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epilogue

木の温もりが感じられる小さな家の中に、香ばしいパンの香りが広がっている。フライパンの上で踊るのは目玉焼き。鍋の中にはたっぷりの野菜がくたくたに煮込まれた優しい色のスープがいっぱいに入っている。 パンがこんがり焼けたのを確認したルイはそれを皿に乗せ、新聞に顔を隠した夫に声をかけた。 「はい、ゲオルグさん。焼けたよ。」 「…ん、ああ…ありがとう。」 「何をそんなに真剣に読んでるの?」 艶のある漆黒の獣毛に覆われた顔の中に埋め込まれた琥珀色の瞳を再び新聞に落としたゲオルグは、それをルイに渡して見せた。 そこに描かれているのは、祖国ラビエル王国の第三王子リヒャルトと、誰もが彼の侍従と言う名の愛玩動物だと思っていた兎獣人。二人が仲睦まじく並んでラビエル王城の庭園を歩く姿だった。 ルイはその絵に添えられた本文に目を通す。ゲオルグが席を立って調理中のガスを止めてくれた。 「わ、本当に放棄しちゃったんだ。王位継承権。ほんっと自由人…ていうか自分勝手!」 「…ラインハルト第一王子の継承権剥奪から暫く経つが、今度はジークハルト殿下とリヒャルト殿下の二人で継承権争いが勃発しそうだったからな。」 「二人でって、騒いでいたのは外野でしょ?」 「ああ。リヒャルト殿下はかねてよりジークハルト殿下の右腕として国政に関わりたいと仰っていたからな。」 ルイは新聞を適当に折り畳むと、今は使われていない客人用のテーブルチェアにそれを置いた。大きく書かれた見出しは『ラビエル王国第三王子、王位継承権を放棄』だ。 『生涯ただ一人、彼だけを愛すると誓いました。しかしながら、男性βである彼は私の子を産むことが叶いません。…王の大切な責務の一つ、世継ぎを作ることができない私に、王位を継ぐ資格はありません。』 そう言って手を握り合った彼らの指には、同じものが光っていた。 他国の貧民であったマシューの奇跡の転身劇は世界中の貴族に激震を与えた。身分に縛られず自ら友人を選び伴侶を選び始めた。そして選ぶ幸せを知った若い貴族達は他人の言うことに耳を傾け市民の生活に目を向け始め、結果市民の生活水準はものの数年で飛躍的に向上して暴動は起こらなくなり、少しずつ争いの少ない世界になりつつある。 しかし今度は世界を平和に導くリヒャルトを王にと考える者達が不穏な動きを見せ始めた頃に、リヒャルトはマシュー以外の者と情を交わすつもりがないことを発表し、世継ぎを作らないことを理由に王位継承権を放棄。現王クラウス及び次期王ジークハルトの右腕としてこれからも変わらず世界平和のために奔走することを宣言した。 地位も身分も教養もない兎獣人でなければこうまで貴族達に影響を与えなかっただろう。他国の者でなければ世界に影響を与えなかっただろう。リヒャルトの子どもを作れない男のβ、もしくは男のαでなければ王位継承権の放棄は成立せず、内乱が起こったかもしれない。 持病だけでなく実兄による暗殺未遂、そして花嫁と側近の逃亡と様々な困難に見舞われたリヒャルトを支え続けたマシューでなければ、誰も納得しなかっただろう。 「…マシュー殿はβだが、出逢うべくして出逢った運命のお二人だったのだろうな。」 「え?なぁに?」 「いや、何でもない。」 ゲオルグはその言葉を最後に、焼きたてのパンを頬張った。 初めて出会ったあの日、ベッドから起き上がることもろくに出来ない小さな子どもだった。今にも死んでしまいそうな程弱々しいそれはゲオルグの目を盗んでは窓から巨木に飛び移って散歩をしようとする。なんて馬鹿な生き物なのだろうとただただ呆れたあの日が懐かしい。 ゲオルグはスープに口をつけた。 煮込んだ野菜の優しい甘みがいっぱいに広がり、全身に染み渡っていった。 今にも死んでしまいそうなあの子どもはもういない。子どもは成長し、強く逞しくなった。 「ねぇゲオルグさん。僕、この子に付けたい名前があるんだけど。」 ルイが大きく膨らんだ腹をゆっくりとさすりながら声をかけてきた。予定通りならあとひと月も待たずに生まれてくるルイとゲオルグの愛の結晶が、そこにいる。 ゲオルグはその大きな愛しい腹に視線を投げて、なんだ?と聞き返した。 「リヒャルト…は、どうかな?」 女の子だったらどうするんだ、という率直な感想をグッと飲み込み、ゲオルグはいいんじゃないかと頷いて、今度は目玉焼きの真ん中にぷすりと穴を開けた。半熟の黄身がとろりと流れ出てくるのを見てちょっと残念な気持ちになる。ゲオルグは半熟よりも完熟が好きなのだが、共に暮らし始めて2年、人間にしては(いささ)か不器用なルイがようやっと半熟の目玉焼きを習得して得意になっているのに、それを告げることができずにいるのである。 ━━━ リヒャルトを育て、ルイを愛した獣人ゲオルグは思う。 人間とは愚かで脆弱で、それでいてなんと高潔で尊い生き物か。 まこと摩訶不思議である、と。

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