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「リヒャルト王子殿下より貴方様の教育係を命ぜられました、マルクスと申します。…以後、よろしくお願い致します。」 鋭い眼差しに大きく尖った嘴、羽を畳んでいてもわかる大きな身体に、マシューは恐怖のあまり歯が鳴りそうになるのを必死に堪えた。 ああどうして、リヒャルト様がお側にいてくださる時に初日を迎えるようお願いしなかったのだろう。 ━━━ 文字を覚えたい。 そう願ったマシューに、リヒャルトはそれは嬉しそうに微笑んで、すぐに教師を手配すると言ってくれた。とは言っても禁書室に籠りきりだというから、ルイの発情期が終わるまでは何事もないだろうと踏んでいたのに、早速このマルクスが訪ねてきたのである。 母国サスキアでは見かけることのなかった猛禽類の鳥人。ギラギラ光る眼差しは黒豹獣人であるゲオルグとはまた違った鋭さがある。どちらにしても小さな兎であるマシューには畏怖の対象でしかない。マルクスが差し出したノートとペンを前に泣きそうになりながら机に座った。 「文字を覚えたいと伺っております。どの程度を目指しておられますか。」 「あの、一切合切読めません…程度が、あるのですか…?」 「そうですね、子どもが読む本を読めるのと、ある程度の学術書を読めるのとでは随分差があります。ご参考までにですが、王族の伴侶になられる方は皆様王立大学を卒業されますので、高難易度の学術書を読み、それに匹敵する論文を書かれます。」 「……………あの、えっと…」 「とまぁ脅かしても仕方ありません。先ずは安定して読み書きができるようになりましょう。読めるようになれば自然と書けるようになりますよ。それに、幸い貴方は既に素晴らしい教本をお持ちのようですし。」 「え?」 マシューの素っ頓狂な声を聞いたマルクスは小首を傾げ、昨夜寝る前に眺めてテーブルの上に置きっぱなしにしていた絵本を指差した。 リヒャルトに買ってもらった、1人の少女と天使のお話。夢物語に違いない、けれどどこか現実味がある優しい無償の愛の物語だ。 「この絵本、文字を学ぶために入手したのではないのですか?」 「いえあの、リヒャルト様と本屋さんに行った時に僕が欲しくて買っていただいて。」 「…そうですか。」 マルクスは少し考えて絵本の最初のページを開き、文字の羅列を指差した。 「このページを丸暗記していただきます。ここからここまでの文章に全ての公用文字が使われており、この国では文字を覚える最初の手習いとしてこの絵本が使われます。この文を空で読めるようになれば大抵の本が読めますよ。」 鋭い眼光を僅かに和らげたマルクスは、立派な羽でポンとマシューの肩を叩いた。それがとても心強くて、マシューはほんの少しだけ勇気付けられて、なんとかやれそうな気がした。 「…はい!」 元気良く頷いたマシューにマルクスは僅かに目尻を下げ、最初のページを読み上げ始めた。 ━━━ 「…明日もう一度見せていただきます。今日はここまで。」 「ありがとうございました………」 力なくお辞儀をしたマシューに、マルクスは小さく溜息をついて会釈をしてから部屋を出て行った。 しんと静まり返った部屋に、侍女がお茶を淹れてくれる水音がやたら響いた。マシューには風にたなびくカーテンをぼんやり見つめる。その向こうに広がる青空が憎たらしく見えた。 マルクスに文字を教わり始めて早一週間が過ぎようとしている。 ラビエル国民が皆手習いに使うという『私の愛しい天使へ』という絵本の冒頭を空で読めるようになるまでは早かった。リヒャルトもいないのですることもなく、2日目には完璧に読めるようになってマルクスを感心させ、別の絵本をや詩集をたくさん読むことで文字に慣れていくのも早かった。 しかし問題は書く方で、ペンもろくに握ったことがないマシューはまずペンを正しく持つところから始めねばならず、ミミズがのたうったようなとても文字とは呼べないそれに、マシュー自身ガッカリしてしまう。 マルクスは大きな声を出してマシューを叱りつけることは決してなかった。むしろ大きな溜息をついて頭を抱えた。 普段マルクスは優秀な王族貴族の子を教えているだろう。ペンの持ち方一つにこんなに苦戦する生徒は初めてに違いない。ガッカリとも違う困り果てたあの顔を思い出すとマシューの方が大きな溜息を吐きたくなってしまう。 しょんぼりと耳を垂らすマシューを見かねた侍女が、お茶を差し出して声をかけてきた。 「…マシュー様、こちらお召し上がりになったら庭園を少しお散歩なさってはいかがでしょう。熱心なのは素晴らしいですがずっと部屋に篭っていますと気が滅入りますよ。殿下も今日明日にもお戻りになるでしょうから、貴方がそんな顔をしていてはご心配なさいますわ。」 目の前に出されたのはスッキリとした香りがする馴染みのない変わった色のお茶で、マシューは恐る恐る口に含む。すると華やかな香りが口いっぱいに広がり、疲れた脳と落ち込んだ心をグッと上向きに持ち上げてくれた。 「こちら南国のお花で作られたお茶で、殿下のお気に入りですのよ。ちょうど温室で咲いている頃合いだと思いますわ。ぜひ息抜きにご覧になっていらしてくださいまし。」 マシューはそのお茶をすっかり気に入ってあっという間に飲み干すと、この1週間で早くもくたびれ始めた『私の愛しい天使へ』の絵本を抱えて部屋を出た。

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