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のっけから若干説明くさくてすみません。
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潤が代表取締役社長を務める森生メディカルは、森生グループのなかでも中核を成す医療事業を担っている。医薬品と医療器具の研究・開発・販売を行っており、アメリカとドイツにも拠点を持つ、従業員四千人規模のグローバル企業だ。
主に医療器具の開発・販売を担う「デバイス部門」と医薬品の開発・販売を行う「ファーマ部門」に別れており、デバイス部門では特に自己注射器や、製剤開発でも業界で一目置かれている。ファーマ部門は、国内企業では唯一オメガのフェロモン抑制剤を自社開発しており、業界内でも研究・開発力に定評がある。そのほかジェネリック医薬品を販売する子会社なども抱えている。
親会社の森生グループを含めた大きな特徴は、一族経営であるということ。森生メディカルを率いるのが若干二十九歳の潤であることや、事業持ち株会社の森生ホールディングスのCEOは、オメガである潤の母親であることなど、たびたびその突飛な人事が話題になったりする。
その中で、森生グループ創業家の長男がなぜ事業に関わらず医師をやっているのか。その具体的な理由を、潤は颯真本人から聞いたことがない。
俺は家を継がずに医学部に行く。
そう言い出したのはいつだっただろうか。潤の記憶では中学三年生の頃だったように思う。
颯真がアルファと判明し、親族一同が胸をなで下ろしてしばらくしてからだった。跡取りであるはずの颯真がいきなり後を継がないと言い出し、上から下まで大騒ぎになった。一族総出で説得したが、颯真は医師になるという主張を曲げず、そのまま義務教育終了と同時に医学部受験に強い全寮制の高校に進学してしまった。
これまで何でも話してきた間柄だったのに、まったく相談がなく、突然の進路変更だった。
今となっては颯真が医師であることに潤はとても助けられているが、当時はショックな出来事だった。
潤の自宅は中目黒にある。幹線道路沿いにあるタワーマンションの最上階だ。オフィスは品川で、実家は横浜であるため、社用車を使える身分であることもあり、実家から通うことは容易い。しかし、潤は森生メディカルに入社した年に自立を望んだ。
もちろん、最初からこのような場所に住んでいたわけではない。当初はワンルームマンションだった。品川の近隣の、とある下町の商店街の先にある部屋を選んだのだが、通勤ラッシュが過酷な沿線で知られており、颯真と両親から通勤経路とマンションのセキュリティ、さらには駅までの道のりも心配だと言われ、比較的治安の良い沿線の駅前で、セキュリティがしっかりしたマンションに決めざるを得なかった。
このマンションに引っ越してきたのは一年半前。海外勤務が終わり、本社に取締役として着任するタイミングだ。正確には潤が望んだ物件ではなく、颯真と潤の秘書としてすでに内定していた江上が探してきたもので、潤自身には選択肢がなかったのが正確なところだ。
潤のマンションには颯真も同居している。実家が横浜で、横浜の病院に勤めているため、独立する必要など皆無だ。しかし、潤が東京に戻ってきてしばらくして、連日の激務と緊張が原因で体調を崩した時、看病という名目で颯真がやってきて、そのまま住み着いてしまった。
「おはよう」
颯真は時間に正確だ。毎朝五時四十五分には起こしにくる。潤も颯真も時間が惜しい仕事柄、朝は早い。とくに颯真はここから職場までは車を飛ばせば三十分ほどで、時間的にも余裕があると朝食を作ってくれたりする。潤と一緒に出勤する江上もやってきて、朝から三人で朝食をとることも多い。
「……ん」
眩しいと思いつつ、目をこらすと、ワイシャツ姿の颯真がこちらを見下ろしている。
ようやく潤がベッドの中から顔を出し、夢と現の区別がつき始めた時、颯真はベッドの縁に腰掛け、掛け布団に埋もれる潤の顔を覗き込んできた。
「起きられる?」
颯真の声に、潤はわずかに頷く。兄と違って、少し寝起きが悪い質だ。
颯真に掛け布団を肩まで剥かれるが、室内はエアコンが効いていて寒さは感じない。
「江上が来る前に軽く診て、抑制剤を投与しようか」
そう言われて、ようやく頭が動き始めた。
「う……ん」
頷きながら布団のなかでまどろんでいると、颯真は手早く寝間着の胸元を寛げ、持参した聴診器で診察される。多分、昨日発情症状が現れていたのが気になっていたのだろうと潤にもぼんやりと分かった。
そのまま動かずにいると、布団から左腕を引っ張り出され袖をまくり上げられる。颯真を見上げると、封を開けて手早く針を装着された注射器がその手元にあった。腕に素早く消毒の脱脂綿が走ると、流れるような速さだが、容赦なく注射器が刺された。
「……んっ」
思わず身が堅くなる。
「薬を入れるからな」
颯真の親指が動き、薬剤が潤の体内に注入される。
「大丈夫、すぐに終わるよ」
注射剤で投与されるのは珍しいことではないのに、なかなか慣れない。
予告どおり、それはすぐ終わった。颯真は注射器を片付けながら、今朝は発情症状がみられないけど、少しでもおかしいと思ったら、これを飲むようにとフィルムに包装された抑制剤を一錠渡した。
メルト製薬の抑制剤。
「もう一錠は念のため江上に渡しておく」
準備は抜かりないなと、寝起きの頭でも潤は思った。
不意に部屋の外からチャイムの音がする。
