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甘く柔らかなテノールが自分の名前を呼んだ気がして、マシューは深い眠りの底からゆっくりと浮上した。
「………は、…だから…マシューが起きてから…」
重たい瞼を微かに持ち上げると、ぼんやりとした視界に朝日が飛び込んでくる。大きなベッドは薄いヴェールがかかっていて、ヴェールの向こうはよく見えなかったが、人影が二つあるのはわかった。
マシューは布団の中から這い出してぐーっと身体を伸ばした。窓から降り注ぐ太陽の光に全身が喜んでいる。大きく深呼吸すると、紅茶の良い香りが鼻腔をくすぐった。
そうしていると、コツコツと靴音がしてベッドを覆っていた天蓋が静かに捲られる。そこから顔を出したのは、昨日までの簡素な礼服ではなく白のロングTシャツに黒のパンツというラフな出で立ちのリヒャルトだった。
「おはようマシュー。よく眠れたかい?」
「リヒャルトさま…おはようございます。はい、ぐっすり。」
「よかった。」
そう言いながらベッドに腰掛けたリヒャルトはごく自然にマシューの肩を抱き寄せて軽く頬にキスした。マシューはそれに当たり前に顔を赤くしたのだが、その流れがあまりに自然でリヒャルトがなんでもないような顔をしているから、もしかしてラビエル王国では挨拶なのかなと思ってしまう。火照った頬をなんとかしようと両手で頬を包んでみたが、熱いだけでどうにもならなかった。
「すぐに朝食にするかい?シャワーを浴びてからでも良いし、喉を潤すなら今朝はセイロンティーならすぐに出せるけど…ああそれとも水とかの方がいいかな?」
「え、えっと…あの、…お水を…」
「わかった。ゆっくりしていていいよ。」
頷くと同時に腰を上げたリヒャルトはすぐに部屋の外に控えていた侍女に水を持ってくるように伝え、マシューの元には戻らずソファに腰掛けた。程なくして聞こえてくる紙をパラパラとめくる音が心地いい。が、こんな朝早くから忙しくしているらしいリヒャルトの真横でゴロゴロしているのは忍びなく、マシューはごそごそとベッドから降りて、ぴょこんと顔を出した。
一瞬顔を上げたリヒャルトと視線があって、にこりと微笑を向けられた。その後ろにはゲオルグが音もなく静かに立っている。マシューは起きてきたはいいもののどこにいたらいいのかわからず視線を彷徨わせ、ゲオルグの隣に立った。
「…おはようございます、マシュー殿。」
「お、おはよ、ございます…」
もしかしなくてもずっといたのかな、とマシューはいたたまれなくなった。特に聞かれて困るような会話もなかったにも関わらず、だ。
一人小さくなっているマシューを他所に、リヒャルトは分厚い紙の束に目を通し時折サインをしながら早口で話し始めた。
「ゲオルグ、今日明日の予定はさっき話した通りでいい。謁見は…後日の方がいいな。マシューの礼服が仕上がってからにしよう。その頃には顔の痣も癒えているだろうし。」
「御意。オリヴィア王妃殿下が非公式で構わないから一目お会いしたいと仰っております。如何様になさいますか。」
「今日は断ってくれ、時間が読めない。後で…ああいや、今詫状を書く。」
「ではそのように。」
「…そうだな、30分後に朝食を。」
「御意。では失礼致します。」
「マシュー、そこ座っていいんだぞ?」
「はっはい!」
滝のように次々と交わされる話に全くついていくことができず呆然としていたマシューは突然声を掛けられて飛び上がった。
敬礼をしてさっさと部屋を立ち去ったゲオルグの背中を見送ると、マシューは恐る恐るリヒャルトの正面にある一人がけ、にしては大きいソファにちょこんと腰掛けた。
「朝食を食べたら仕立て屋を呼んでいるから採寸しよう。礼服はきちんとサイズがあったものを選ばないとね。」
「礼服…」
「とりあえず3着くらい持っておくといい。仕上がるには数日かかるし、普段着るものでもないから終わったら普段着を買いに出ようか。」
いつも着るものでもないものを3着。更に普段着。きっとプラスで寝巻き。湯上りのバスローブもあるかもしれない。
ボロボロの雑巾のような服をほとんど洗うこともないくらいに着ていたマシューには到底信じられないことではあったが、王族の間では普通なのだろう。あまりの格差に、僕やっていけるかな、と一抹の不安を覚えつつ運ばれてきた水を口に含んだ。
すると、ただの水であるとは思えないほどに甘みがあり、それでいてスッキリとした口当たりが寝起きの頭にキリッと響いて、マシューは思わず口をついて出た。
「…美味しい。」
それに漸く書類の束からリヒャルトが顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「だろう?ただの冷やした水道水だよ。この国では王宮でさえわざわざ水を買うことはしないからね。自慢の水さ。」
その笑顔が見たこともないほどに無邪気で、マシューは思わず胸を高鳴らせた。
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