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マシューは困り果てていた。 ふわふわの温かいパンに果肉がたっぷり入った甘さ控えめのブルーベリージャムで幸せを感じていたところまではよかった。一緒に出てきたオレンジジュースも、リヒャルトは「よくある100%のオレンジジュースだよ」と言っていたけれどとにかく美味しかった。 食事が終わって一息ついて、リヒャルトが呼んだ仕立て屋が訪ねてきたとき、安息の時間は終わった。 「殿下、こちらのレモンイエローはいかがですか?とてもお可愛らしいですから、明るい色味はとても良いと思いますわ。」 「却下。」 「ではこちらのスカイグリーンは…」 「却下。」 「…ではやはりピンク系を…」 「ピンクは全面的に却下だとさっき言った。」 「もおおお殿下うるさいですわ!!ご自分はなんでもいいと仰るくせに!!」 「騒ぐな、次。」 マシューは苦笑いを隠し得ない。 先程からこんな調子で全く進まず、マシューはとりあえず着せられた若干大きいシャツの裾を握って立ち尽くしている。 リヒャルトが懇意にしているという仕立て屋はとても珍しい美しい羽が特徴的な孔雀の獣人で、採寸なんて初めてのことに構えるマシューの服を強引に剥ぎ取った後テキパキと採寸すると大きな鞄から沢山のサンプル生地を広げ、マシューにどんな色がいいかを尋ねたのだが、マシューはさっぱりわからずリヒャルトに助けを求めた。それが間違いだった。 「リヒャルト様は折角お美しいのにお召し物にあまり拘りをお持ちではないのよぉ」と嘆いた仕立て屋の予想を裏切り、どうも定位置らしい立派なソファに腰掛けたまま仕立て屋の提案をあの調子で千切っては投げ千切っては投げを繰り返している。長い脚を組んで頬杖をつきながら容赦なく切り捨てる姿は貫禄だ。 堪忍袋の尾が切れた仕立て屋は臀部から生えた見事な羽を大きく広げて怒りのあまりバッサバッサと仰いで威嚇している。美しい羽が何枚も床に落ちていた。 「わたくしはマシュー様に是非このピンクを使いたいですわ!!絶対にお似合いになりますわ!!」 「絶対にピンクは却下だ。おいこら仰ぐな部屋が汚れる。」 「きいいいい!!!このワガママ王子!!!暴君!!!悪魔!!!」 「なんとでも言え。知っての通り俺は権力に物を言わせるのが大好きだ。ほら次。」 「きいいいいいい!!!!」 権力に物を言わせるリヒャルト様なんてとても想像できない、と思ったのはこの場でマシュー一人だけである。ブツブツ文句を言いながら別の生地を広げる仕立て屋の隣でアシスタントの若い女性が苦笑いしている。ゲオルグに至っては部屋の隅に立ったまま目を閉じている。現実逃避だ。 「大体!!全面的にピンクがダメってどういうことですの!?ピンクはピンクでもこういった淡いパステル調のものとビビットなものではまるで…」 「どちらも却下という意味だ。何度も言わせるな。」 「ムキイイイイ!!!意図をお聞きしているのです!!!」 「意図だと?」 リヒャルトはようやく定位置のソファから立ち上がり、ひらりと一枚のピンク色のサンプル生地をマシューの首元に当てた。桃のような淡く優しい色味で、仕立て屋一押しのその色。リヒャルトは真剣な顔でじっくりと見て、やはり首を横に振った。 「可愛すぎるだろうが…!」 「………お好きになさってくださいまし。仰せのままに致しますわ。」 ━━━ 結局礼服の仕立てに白熱してしまったために、3着全てのデザインが決まるまでに丸一日を費やしてしまった。 それでもああでもないこうでもないと討論の末ゲオルグにまで意見を求めた礼服はリヒャルトも仕立て屋も納得のいくものになりそうで、満足気に頷いた二人の顔にホッとしたものである。 自分の礼服にはまるで拘りがないというのが嘘に思えるほど、今日のリヒャルトは熱くなっていた。そんな彼の姿を思い出すと、自然と笑みがこぼれそうになって、マシューは慌てて湯の中に顔を半分沈めて誤魔化し、笑いの波が過ぎ去るとこれ以上余計なことを思い出してのぼせる前に早々に上がった。 「マシュー、おかえり。よく温まったかい?」 風呂から上がりリヒャルトの自室に戻ると、ソファに腰掛けていたリヒャルトが立ち上がって迎えにきてくれる。リヒャルトはマシューの肩にかけられたままだったタオルを取ってふわりと頭にかけ、まだ少し湿っていた髪を優しく拭ってくれた。 「夜は冷えるから、きちんと拭かないと風邪を引くよ。」 「はい、ありがとうございます…」 ふわふわのタオルの感触と、優しい手の温もりが心地いい。大きな耳の付け根を丁寧に拭かれると、くすぐったいようなむず痒いような、けれど心地いい不思議な感覚が走って、マシューは目を閉じた。 「おいで、薬を塗ってあげよう。」 静かな声でそう言いながら手を引かれて、マシューはそっとベッドに横たえられた。リヒャルトが薬の用意をしている間、マシューはこれから襲ってくる途轍もない羞恥のための覚悟を決める。 ぎゅっと胸元を握って深呼吸をして、意を決してバスローブを寛げた。 「…うん、流石はグスタフ先生だ。昨日より随分綺麗になったね。まだ痛む?」 「いえ、でも…少し痒いです。」 「痒み止めを塗っておくかい?耐えられるようなら今はやめておいて、どうしてもという時に塗ってもいい。夜中でも起こしてくれて構わないから。」 「大丈夫です、これくらいなら…」 「じゃあまだ傷口が塞がりきっていないところだけ薬を塗っておこうか。」 リヒャルトはそう言ってマシューの身体をじっくりと見ながら、丁寧に薬を塗ってくれる。その撫ぜるような手付きがあまりに優しくて、まるで大切な宝物にでも触れるようにしてくるものだから、リヒャルトはただ薬を塗ってくれているだけだというのにあらぬ感情が顔を出してしまうことが恥ずかしくて堪らない。 ちらりと見れば漆黒の長い睫毛が美しい紫水晶を覆い、常闇に輝く宝石のよう。幻想的な色彩の美しさに呑まれてしまいそうで、その美の持ち主に対して劣情を抱いてしまうことが堪らなく恥ずかしかった。 「んっ…」 「あ、すまない…痛かったか?」 「いえ、大丈夫…」 まさか身体の芯を熱くしているなんて言えるはずもなく、マシューは必死に気を紛らわせようとリヒャルトから視線を逸らすしか出来ないのだ。 「はい、終わりだよ。」 「ありがとうございます…」 全ての傷口を見てもらうころにはもはや涙目だというのに、リヒャルトはなんでもないような顔をしている。いつも通り優しい微笑を浮かべている。きっとリヒャルトは、ただ自分の傷が早く癒えることを願ってくれているに違いない。 自分が酷く浅ましい生き物に感じて、マシューは余計に恥ずかしくなるのだ。 「おやすみマシュー、何かあったら言うんだよ。」 リヒャルトはそう言って触れるだけのキスをして、マシューが眠るまで手を握っていてくれる。昨日も今日も。唯一救いなのは、リヒャルトはまだやることがあるらしく、布団には入らずベッド脇の椅子に座っていることだ。 同じベッドに入っていたら、きっと眠るどころではない。ドキドキして、睡魔に襲われることもなく朝を迎えるだろう。 マシューは少しホッとしながら、瞳を閉じた。

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