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閑話・紫水の悪魔

眠りについた可愛い兎を起こさないよう細心の注意を払いながらリヒャルトは無駄に重く立派な扉をそっと閉め、ゆっくりと深呼吸をしてその扉に背を預けた。 安心しきった寝顔はあどけなく、もう子供ではないし痩せ型だというのに丸みを帯びた滑らかな頬は思わず撫でたくなる柔らかさ。ここへ来るまではパサパサだった髪も随分と滑らかになり、いつまででも触れていたくなる。思わず口元が緩んでしまうのも致し方ないというものだ。 リヒャルトはマシューの寝顔を思い出しながらぐしゃぐしゃと美しい黒髪を掻きむしってその場に座り込み、頭を抱えたまま息を吸い込む。 「……………ラビエル王国法規第一条第一項、王は民の父であり太陽であれ。第二項、王妃は民の母であり月であれ。第三項、王族とは…」 「執務室開けましょうか、殿下。」 「うおわっ!?」 いつかのように真上から降ってきた唸り声のような低い声に、リヒャルトは今日も飛び上がった。 「びっ………くりさせるなもう、ほんと、やめろ本当に…!」 「失礼、突然頭を抱えて王規を唱え始めるのでついに気が触れたかと。」 「本当に失礼な奴だな…」 息を荒げてし心臓を押さえながらまるで化け物を見るような顔をするリヒャルトに、ゲオルグは何でもないような顔をして懐から封書を取り出し、それをリヒャルトに手渡して数歩下がって距離を保った。 三つ折りにされたそれを少々乱雑に開いたリヒャルトは、ざっと目を通していく。ものの数秒で面倒臭そうに眉根を寄せながら溜息をついた。 「食糧庫を焼け。15分後に地下水路の水門を開けろ。1時間後にもう1箇所だ。」 「…生き残りの兵は如何なさるおつもりで。」 「兵?そんなものラグナ要塞にいたかな。」 リヒャルトは意味がわからないというように首を傾げた。その紫色の瞳には、優しさや人情といった感情がすっぽり抜け落ちたように冷たい。それでいて、どこか愉しげに輝いている。それは、とても不自然で、いうなれば不気味な表情だった。 表情動かさないゲオルグに、リヒャルトはフッと鼻で笑って見せた。 「…山賊ごときに遅れをとるようじゃ、難攻不落と名高いラビエルの(つわもの)とは呼べないな。やる気がないか内通者がいるかの二択だろう。やる気がないなら水路が氾濫して山賊もろとも一掃。2箇所目の水門が開かなければ止めた奴が内通者だ。」 話は終わりだと言わんばかりに手にしたそれを何度か折る。やがて姿を現したのは、紙飛行機だった。 リヒャルトの白い指先がそれをまっすぐに放つと、すーっと空中を突き進んでいく。それは真っ直ぐ滑らかに飛んでいき、やがてゲオルグの目の前に辿り着く。 そしてその紙飛行機が眼前に迫った時、ゲオルグはそれをグシャッと握り潰した。 「…貴方の今のそのお顔、是非ともマシュー殿にお見せしたいですな。」 リヒャルトはゲオルグのその一言に豆鉄砲を食らった鳩のようにキョトンとして見せた。それはほんの一瞬のことで、すぐにふわりと甘く蕩ける笑みを浮かべた。 それは、マシューの前でいつも見せる顔。 「…あの子の前ではお綺麗な王子様でいるさ。」 ゲオルグはまた、ゾッとする。 一礼して、リヒャルトの指示を実行すべくその場を離れた。そしてしばらく進み、リヒャルトの気配が感じられなくなったころにポツリと呟く。 「…恐ろしいお方だ。」 リヒャルトは戦場に出た経験がない。剣を握ったことすらない。それなのに、いやだからこそかもしれないが、眉一つ動かさずに多くの命を左右する。 美しい紫水晶の瞳で未来を見据え柔和な表情と穏やかな声に真実を隠し、皆が気付いた時には全てが彼の術中に嵌っている。その常人離れした巧みな戦術と話術を恐れ、人々は彼をこう呼び始めた。 『紫水の悪魔』と。

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