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高い知性をもってかつて地上を支配した人間は、やがて過ぎた文明により自らを滅ぼした。残ったのは僅かな人間と、人間の凶行から逃げ延びた大自然に生きる野生動物たち。
種の存続の危機に扮した人間達は、全ての生き物に存在する第2の性別を発見し、そのメカニズムを利用して自分たちと獣の間に子を成す術を編み出すことに成功した。
優れた遺伝子を持つα。
男女共αの子を産むことが出来るΩ。
そしてその他の大多数のβ。
αの人間は挙って繁殖能力の高いΩに自らの精を植え付け、子を産ませた。今は奇怪な生き物が生まれたとしても、いつかまた人の血が濃くなって人類が繁栄することを信じて。
そうして生まれたのが、現在全世界人口の約9割を占める「獣人」である。
強い力を持つ大型肉食獣の血を持つ獣人を筆頭に、それぞれの特性を活かし獣人は独自の進化を遂げて集落を作り出した。それは村になり街になり、そして国家となった。その国家を統べるのは、僅かに残ったαの人間たちだ。
高い知性と強靭な理性、そして器用な指先をもつ人間が力の強い虎やライオンなどの獣人を従え、それらが鳥や狸などの知恵の高い獣人を束ねて軍となる。力も知恵もない兎や鼠は、下働きなどでひっそり生きるほかなかった。
これは生きとし生けるものの頂点に君臨する人間に見初められた、小さな兎獣人の物語。
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塗装されていないむき出しの砂利道だというのに、カタカタと心地いい揺れが疲労の溜まった身体を眠りに誘う。小さな窓から太陽の光が燦々と降り注ぎ、ふかふかのソファに腰掛けふわふわした毛布のブランケットに温かい飲み物まで出されて、マシューは馬車の中だというのに人生で一番快適な時間を過ごしていた。
目の前で繰り広げられる攻防戦を除けば、であるが。
「ちょっと寄り道するくらいいいじゃないか!」
「ダメです!夜明けに出立すると仰ったくせに昼まで寝ていたのはどこのどなたですか!」
「ここの俺だ!仕方ないだろう疲れていたんだから!戦場から帰って凱旋もそこそこに飛び出してきて、硬いベッドで身体は痛いし風呂は狭いしなんだか知らんが水か?水が当たったのか?で腹は壊すしおまけに目的の奴隷市が真夜中だと!?眠いに決まっている!」
「貴方戦場で踏ん反り返っていただけでしょう!!本当に口ばっかりよく動くんですから面倒臭い…!!」
「そんな面倒臭いリヒャルト王子殿下はちょっとの寄り道で地酒を買って帰るだけで機嫌を直すんだから安いものだろう!なぁマシュー、マシューだって疲れたよな、こんな馬車で長旅なんて…」
突然話を振られたマシューはビクッと飛び上がり、大きな耳をピンと立たせて居直った。
マシューを見つめるリヒャルトの紫水の瞳は、思わず感嘆の溜息がこぼれるほど美しい。しかしそれよりも、高い位置からギロリと見下ろしてくる漆黒の獣毛に覆われた琥珀の瞳が恐ろしくて、マシューは頬を引きつらせて小さな小さな声であの、えっと、と意味のない言葉を発した。
正直言って馬車の中はこの上なく快適だ。このまま眠れそうなくらいに。同席しているこの二人が喧嘩していなければではあるが、もちろんそんなことを言えるはずもない。
萎縮しきったマシューの肩を温かい手が覆い、次の瞬間にはマシューの痩せた頼りない身体はポスンと隣に座るリヒャルトの胸の中に飛び込んでいた。
「こらゲオルグ、睨むんじゃない。マシューが怯えているじゃないか。お前の顔は怖いんだ。」
「えっ!?いや、そのっ…」
「………失敬、睨んだつもりは。」
「猫なら猫らしく可愛くニャーとでも鳴いたらどうだ。」
「殿下、恐れながら私は猫ではございません。」
世界一の領土を誇る大国の王子が放つ軽口に真っ黒い毛並みが美しい黒豹の獣人は大きく溜息を吐き、その様を見てリヒャルトは紫水の瞳を細めて可笑しそうにくつくつと笑った。
馬車の中はピリピリとした空気に包まれている。ティーカップから立ち上る湯気と上品な紅茶の香り。添えられた甘い焼き菓子はマシューの目にとても魅力的に映るのだが、なにぶん客や主人に出しても自分で食べたことがないゆえに好奇心と恐怖心が諍いを始めていた。この空気の中で呑気にお菓子に手を伸ばせるほど、マシューの神経は太く出来ていない。
「…まぁ、休息は必要ですな。マシュー殿は怪我人ですし、殿下もあまりご無理を重ねてもお身体に障ります。次の街で宿をとりましょう。」
「よし!マシュー、街に着いたら何か美味い物を探しに行こう!ついでに酒を…」
「なりません!怪我人を連れ回した挙句酒を呑ませるおつもりか!全く!」
大地を揺るがす咆哮のような怒声に、それまでのカタカタと心地良い揺れが嘘のように馬車が大きく揺れる。マシューは大きな耳にキンと響いた大きな声に思わず目を瞑り、隣のリヒャルトをそろりと見るとしれっとした顔で耳を塞いでいた。
そして狭い馬車の中に響き渡った反響が全て消え去ったころ、リヒャルトは表情を変えずに耳から手を離して口を開いた。
「…それもそうか。マシューに無理をさせるのは本意ではない。俺一人で行こう。ゲオルグ、マシューを頼んだぞ。」
「ああああもう全く伝わっていない!!」
天を仰ぎながら鋭い爪で美しい漆黒の毛並みを掻きむしった従者は大きく溜息をついて、疲れたような表情で、心なしか憐れみさえ感じさせる表情でマシューを見た。
「…マシュー殿、今ならまだ逃げられますぞ、この俺様ワガママ王子から。」
「おいこら、不敬罪で突き出すぞ。」
頬をピクリと痙攣らせて青筋を立てるリヒャルトに、マシューの方が萎縮したのは言うまでもない。
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