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一人で城の中を歩き回ることはほとんどない。広い城の中を鋭い嗅覚に頼って歩いて行くと、やがて外から入る風が運んでくる花の香りを感じ取り、すぐに庭園に出ることができた。 大きな噴水が太陽の光を城の庭園に散らし、青々と茂る緑や色とりどりの花達を飾っている。右を見ても左を見ても隙がないほど完璧に整えられた庭園はとても美しく、マシューは絵本を抱えたままほうと感嘆の溜息を漏らした。 こんな綺麗な場所があったなんて。 思えば城下町に出たことは何度かあるが、リヒャルトは庭園の散歩を提案したことはなかった。この前深夜に連れて行ってくれた小丘に向かうのもこの庭園は通らなかった。なにか理由があるのだろうか、こんなにも美しい庭園なのに。 マシューは一歩踏み出し、両手を広げて胸いっぱいに空気を吸い込む。爽やかで清らかな空気を身体で感じ取り、滅入った気が少し回復した気がした。 そしてゆっくりと歩みを進め、ぐるりと辺りを見回す。今日は日が暮れるまでこの辺りで文字の練習を、と思ったその時、見慣れた美しい黒髪を視界の端に捉えた。 「………リヒャルト様。」 そこにいたのは、間違えるはずがない、リヒャルトその人だった。 恋い焦がれる美しい紫色の瞳はこちらに気がついていないようで、少しもマシューを見ない。柔らかく優しい光をたたえた瞳が見つめるのは、金色の髪を風に揺らしほんのり頬を赤らめた婚約者だ。 『ルイは、ゲオルグを慕っているんだ。』 リヒャルトの声が木霊する。マシューは根が張ったようにその場から動けなかった。ルイがリヒャルトの袖をくいと引っ張るとリヒャルトは少し屈んで視線を合わせようとして、その瞬間、ルイはリヒャルトの耳元で愉しげに何かを囁いた。そして二人は小さく笑い合って、再びゆっくりと歩き出す。少しするとルイが何かを見つけたのか小走りになって、リヒャルトは仕方がないなとでも言うように小さく溜息をついて追いかけて行った。 マシューはその背中を見届けて、漸く重い足を動かすことができた。 鉛になったように言うことを聞かなかった足は次第に軽くなり、いつのまにかマシューは走り出して、どこへ行きたいのかも分からずひたすら走った。ただ二人が向かった方向と逆方向であることはわかった。二人を見ていたくなかった。 王族だから、結婚する人がいてもおかしくない。二人三人と囲うのも当たり前のことなんだろうと思う。現国王も、リヒャルトと兄のラインハルトでは母親が違うということは少なくとも二人は相手がいるんだろう。政治的に決められた相手と、実際に愛を交わす相手が別というだけのこと。その実際に愛を交わす相手が自分であるなら、なにも心配する必要はないと、そう思い込んでいた。 マシューは頬を伝う涙を拭うこともなく全速力で走った。やがて辿り着いたのは城門に囲われた隅の隅で、一体自分がどこにいるのか見当もつかない。完璧に整えられていた庭園と違い、雑草が生えていた。小さな花が踏まれて折れ曲っている。真新しい靴跡、きっと踏み潰したのは自分だ。マシューはそれを見てまたぶわっと大粒の涙をこぼした。 今やっとわかった。 彼はきっと、王子としてルイと結ばれて、リヒャルトとしてマシューを愛するのだろう。そしてそれはきっと王族として当たり前のことなのだ。 釣り合うとか釣り合わないとかそういう話ではなくて、その覚悟が出来るか出来ないかの話。庭園で綺麗に整えられて咲くだけではダメだ。踏まれても折られても天を仰ぐ雑草のような強さがなければならないのだ。 マシューはその場に座り込み、声を押し殺して泣いた。足元ではマシューに踏み潰された小さな花が健気に天を仰いでいる。地面に必死で根を張り巡らせたこの白い花は、きっとまた芽を出し花を咲かせるだろう。 その強さが、自分にはあるだろうか。 「…リヒャルト様…ッ」 それでも張り裂けんばかりの胸の痛みが、彼への恋心がもう引き返せないところまで来ていることを証明していた。 仮に断腸の思いで彼の手を離したところで、行くところもなく頼る人もいない。もはや、リヒャルトの側を離れるという選択肢がなかった。

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