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深い眠りの底からゆっくりと浮上するその狭間で、鼻腔が芳しい香りを捉える。心の奥底までじんわりと温かくなる香りは、このラビエル王国にきてリヒャルトと過ごすようになってから随分と嗅ぎ慣れた、紅茶の香りだ。 マシューがゆっくりと身体を起こすと、サイドテーブルに昨日読んでもらった絵本と、リヒャルトがあの時一緒に買っていた児童書が置きっぱなしになっていた。マシューが寝静まった後に読んでいたのかもしれない。 字が読めたらな、と思う。 あの博識で聡明なリヒャルトのことだ。きっとたくさんの書物を読んできたのだろうと思う。もちろん王子として必要な勉強の一環で読んだものも多いのだろうが、それ以上に彼は本が好きなのではないかと思うのだ。でなければいくら王子様でもそんなにたくさんの本を読めるはずがない、と。 マシューはサイドテーブルに置かれた児童書を手に取る。パラパラとめくってみても何も読めないからさっぱりわからない。リヒャルトが子どもの頃好きだったというこの本を読んでみたいのに。 マシューはギュッと児童書と絵本を抱き抱えた。 文字を覚えたいと言ったら、笑われるだろうか。 唐突に頭に浮かんだ考えに、マシューは背筋がひやりとした。 きっとリヒャルトは笑わない。ゲオルグも笑わないだろう。しかしそれ以外はわからない。この王宮に、マシューを快く思わない者が少なからずいることを思い知ったばかりだ。 マシューは首を振りその考えを振り払うと、抱えた本をサイドテーブルに戻してベッドを降りた。 シャっと軽快な音を立てて天蓋を開けると、いつものソファにゆったりと腰掛けたリヒャルトがにこりと微笑みかけてくれた。 「おはようございます、リヒャルト様。」 「おはよう。紅茶の用意があるよ、淹れようか?」 「はい、いただきます。」 リヒャルトの後ろに控えているゲオルグにも挨拶をすると、マシューはリヒャルトの隣に腰掛けた。やっと最近、リヒャルトの許可を得なくてもここに座っていいのだと認識したところだ。 朝の紅茶は意外にもリヒャルト自ら淹れてくれる。最初は恐れ多くて前と同じように水を貰っていたのだが、この淹れる間だけの特別香りが立つ一瞬が好きなのだと聞いてからは遠慮なく淹れてもらうことにした。それに、紅茶を淹れる仕草があまりに優美で、見ていたかったというのもある。 マシューは今日もリヒャルトが紅茶を淹れる姿を堪能して、そのカップをありがたく受け取った。 「はい。今朝はアッサムティーだよ。」 「わ、いい香り…ありがとうございます。」 「どういたしまして。…ふふ、寝癖ついてる。」 「えっ!?」 ここ、と、長い指がさらりと大きな耳の横を撫でていく。自分で触ってみると、一箇所明らかに重力に反した方向に遊びに出かけていて、マシューはかあっと頬に熱を集めて勝手な方向に飛び出している髪を撫で付けた。 その様子をクスクスと微笑ましく見ていたリヒャルトはおもむろに立ち上がると、普段あまり使っている様子がないドレッサーからブラシを取り出してマシューの背後に立った。 「柔らかいから癖が付きやすいんだね。」 「はい、すぐ絡んじゃって…」 「ああ、本当だ。…気をつける、けど、痛かったらすまない。」 「あ、鋏で切っちゃっていいですよ?」 「…それは俺がダメだ。」 苦い顔をしたリヒャルトは再びマシューの毛玉になった髪の攻略にかかった。 奴隷商のもとで働いていた頃は朝が早く時間がなかったために、絡んだ髪を放置して手の施しようがなくなってからざっくり切り落とすことが頻繁にあった。自分は商品ではないし、人目につくところで仕事をすることもなかったから、見目に気を使う必要がなかった。それよりも時間を気にしなければならなかったのだ。 幸せだ。 温かい手が優しく髪を梳いてくれる。髪の毛一本さえも大切にしてもらえる。こんな風に大切に慈しんで貰えることを知ってしまったから、誰からも必要とされないことが以前よりももっとずっと苦痛になってしまった。 いつも余裕ある笑みを浮かべているリヒャルトが難しい顔をしながらマシューの絡んだ細い髪の毛と格闘している。その表情を盗み見てクスッと笑うと、気付かれてコツンと頭を小突かれた。 ずっと、こんな穏やかな時間が続けばいい。愛されているのがわかる。間違いなく愛されている。 その時一瞬ルイの顔が脳裏を過った。形だけの婚約者だと言っていた。けれどきっとなりふり構わず牢から助け出したり、こんな風に小難しい顔をして髪を解いてくれたりはしないだろう。 少し痛む胸に無理矢理蓋をしたその時、コンコンと控えめなノックが部屋に響いた。 「おはようございます、リヒャルト様。あの、今朝4時ごろからルイ様が…」 その先を侍女は言わなかったが、その場の誰もが事情を察した。 Ωであるルイの、発情期。 「…わかった。支度しよう。」 マシューの顔は凍りついて、愛しい温もりが離れていくと、ぽかぽかと温かかった心はすぐに冷えきった。

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