6 / 59

2-2

「良い街でしょう。」 背後から突如かけられた声にマシューは反射的に振り返ると、ゲオルグがマシューと肩を並べたところだった。マシューよりもずっと高い位置にある琥珀の瞳はどこか遠くを見つめ、街の喧騒に紛れてしまいそうな小さな声で彼は話し出す。 「ほんの一世代前は他国と同じ酷い差別社会でした。現王陛下の奴隷制度撤廃令に加え王子たちの尽力により、僅か15年ほどでここまでになったのです。貴族の子も元奴隷の子も同じ学校に通い同じ内容を学び、同じ庭で遊び競い合う。陛下の末子に当たる第2王女殿下もこの子たちと同じ(まな)()に通っておられます。」 「王女様と奴隷の子が…?」 「はい。」 そんなこと、ありえるのだろうか。 マシューは少し離れたところで小さな猫の獣人の子を抱きながら母親だろう女性たちと笑顔で話しているリヒャルトを見ると、本当のことなのだとわかる。 きっとリヒャルトも、当たり前に民と触れ合って過ごしてきたんだろう。皆の表情を見れば一目瞭然だ。そしてそれを、公務の一環とは思っていない。きっと近所の人とおしゃべりしているだけの感覚なのだろうと。 「おまたせマシュー。さぁ行こうか。」 差し出された手を反射的に握ると、住民がざわめき立つ。しまった、と思うより早く、子供の声が辺りに響いた。 「リヒャルトさま!その兎さん、だぁれー?」 マシューを真っ直ぐに指差して声をあげたのは、先程リヒャルトに抱かれていた猫の子だ。どうしようとあたふたするマシューに引き換え、リヒャルトは母親が小さな声で「指差しちゃいけません!」と諌めたのを見届けてから、綺麗な指を一本立て美しく弧を描いた口元にそっと当てた。 「…まだ内緒。」 しんと静まり返った一瞬でリヒャルトはマシューの背に手を当てて歩き出すように促し、ゲオルグを従えてその場を去る。 背後から住民の驚愕の叫びが聞こえてくるのはすぐ後のこと。 ━━━ 活気に満ち溢れた大通りを抜けると、一気に視界が開けた。 目の前に現れた広場の真ん中にそびえるのは美しい女性の銅像。どういう仕掛けか、その女性が手にした壺から澄んだ水が流れ落ちて噴水池を作り出している。 噴水池の側にはベンチがいくつかあり、肩を寄せ合って囁き合う恋人同士や難しい顔をしながら分厚い本をめくる老人まで、皆が思い思いの時間を過ごしていた。 そしてその向こうに佇むのは、城門だ。 あの門を開けた先に、世界一の領土を持つラビエル王国の城がある。マシューが暮らすことになる城。建国から攻め込まれたことがないという難攻不落の城は他者を拒絶するようにしんと静かにそびえ立っている。 マシューは圧倒されて、首が痛くなりそうなほどに高く大きな城を見上げた。 「すごい…」 感嘆の声を漏らしたマシューにリヒャルトはにっこりと微笑みかけると、真っ直ぐ背筋を伸ばして敬礼している衛兵に片手を上げて軽い挨拶を投げかけた。 「おかえりなさいませ、リヒャルト王子殿下。」 「ただいま。何か変わったことは?」 「平常です。」 「ありがとう。」 「…殿下、恐れながら…」 「リッチ!戻ったか!」 明らかにマシューに不審な目を向ける衛兵は、突如かかった声にビシッと背筋を伸ばし敬礼の姿勢を取った。マシューが振り返ると、豪奢な兜を小脇に抱えふわふわと遊ぶ豊かな栗色の髪をした精悍な顔立ちをした大男が満面の笑みで近付いてくる。その瞳はリヒャルトと同じく紫色に輝いていて、もしかして、と思うより先に男は筋骨隆々な逞しい腕をガバッと広げてリヒャルトを思い切り抱きしめた。 「ぐふっ…」 「おかえりリッチ!!兄さんは、寂しかったぞー!!疲れただろう、出先でもちゃんと眠れたか?しっかり食べて寝ないとまた熱を出すぞ?どこか怪我をしたりはしていないか?ちゃんと手当てして医者にも診てもらって…」 「ラインハルト殿下、リヒャルト殿下が窒息します。」 「む!出たなゲオルグ!いつもいつもリッチに同行しおって羨ましい…!」 「恐縮です。」 顔色一つ変えずに男の恨みつらみを躱していくゲオルグはいつものことのようで、男の腕の中からリヒャルトを救い出すと、盛大に乱れた美しい黒髪をさっと整えた。 これまで疲れた顔など一つも見せてこなかったリヒャルトが若干青い顔をしながら、大男に敬礼の姿勢をとった。 「ただいま戻りました、ラインハルト兄様。ご覧の通り健康体ですのでご心配なく。」 「うむ!何より!」 大男は満足そうに頷くと、折角ゲオルグが整えたリヒャルトの髪をぐしゃぐしゃと豪快に掻き回した。されるがままのリヒャルトはどことなく嬉しそうで、これまでひたすらに自分を甘やかして包み込んでくれるリヒャルトしか見てこなかったマシューはその幼い表情にどきりと胸を高鳴らせる。こんな表情(かお)もするんだ、と呆然としていると、再び乱れた髪を今度は自分で整えたリヒャルトがマシューに歩み寄ってくる。そしてマシューに一歩前に出るよう促した。 「マシュー、こちらは兄のラインハルト。今現在最も王位継承権の高いお方だよ。兄様、彼はマシュー。いずれ正式に発表する場を設けるつもりですが…」 リヒャルトは一呼吸置いて、口を開いた。 「彼を、生涯のパートナーとして迎え入れるつもりです。」 射抜くような鋭い視線に、マシューは萎縮する。けれどここで目を逸らしてはいけないと、そう思った。

ともだちにシェアしよう!