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リヒャルトが適当に見繕ってくれた、それでも今まで触れたことがないほど滑らかで肌触りのいいシャツを身につけ、マシューは城で初めてテーブルに付いた。 テーブルの上に銀食器がたくさん並ぶ食卓なんて話にしか聞いたことがなかったマシューは、どこからどう手をつけていいのか分からず真っ青になっている。そうこうしているうちにスープが出され、流石にスープはスプーンだろうという想像でなんとかできたものの、残ったのはナイフとフォークばかり。どれも同じにしか見えないマシューは次の料理が運ばれてくるのがただただ恐怖で、緊張を解そうと色々声をかけてくれるリヒャルトの話は微塵も聞いていない。 そしてついに運ばれてきたなにやら色鮮やかな皿に、マシューは固まった。 小さなスプーンが付いているから、きっとこれはこのゼリーのようなものに使うんだろうな、とか。サラダに見えるけどお肉も乗っているし、ナイフは使うんだろうか、だとしたらどれを?そもそもこのゼリーのようなもの、本当にゼリーなんだろうか。ドレッシングだったりして。まさかただの飾りなんてことはないだろうか。ここで間違えたら、リヒャルト様にガッカリされるかもしれない。ゲオルグさんや周りの給仕さん達にもガッカリされるかも。そうしたら、リヒャルト様の評判を落としてしまいそう。 いよいよ緊張のあまり耳をピンと立ててカタカタと震えだしたマシューの手を、いつのまにか隣に来たリヒャルトの温かい手に包み込まれた。 「マシュー、落ち着いて。わからないことは恥ずかしいことじゃない。ナイフとフォークはね、外側から使うんだ。持ち方はわかる?」 「あ、の…」 小さく首を振ったマシューの手にフォークとナイフを握らせたリヒャルトは、マシューの背後に回りマシューの手に自らの手を重ねて使い方を自然に誘導してくれる。鮮やかで美しいテーブルマナーをまるで自分がこなせたような感覚さえ覚えて、マシューは目を輝かせた。 リヒャルトがフォークに取ってくれたサラダを口に運ぶと、爽やかな酸味のきいたドレッシングが野菜の甘みを引き立てている。草食動物の血を引くせいか野菜が特別好きなマシューは、口いっぱいに広がる幸せに頬が緩んだ。 「美味しいかい?」 「はい、すごく…!」 「よかった。美味しく食べるのが一番だよ。テーブルマナーなんてものは少しずつ覚えたらいい。」 ポンポンと頭を撫でながら顔を覗き込まれると、美しい瞳の中にある輝きは温かい。周りを見回してみれば、給仕も皆笑顔だった。それは決して嘲笑ではなく、二人の睦じい様子を微笑ましく眺めている様子で。 マシューは途端に安心して、自分の席に戻ったリヒャルトの他愛のない話に時折笑いながら、見様見真似でなんとかナイフとフォークを使って豪勢な食事を楽しんだ。 ━━━ 白銀に輝く塵一つ見当たらない大理石の床と上質な革靴が奏でるメロディーを聴きながら、マシューは幸福に溜息が漏らす。 「食べ過ぎちゃいました…」 「あはは、やっぱりか。よく食べるなぁと思ったんだけどね。」 これまでに食べすぎるということを経験した記憶がないマシューははち切れんばかりに膨れてどこか息苦しささえ感じる腹に戸惑ったが、全身を支配するのは眠気と幸福感だ。リヒャルトはといえばそんなマシューを見ているのが幸せだと言わんばかりの笑顔を振りまいていて、嬉しいよりも恥ずかしいが優ってしまう。 顔を真っ赤にして俯いてしまったマシューをリヒャルトが小さく笑う声が長く続く廊下に響く中、一つの足音がそれを遮った。コツコツと靴音を響かせて曲がり角から姿を現したのは、一つに束ねた長い黒髪が美しい、リヒャルトとよく似た、けれどリヒャルトよりもずっと冷たい紫水の輝きをもつ人間の男性だった。 「あれ、ジークハルト兄様。お一人ですか?」 その冷たい視線をものともせずいつもの調子で声をかけたリヒャルトに、ジークハルトと呼ばれた男性はほんの一瞬表情を和らげた。が、隣を歩くマシューの姿を認めると、先ほどよりも一層表情を険しくする。その表情はマシューにとっては余りにも慣れ親しんだもので、マシューは背筋が凍った。 「…リヒャルト、戻っていたなら顔くらい見せに来たらどうなんだ。」 「だぁって疲れてるんですよ。いっつもあちこちウロウロしてる兄様を探しに行く気力はもうないです。」 「ウロ…あのな、私は遊んでいるわけではない。」 「もちろん存じておりますよそれくらい。」 けらけらと朗らかに笑ったリヒャルトに、ジークハルトは眼鏡を外して皺が寄った眉間をもみほぐす。そしてゆっくりと開かれた瞳の中に埋まっている美しい紫水晶は、驚くほどに冷え切っていた。 ジークハルトは氷のような視線で怯えるマシューを上から下まで見、口を開く。 「兄上からリヒャルトが兎を連れ帰ったとは聞いていたが…リヒャルト、お前まさかそれと番うつもりじゃないだろうな?」 その問いに対し、リヒャルトは意味がわからないとでも言うように小首を傾げてみせる。その仕草は、マシューから見ても、わざとらしいくらいに。 「?いえ、彼はβなので。」 「なに?βだと?」 ピクッと眉を動かしたジークハルトは続けて何かを言いかけて、やめた。頭を抱えゆるりと首を振った彼は、リヒャルトと同じ色の瞳でマシューに侮蔑の視線を投げつける。 「…まぁいい。お前のことだから何か考えがあるんだろう。」 話は終わりだと言わんばかりに、くるりと踵を返したジークハルトの背筋がまっすぐに伸びた後ろ姿を、リヒャルトは意味深な笑みを浮かべて暫く見つめている。マシューは、初めて見るリヒャルトの表情に全身が凍りついたように動けなくなっていた。

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