室内の時計を確認すると、朝六時。
「お、江上が来たな。朝飯作るから早く来いって言っておいたんだ。お前も準備しろよ。飯待ってるから」
颯真はそう言って、部屋を出て行った。
身支度を整え、颯真と三人で軽く朝食を取って、午前七時には到着していた社用車に乗り込む。本社まで二十分ほどの行程を、江上から今日の予定と報告を聞いて過ごす。
「今日は午前十時から取材です」
密着取材といえどもすべての行動に密着されるわけではなかった。今日は業界団体の会議に出席予定で、その部分の取材を受けるという話になっていた。
「会議終了後に上京された高地メディカルの鈴木社長とパワーランチ、帰社後に再び取材のインタビュー撮りがあります」
今日もかなりタイトなスケジュールだなとぼんやり潤は思う。昨日颯真に診てもらっておいて正解だったと江上の判断をさすがと思った。
「十五時にファーマ本部の高岡営業部長と飯田副社長とミーティング、十六時半に開発部門の大西部長がお会いになりたいとのことです。その後、おそらく取材の打ち上げになるかと……」
今日も長い一日になりそうだ。
車窓の外は、目の前を朝日を浴びた東京タワーが過ぎ去った。
「そうだ。佐賀さんの様子はどう?」
潤の不意の問いだったが、江上はあらかじめ想定していた質問のようで頷いた。
「反論の材料探しにお忙しそうです。ただ、同意してくれると思われていたデバイス本部の営業部長から逆に説得を受けたようで、ムキになっているという印象もあります」
「……そっか……」
二週間後には定例の取締役会を招集する。そこで潤は社長就任時からじっくり検討していた議題を提案する手筈になっている。取締役会では出席者の三分の二の合意が取れれば承認されるが、禍根を残さないためにも慣例として全会一致が望ましいとされている。今、出席者全員の合意を取るべく、根回しに奔走している。
しかし、取締役の一人、デバイス部門の佐賀企画部長が難色を示しているのだ。
潤が進めているのは、大がかりな組織改編。トップダウンで四月に執行するタイミングを考えれば、年の瀬も迫る今の時期がぎりぎりで、スピードをもって推し進められる絶好のタイミングだった。このチャンスを潤は半年以上待っていた。潤が受けている密着取材だって、上層部が慌ただしく動いているのをカモフラージュするために仕込んだものだ。
会社組織としての意志決定の迅速化を図るためには、どうしても今のままではプロセスが多すぎる。もっと単純化して、現場の声が上層部に届き、上層部の戦略が組織の隅々まで浸透するようにならなければと考えていた。
しかし、意志決定のプロセスを簡素化するということは、既得権益から外れる人間が出てくるということ。その反発をどう押さえるのかが鍵だ。
「僕から直接話そうかな。佐賀さんに連絡して時間を取ってくれる?」
「社長が自らされなくても……」
「いや、もうここまでこじれたら、僕が出るしかないでしょ」
医療業界は変革期を迎えていて、森生メディカルを取り巻く事業環境は厳しく、今後はますます経営判断のスピードアップが求められる。それを分からない人ではないはずなのだが、やはり己の守備範囲が侵されるとなると、冷静ではいられないのだろう。
「昨日は大西部長と社外で会われたようですが、同意はするものの納得はされていない様子と……」
「彼の不満は、どのあたりにあるんだろう」
潤は親指と人差し指を顎に当てて考える。まず、その部分が分からなければ、説得はおろか交渉のしようもない。
落とし所がある話なのか。それともない話なのか。
潤の脳裏に、信頼できる部下の顔が浮かぶ。自分よりも二十歳程、年齢もキャリアも上だが、潤の判断力と決断力を信頼し、舵取りを託してくれる母の代からの腹心の副社長。
「忙しいとは思うけど、飯田さんにも接触してみるようにお願いしてくれる? 僕が出るときにはなんとか狙いを定めたい」
江上は一礼した。
「かしこまりました」
「あとさ、夕方の大西部長の用件は聞いてる?」
「はい。直接ご報告があると思いますが、弊社の製剤技術にメルト製薬が興味を示しているとのことで、何度か接触があったそうです」
潤は思わず聞き返す。
「え、メルト?」
意外な名前が出てきた。ワイシャツの胸ポケットに入れた、颯真から受け取った抑制剤がとっさに頭に浮かんだ。
「まだ、接触という程度なので具体的な話ではないようですが、詳しくは専務がご報告するそうです」
「ふうん、わかった」
たしかにメルト製薬は抑制剤ではトップシェアであるが、主にアメリカで先行して販売された抑制剤を、日本市場に導入している。アメリカで使いやすい薬剤が日本で使えるかというと、そうばかりでもない。
その点、森生メディカルのデバイス技術、製剤技術は業界でも群を抜いているという自信はある。
そして潤はふと江上に問い掛けた。
「そういえば、昨日は電車で帰ったの?」
江上には突然であろう、その問いに、わたしですか? と問い返す。
「うん」
「問題ありませんしたよ。電車ありましたし」
確かに誠心医科大学横浜病院の最寄り駅はみなとみらい駅で、まだまだ早い時間だったため、帰宅するための電車はあったのだろう。
「一緒に乗って帰ればよかったのに」
「別件で用事があったんです」
「ふうん」
「ところで今日も密着取材がんばってくださいね」
あからさまに江上は話を逸らして笑顔を見せた。
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