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「あああ〜〜〜疲れた!俺は疲れた!!今日はもう何もしないぞ!!もう飯食って風呂入って寝る!!」
自室に戻るなり天蓋付きの豪奢なベッドに飛び込み、リヒャルトは枕を抱えて大声で叫んだ。
「お疲れなのはわかりますが風呂に入る前にベッドに上がらないでくださいといつも申し上げております。夕食の前に風呂になさいますか?」
「うるさいなぁ俺が寝るベッドなんだからいいだろうが…俺より先にマシューを風呂に入れるように手配してくれ。」
「御意。」
礼を一つしてくるりと背を向けたゲオルグが扉の向こうに消えたのを確認したリヒャルトは、ゲオルグが消えた扉に向かって舌を出してあかんべーをしてベッドから降りた。
「ったく口を開けばお小言だ…お前は俺の母親かっていうんだよ、なぁマシュー?」
でもちゃんとベッドから降りるんだ、と思いながらマシューは苦笑いを返した。
リヒャルトはぐーっと伸びをしてソファに腰掛けると、マシューを手招きする。そしてにっこり微笑みながら自らの両脚の間をポンポンと叩くので戸惑いを感じつつもちょこんとそこに腰掛けると、ガバッと後ろから勢いよく抱き締められた。
「うわっ…!」
「よくやったぞマシュー!兄様から目を逸らさないなんて大したものだ!流石は俺が見込んだ男だ!」
ぎゅうぎゅうと強く抱き締めれて、マシューは戸惑いながらも胸の内に灯る温かな感情を自覚していた。
ラインハルトの前でリヒャルトにパートナーだと紹介されたマシューは、リヒャルトと同じ至高の輝きを放つ紫水の瞳に射るように見つめられ、一度は目を逸らそうとした。実を言えば、本当は逸らさなかったのではなく逸らせなかったのだ。
それが、ここで目を逸らしてはいけないと思えたのは何故だったのか。きっと背中に感じたリヒャルトの手の震えだったのだろうと思う。
自由奔放で天真爛漫で、自分に絶対の自信を持っているように見えたるこの人が、兄を前にして震えている。けれど決して逃げることなく誤魔化すこともなく、真っ直ぐに立ち向かっている。
その姿になけなしの勇気を奮い立たせて、自分よりも背が高いリヒャルトよりももっと高い位置にある紫水晶を睨みつけるように見つめると、ふとラインハルトの表情が和らいだのがわかった。
『そうか、そうだな…お前が自分で選んだなら、間違いないだろう。私は反対しないよ。』
感慨深く頷くラインハルトの真意がどこにあったのかはわからない。次期国王ともあろう者が膝を折ってまで真っ直ぐに視線を合わせ、ラインハルトは王子ではなく兄の表情でこう言った。
『…弟をよろしく頼む。』
ポンと肩を叩いてくれた大きな手はゴツゴツしていて、守るものを持つ強い手だった。真正面にある精悍な顔の頭頂部には、豊かな栗色の髪に紛れて雄々しい獅子の耳が生えていて、驚愕の表情を隠せないマシューにラインハルトはニカッと快活に微笑みかけて一足先に場内へと消えていった。
多くのものを背負う大きな背中を思い出しながら、マシューはリヒャルトの腕の中で漸く口を開く。
「ラインハルト王子殿下って獣人だったんですね…僕、無知で…」
「ああ、隠してもいないんだがあまり他国の者には知られていないようだね。髪の毛に耳が隠れてるからな。」
「でもリヒャルト様は、人間ですよね?」
「俺とラインハルト兄様は母が違う。現王の実子で人間なのは第一王妃の子である俺とジークハルト兄様だけだよ。」
「第一…王妃、様…」
第一、ということは第二第三と続くのだろうか。マシューは頬をひきつらせる。
背後からマシューを抱きしめるリヒャルトはそんな表情に気付くはずなく、珍しく少し興奮気味に続けた。
「兄様は素晴らしい方だよ。俺には到底出来ないことを簡単に、さも当たり前のようにやってのける。心から尊敬している自慢の兄さ。」
リヒャルトは一瞬口を噤み、マシューの大きな耳の生え際にそっとキスを落とした。
「…王となった兄様の助けになるのが、小さい頃からの夢なんだ。」
王子様だから、てっきり将来は王様になりたいのだと思っていた。リヒャルトの声は本当に心がこもっていて、彼が王位を微塵も望んでいないことがわかる。兄を心から慕っていることも。ラインハルトもリヒャルトをとても可愛がっている様子だった。
母親が違うことなんて彼らにとっては大した問題ではなく、同じ王子という身分にあるお互いを尊重しているのだろう。
その時、控えめなノックに続き年老いた老婆の声が廊下から響いてきた。
「失礼致します。リヒャルト殿下、浴室の準備が整いました。」
「ああ、ありがとう。マシュー、行っておいで。傷口もしっかり洗って綺麗にしてもらうんだよ。」
「えっ?いや、リヒャルト様、どうぞ先に…」
「いや、俺は医者を手配するから。」
言葉と同時に立ち上がったリヒャルトに手を取られ、そのまま部屋の外へ誘導されたマシューは廊下で静かに待っていた犬獣人の侍女に引き渡される。リヒャルトはひらひらと手を振ってそのまま何処かへ立ち去ってしまった。
先ほどリヒャルトに褒められて気が大きくなっていたというのに途端に心細くなったマシューは、あれよあれよと風呂場に連行されささやかな抵抗をものともしない侍女により服を剥ぎ取られるとありとあらゆるところを綺麗にされた。
いい香りがする綺麗な花弁を浮かべた一体何人入れるのだろうというほどの大きな風呂でたった一人、何かを失った気がしながらひっそりと膝を抱えた。
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