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素肌に触れるふわふわと柔らかい感触。顔を埋めると良い香りがして、マシューは幸福感に頬が緩んだ。 バスローブなんてものを着たのは初めてだ。まさか自分がこんなものを着る日が来るとは夢にも思っていなかったマシューは、脚の間がスースーする初めての感触にどこかむず痒さを感じながら侍女の後についてリヒャルトの自室に戻る。侍女が控えめなノックをして声をかけると、リヒャルト自ら扉を開けて迎えてくれた。 「おかえりマシュー。さっぱりしたかい?」 丁寧に洗われて指通りが良くなった髪を掬い上げてキスをしたリヒャルトは、満足気ににっこり微笑んでマシューを室内に招き入れた。あまりに自然な愛情表現に、マシューはボンッと火を噴くように赤くなる。折角風呂に入ったのに体温が上がって汗をかきそうだ。 部屋に一歩入ると、白衣に片眼鏡という出で立ちの年老いたヤギの獣人がチェアに腰掛けていた。 「おやおや、殿下もいっちょまえになられましたのぉ…」 ほっほっほ、と楽しそうに笑った老人は立派な角を撫でて、いくつかの粉を混ぜ合わせた。時折片眼鏡にすかして慎重に分量を計っていくのをみるとどうも薬のようで、それを小分けにして数回分にすると小さな紙に器用に包み始める。 どうやらリヒャルトが呼んだ医者らしいことはすぐにわかった。 「いっちょまえとはなんですか、もう成人して久しいですよ。」 「いやはや、ゲオルグ殿に薬をお渡しせねばならんうちはひよっこですじゃ。」 「苦手なんですから仕方ないでしょう…」 「ほっほ、紫水の悪魔は粉薬が苦手なんて誰も思いますまい。ほれ、3日分もあれば良くなりましょう。ゲオルグ殿にお渡ししておきますからな、きちんと飲まれますよう。」 調合した薬を手渡されたゲオルグは軽くお辞儀をしてそれをしっかりと懐にしまった。 どうやら風呂に入っている間にリヒャルトの診察をしていたらしいことはわかった。が、具合が悪い様子など微塵も見られなかっただけにマシューは戸惑いを隠せない。マシューは揶揄われて若干不貞腐れているリヒャルトに恐る恐る問いかけた。 「リヒャルトさま、どこか悪いんですか?」 「ん?ああ、いやサスキアで腹を壊してな。大したことはないよ。」 「他国で水道水を飲んではなりませんと毎度申し上げているにも関わらず毎度腹を壊すんですよ、殿下は。」 「ほっほ、この国の(もん)(みーんな)他所の国で腹を壊すんじゃ。どれ、そちらさんも診ようかね。」 穏やかな物腰の老人に手招きされて、自分のことだと悟ったマシューはきゅっと胸元で手を握った。 医者に診てもらった経験はない。風邪を引いても寝て治し、怪我も自然治癒を待って生きてきた。一体どんなことをされるのか想像もつかなくて身構えていると、リヒャルトが老人の目の前の椅子に座らせてくれた。 「マシュー、こちらはグスタフ先生。俺が赤ん坊の頃から診てもらってる屈指の名医だ。安心していい。」 「ほっほ、これはまた可愛らしい方を見初められましたなぁ。殿下は面食いでしたかな。」 「美しいものは当たり前に好きですが顔の造形にこだわりはないですよ。」 ほっほっほ、とまた愉しげに笑ったグスタフはテキパキとマシューの傷を診ていく。 マシューが働いていた奴隷商店の主人(あるじ)から受けた折檻の傷は道中のゲオルグの手当のお陰で随分と良くなっていた。グスタフは一通り傷の場所を確認し、未だかさぶたになっていない箇所には軟膏を、打ち身になって内出血しているところには薬草の湿布を貼ってくれた。 「この手当はゲオルグ殿ですかな?」 「はい、僭越ながら。」 「流石ですな。ふむ、軟膏と湿布を渡しておくので使いなさい。それから治ってくると痒くなりますからな、痒み止めも作りましょう。広範囲じゃから我慢するのも辛かろうて。」 グスタフはその曲がった背中でどうやって運んできたのかというほど大きな鞄の中から数種類の薬草を取り出すと、その場で手早く刻み擦り合わせて瞬く間に薬を調合していく。そして掌に収まるサイズの小さな容器に出来上がった薬を詰めると、マジックで器用に兎の絵を描いてリヒャルトに渡した。 「ほれ、兎さんの絵がある方が傷薬。こっちの何も描いてない方が痒み止めじゃ。これで殿下でも間違えんじゃろ。」 「先生…一体俺をなんだと…」 「ほっほっほ。大丈夫と思うが万が一化膿したり熱が出たりしたらまたお呼びくだされ。」 苦い顔をしたリヒャルトを笑顔で躱したグスタフは手早く器具や薬草を片付けていき、白衣を脱いで適当にくるくる丸めると大きな鞄にポイと突っ込んだ。 全ての片付けが済み席を立つと、その大きな荷物を曲がった背中でいとも簡単に持ち上げた。 「ではこれにて失礼。殿下、きちんと薬を飲むんじゃぞ。」 「わかってますって!」 「ほっほっほ!」 朗らかに笑いながらグスタフは老人が大荷物を抱えているとは思えないしっかりした足取りで去っていった。 薬の効き目は絶大で、触れると痛みがある程度だった傷口はもちろん、じんじんと鈍い痛みを訴え続けていた打ち身もすっかり痛みが引いていた。

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