくるだろう。普段は粗雑なだけのオヤジでも、実際は暴力団を仕切る組長だ。
めったにいない上玉を愛人にするためなら、少々の手汚さは問題にしない。
「俺が貸したとしてさ。おまえ、俺になにしてくれんの?」
できるだけ優しく問おうとしたが、苛立ちは隠せなかった。それでも美緒は真剣な表情で見つめてくる。
その必死さが、自分のための金じゃないと物語っているから、いっそう腹が立つのだ。もしかして、自分の他にも男がいるのかと勘繰りたくなる。
そいつのために金を作ろうとしているなら、金を貸す自分はまるで道化だ。
「なぁ、美緒。どういうつもりで俺のところへ来たんだ」
純情な美緒の身体を知っている男なのかと思うと、胸の奥が燃えるようにたぎった。苛立ちが限界まで募り、暴力的な気分で悠護は立ちあがる。
こんなとき、自分の身体には極道者の血が流れていると思う。たったひとりの姉が不幸に見舞われたときもそうだった。自分は怒り狂い、相手を殺すと喚きたてた。性暴力被害者だった姉自身に殴られるまで理性を取り戻せなかったのだ。
そんな自分に嫌気が差して、極道社会と距離を置くために刑務所に入った。それで縁が切れると思ったが、実際はまだ、どっぷりとこの世界の中にいる。
「悠護。……ごめん」
立ちあがる気配を背中に感じた。
「服、洗って返すから。本当に、ごめんな」
「待てよ」
すがってくるような女じゃないことはわかっていた。
「金なら、作る。だから、出ていくな」
「……言わなきゃよかった。そんな顔、させるなら」
思わず、窓に映る自分の顔を見る。硬く緊張した表情が見え、美緒を怯えさせたのだとわかった。
「金は、いつまでにいる」
「もう、いいから」
「よくねえだろ! 当てがないから、俺のところへ来たんだろ! 言えよ。いつまでにいる。いつが期限だ」
詰め寄って腕を掴んだ。戸惑う顔を覗き込み、次の言葉を探しあぐねて肩を抱き寄せる。
「もう、なにも言うな。出してやるよ、それぐらいの金」
親を脅せば、取れない金額じゃない。
「悠護、いいから。本当にいいから」
「よくねぇんだよ。おまえは、俺に相談したんだ。それはもう取り消せない。聞かなかったことになんか、しない」
両手を首に添わせ、視線を合わせる。
「なにも心配しなくていい。そんな顔、するな」
「どんな……?」
「泣きそうな、顔」
顔を近づけ、くちびるをふさぐ。息を吸い込むように開いたくちびるの中に舌を這わせると、美緒の身体は今夜も怯えるように震えた。
自分の他に男がいるわけもないと信じられる反応に、悠護は肩の力を抜く。美緒を見つめて、何度もキスを繰り返した。
「……も、やめっ……」
「俺と結婚してくれ。名前の入った婚姻届をくれたら、きっちり払ってやる」
「……身売りさせんの」
「結納金だよ」
笑いかけると、美緒は困惑の視線をさまよわせた。
「だけど……、あの、今夜は……まだ……」
「本気で、キスさせて。ベッドで」
手を引いて、隣の部屋に入る。電気を暗くして、ベッドのふちに座らせた。
「それぐらい、いいだろ」
髪を撫で、掴んだ毛束にくちびるを押し当てる。
「感じてる声を聴かせるだけでいい。触らないから。キスだけだから」
我ながら泣けるほどに惚れていると思う。この期に及んで焦らしてくる美緒も美緒なら、それに応えている自分も相当におかしい。
「……やだ……恥ずかしい」
薄闇の中でそっぽを向かれ、悠護は深い息を吐き出す。腰がずきずきと痛むほど張り詰めてくる。
「いちいち、かわいいんだよ。おまえは」
ベッドへ押し倒して、後ろへ逃げられないようにした上で、うなじに鼻先をすり寄せる。びくっと震えた首筋をそっと舐めあげた。
甘い息遣いを漏らした美緒が身をよじらせる。
「信用しろよ……」
ベッドの端っこで揉みくちゃになっていた毛布を引き寄せ、美緒の胸に押しつけた。
「ほら、これでちょっとやそっとじゃ、触れなくなっただろ」
