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━━━味がしない。 マシューは諦めてナイフとフォークを揃えて置いた。リヒャルトから教わった、「もう食べません」の合図。それを見た給仕たちが皿を下げに来て、マシューは残してしまう申し訳なさにぺこりと頭を下げた。 ルイの発情期を知ったリヒャルトは火急の仕事だけを済ませ、顔を引攣らせるマシューに困ったように微笑むと、「夜に一度戻る」と耳打ちして朝食も取らずに慌ただしく部屋を出ていった。側近であるゲオルグも当然一緒に行ってしまい、することもなく一人にされてしまったマシューは心細さに胸が押し潰されそうになっていた。 既に日は沈み、1日が終わろうとしている。誰もいない部屋で過ごす1日はとても長かった。何をしたらいいのかもわからず、ただひたすら時が過ぎるのを待つ。それはまるで先日入れられた牢のようで、マシューは震える脚を何度も叱咤した。 ほとんど喉を通らなかった食事を済ませ、風呂場に向かうと、先日礼服の洗濯を頼んだ侍女は休みだった。こういう時に限って話しやすい人は誰もいない。マシューはしょんぼりと大きな耳を畳んで寝巻きに身を包み、リヒャルトの自室に戻ってきた。 誰もいないその部屋はとても広く感じる。人の気配がしないこの広い部屋に恐怖を覚えたあの夜、初めてリヒャルトに抱かれた。幸せな夜だった。今日はそれは望めない。今宵リヒャルトが抱いているのは、別の人だ。 夜に一度戻る、と言っていたけれど、その望みが限りなくゼロに近いことはわかりきっている。Ωの発情期がどういうものかは、奴隷商店でたくさん見てきたからよく知っていた。1週間近く昼も夜もそれしか考えられなくて、熱のこもった身体を持て余す。βのマシューには程度はわからずとも余程辛くて苦しいだろうと想像することはできた。 「リヒャルト様…」 今頃きっと、ルイを抱いているだろう。 Ωが振りまくフェロモンに誘われて、この世で最も尊い生き物である人間のあの人が、狂った獣のようにルイを抱くのだろうか。 それはとても信じ難くて、それでいて堪らなく羨ましい。βのマシューでは、αのリヒャルトを狂わすフェロモンを持たないからだ。 マシューは俯いてくしゃりと前髪を掴んだ。今朝リヒャルトが丁寧に解いてくれた髪にするりと指が通る。けれど明日髪が絡まったら、切り落とすしかないだろう。 こみ上げる涙をぐしぐしと拳で拭うと、コツコツと窓の外から不審な物音がしてマシューはビクッと飛び上がった。 そーっと様子を伺うと、また窓の外からコツコツと音がする。明らかに自然になる音ではなく、誰かが意図的に窓に何かをぶつけている音。 でも一体誰が? 使用人なら窓から来るはずはないし、動物は寝静まっている時間だ。樹木の葉が擦れる音とも違う。様々な可能性が思い浮かぶものの、どれもこれもしっくりこない。やがて、マシューの頭に一つの可能性が浮かんだ。 まさか、賊? マシューは胸元のアメジストの指輪をギュッと握った。 ありえないことではない。今たまたまいないだけで、この部屋にいるのは本来自分のような兎ではなく大国の王子様なのだ。王宮にはマシューには想像もできないような確執があることは身に染みている。いくら民に好かれていても、万人に好かれるわけではないだろうことも。 マシューは部屋の中を見回し、ベッドサイドテーブルのランプを握り締めた。無視するのはもちろんのこと、窓を割って部屋に押し入ってくる可能性もゼロじゃない。 ランプを握り締めてしばらくじっと身を潜めていると、不審な物音は止んだ。 諦めたのだろうか。 マシューはそーっとそーっと歩きだし、窓の側まで辿り着いた。深く深呼吸をして、窓の外を伺おうとカーテンをめくって外を覗き込む。 闇夜に浮かび上がる煌々とした、二つの目。 「ヒッ…!!!だ、誰かッ…!!!」 「シーーーーーッ!」 助けを求めて大声を上げようとしたマシューを止めたのは、他でもないその闇夜に煌々と輝く紫水晶の持ち主、リヒャルトその人だった。

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