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第3話
「……ん、っ」
息が苦しい。男が諒太の口の端から溢れた唾液を零れないよう掬い、容赦なく口内を舐めまわす。抵抗したのは、最初のうちだけ。気持ちよさに次第に身体の力が抜け、頭の中が今この状況で考えなければいけないことを全て拒否し始める。
男が唇を離し、熱い息を漏らしながら訊ねた。
「お兄サン。もしかして、キスも初めて……?」
「……わ、悪いか」
「いや。拙いキス、逆にクる」
拙くて悪かったな、言い返せたら良かったのだが、諒太にそんな余裕はなかった。
「お兄サン、いい感じで色っぽいね。どっちにしろ、男イケるんだろ?」
男がそう言ったかと思うと諒太の股間に手を伸ばした。
「……ちょっ、おい」
「しっかり勃ってんじゃん。隠したって分かるよ。同族の勘、ってやつ?」
言い返すことが出来なかったのは、それらが事実だったからだ。
いつだっただろう。自分が同性の男に対して性的興奮を覚えることを自覚したのは。はっきりと覚えているわけではないが、多分思春期の頃だったように思う。
そんなわけはない。何かの間違いだ、と精一杯「普通」であろうと努力した。
けれど、ある時気づいてしまった。“努力”しなければ「普通」のふりをしていられないということは、つまりすでに「普通」の枠に自分が収まれなかったのだということに。
「せっかくだし、仲良くしようよ。お兄サン、名前は?」
「……諒太」
「リョータね。歳は?」
「二十八」
「あ、意外にいってるんだな。五つも年上だ。俺はレン。」
そう名乗るとレンは、諒太の濡れた髪を両手で撫でつけるようにして言葉を続けた。
「リョータは気持ちいいこと、興味ない? キスも初めてなら、その先だってまだ知らないんだろ? 見るからにお堅そうだもんな。そういう相手の見つけ方知らなかったか──認めるのが怖かったのか、はたまた踏み出す勇気がなかったか。理由はいくつも想像できるけど、いま同じ性趣向の男が目の前にいるんだ。試してみたいと、思わない?」
さっきまで有無を言わせないほどの強引さで、諒太を振り回してきたレンが、初めて年相応のしおらしさを覗かせ、諒太の髪を優しく梳きながら訊ねた。
「店にあんたが入って来た時、一瞬で目が離せなくなった。あんた抱きたいって……そればっかり考えてたよ」
あの時感じた強い視線の意味──。
「……な、に言って……抱くって……俺、男っ」
「経験なくても、あんたもゲイなら男同士のセックスの知識や興味くらいあるだろ?」
「そ、っ」
そりゃ、全くないというわけではないが。ネットの波を彷徨い得たにわか知識と現実との間に大きな隔たりがあるのは諒太にも経験がないなりに想像がつく。
そこまで考えて諒太ははっとした。行為を想像しているあたり、すでに彼の問いを肯定しているようなものではないのか。
「試してみよう? リョータだって、気持ちイイことは好きだろ? 俺と超ぉ気持ちいいことしたくない?」
途端に子供っぽく態度を変えたレンに対して、一瞬でも可愛いなんて感情を持ってしまった諒太の負けだ。
「ずっと自分の中に鉄壁作って本心隠して生きて来たんだろ? いま着てる堅苦しいスーツと一緒に何もかも脱いじゃえば? ──リョータは、自由になりたいって思ったことないのか? 本当の自分になりたいって思ったことない?」
「……」
ないと言えば、それは嘘だ。
自分のような人種がごく普通に世間に認められるような開かれた世の中なら。
いつだって、この抑圧から解き放たれて自由になりたい。本当の自分になりたい。
「ほんの一瞬でも、今夜だけでも──自分を解放してみなよ。そしたら、いまよりずっとラクになれる」
レンが諒太を濡れたビー玉のような瞳で真っ直ぐに見つめる。
──本当に、綺麗だ。
「誰だって気持ちいいこと好きだろ? 俺は大好きだよ。自分が気持ちいいと感じることも、相手が気持ちいいと感じることも」
レンの顔が次第に近づき、伏せた長い睫毛が諒太の睫毛に当たった。と、同時に唇に濡れた温かな感触。しっとりと押し当てられた唇は、やがて諒太の唇を甘く食み、その舌を吸い優しく口内を犯していく。
諒太が小さく息を吐くと、それを許さないとでもいうようにその隙間を塞がれ、息苦しさにもがきながらも次第にレンから与えられるキスの心地よさに飲まれていく。
「寒いな。シャワー浴びる?」
レンの言葉に今度は素直に頷いた。
扉を開いてみたいと思った。踏み出してみたくても踏み出せなかった自分の知らないその先の世界に。
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