顔を覗き込み、背中に挟まった髪を取り除いた。長い髪がベッドに広がるのが薄ぼんやりと見える。
「美緒」
呼びかけて、くちびるを指でなぞる。身体を寄せて、キスをした。
わざと苦しくなるようにくちびるを重ね、いやらしく舌を絡める。濡れた音が響くたびに首を振って逃げる美緒を、悠護はしつこく繰り返し追いかけた。
「んっ……はっ……」
戸惑いがちだった息が弾み、やがて声に甘さが忍ぶ。
「……たまんねぇわ」
額同士を押しつけ、悠護は熱っぽく息を吐いた。
「指、舐めて」
人差し指をくちびるに這わせ、わずかに開いた隙間に差し込む。乱暴にならないようにそっと動かし、舌を探した。
ぺろりと先端を舐められ、痛いほどに腰が痺れる。
「……そう。いい感じ……、それから、吸って……」
口にした通りに、美緒は応えた。ちゅぅ、と吸いつかれ、悠護は奥歯を噛みしめる。
「無理だ。我慢できない。触らないから、絶対に、これ以上はしないから。手だけ、貸して」
パンパンに張り詰めた股間が苦しくて、ジャージのズボンを下着ごとずらす。
「美緒、頼む」
哀願する声が、自分でも笑えるほどの必死さを帯び、悠護は相手の反応を待った。ほんのわずかな瞬間が、焦れるほどの長い時間に思える。
だから、美緒の手が動いたときは声が出るほど嬉しかった。
おずおずとした手のひらに触れられ、強く目を閉じる。
「おまえも気持ちよく、してやりたい」
「……結婚したら」
答えた声は、甘くかすれていた。いままでの言い訳めいた訴えじゃない。
待っていると言われた気がして、悠護はたまらずに美緒の肩へ顔を押しつけた。
「おまえ、本当に、かわいすぎる……。好きだ。本当に、好きだ」
美緒はなにも答えなかった。指が熱に絡み、たどたどしく上下に動く。
「悠護。気持ちよくなって、いいよ」
どんな顔で言っているのか。はっきりとは見えない。だからこそ、悠護にはどんなふうにも想像できた。
息を弾ませ、腰を振り、キスをしたままで美緒の手のひらに射精する。
ティッシュを引き寄せ、精液を拭ってやると、美緒は深く息をついた。
「……おまえも、気持ちよくなる?」
耳元にささやくと、
「いらっ……いらないっ……」
慌てふためいた声が返る。
「いいよ。結婚したら、あんなことも、こんなこともするから」
毛布を抱きしめている身体に寄り添い、後ろから腕を回す。美緒の手が、重なってくる。
自分の秘密を言い出せない後ろめたさを感じながら悠護は美緒を抱き寄せる。スレンダーな身体は、いままで抱いてきた、どの女の身体とも違っていて、華奢ではないのに骨ばっている。
「美緒ってさ、男みたいな身体してるよな」
「……それ、言われたくない」
ぼそりとつぶやく声の不機嫌さに、悠護は笑った。そんなこと、あるはずがないのだ。
「悠護……。もし男だったら、どうする……」
「んー。ないな。男は抱きたくない」
「だよな」
可笑しそうに言った美緒の反応を、そのときは当然だと思った。男のような身体をした女が、男のように思われて良い気はしないだろう。どんなに男のようでいても、自分にとって美緒は女だと、肯定したつもりだった。
「なー、なくてもいいから、ちょっとだけ、胸触らせて」
「ダメ。恥ずかしいから、イヤ」
「かわいいこと言うなよー。また勃起する」
「知らない」
「じゃあ、キスは?」
うなじにくちびるを寄せると、身をすくませた美緒が逃げる。少しも離れたくなくて、悠護はあとを追った。子どもっぽいのは自分の方だ。結婚を約束したのに、金で縛ることができたのに、心は微塵も晴れない。
「手を使わせて、ごめんな」
拭っただけの手のひらを掴むと、指が絡む。
美緒は黙ったまま首を振り、柔らかな髪が悠護の頬をなぶった。
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