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 代表取締役社長、森生潤を招集人として取締役会の招集通知が各幹部に送られたのはそれからしばらくして。  もう二週間後に迫っているが、残念ながら佐賀の説得は、暗礁に乗り上げていた。   「社長、相手は、結構手強いですな」  そう苦笑しながら、社長室に入ってきたのは副社長の飯田。潤が信頼する、前社長である母親の代からの腹心である。  潤が自分が出る前に狙いを見定めて欲しいと飯田に依頼していた。飯田は営業、営業企画や事業企画、そして渉外部と、交渉畑を経てきたバックグラウンドを持つ。その飯田が手強いと言うのだ。 「のらりくらり……というのが表現としては正しくて、正直、条件を提示して、落としどころを探るという感じではないのですよ」  あれは別の狙いがあると考えた方が良さそうです、と飯田は結論づけた。    別の狙い……。潤は口許に手を当てる。最初はより有益な条件を引きだそうという交渉だと思っていたが、飯田の見立てでは、条件次第というよりはむしろ、時間稼ぎに近いのだろう。 「社長が直接交渉に出られるのはもう少しタイミングを計ったほうが良いでしょうな」 「なるほど……」  交渉材料がなければ、あちらの思うつぼなのかもしれない。下手に動けば足許を見られる。 「あと、うちの部下が拾ってきたのですが、課長レベル間で、今度の取締役会で重要な案件が決定されるらしいという噂が流れているようです」  飯田によると出所は分からないという。しかし、それは佐賀が流した噂ではないかと飯田は分析する。 「トップダウンの組織改正が取締役会で頓挫したとなったら、もうリトライは無理です。それに、社長、あなたの求心力も問われます」  潤は頷いた。だから慎重に、内密に事を進めてきたのだ。言われなくてもチャンスは一度と思っている。 「時間稼ぎを狙う人間を、イエスと言わせる材料か……。いい案がありませんか?」  潤が飯田を見上げると、まんざらでもないような表情。 「それに関しては少しお時間を頂いてよろしいですか」  さすがだ。何かをキャッチしているらしい。  潤は即答する。 「それは問題ないです。なにかアンテナに触れることでも?」 「ええ、少し気になる話が。この件に関しては外部監査役と進めてから報告しようと思っていたのですが……」 「一体なにを?」  潤の問い掛けに、飯田は少し渋い表情を浮かべた。  「それがですね……」  あと二週間か。  そう思うとため息も出る。飯田と打ち合わせを終え、まだ残務処理が残っているという江上と別れ、社用車に乗り込んで独りで帰宅の途につく。  一年で一番昼間が短い季節。車窓から見える風景は美しいクリスマスのイルミネーションばかりだ。  スーツのジャケットの内側に収まっているスマホが震えた。ホップアップを確認すると、双子の兄、颯真から。「お前、いつ来るつもりよ?」と少し苛ついたようなメッセージが浮かんでいた。潤はスマホのメッセージアプリを開いて既読にしたが、返信をせず、再びスリープ状態にした。  颯真から年末の二十八日から一週間ほど特別室の入院予約が取れたと連絡してきたのが今週の始め。なにが悲しくて、年末年始の貴重な休暇を病院の特別室で過ごさねばならないのだと思うと、自分の決めたこととはいえやるせない気分になったが、憂鬱なことはそれだけではなかった。  次いで、いつ頃来院できるかと颯真から問われた。  颯真によると、計画的に発情期を起こすためには投薬治療をそろそろ始めねばならないらしい。現在のフェロモン量を計って、抑制剤と誘発剤を併用することで徐々に身体を慣らしていく必要があるという。そのため一度来院しろと言われているが、それを潤は多忙を理由に先延ばしにしていた。  幸い颯真はここ数日、忙しいようでお互いに顔を合わせていない。潤は消極的に有耶無耶にしている。  正直そもそも、あの発情期の初期症状があった後、体調がすごぶる好調で、精力的に業務をこなしていた。そんなの、抑制剤が効いているからに決まっているだろうと颯真には一蹴されるのだろうが、それに縋りたいという気持ちもあった。  年末年始に入院加療する、という話を手短に電話で母親に伝えたら、かなり驚かれた。驚きすぎたようで、颯真にそのまま問い合わせが行ったらしい。 「俺も潤の治療に付き合うから、帰れないよ」  そう言われたと母親は伝えてきた。  潤自身、年末年始の貴重な休暇を病院で過ごすことに躊躇いがなかったわけではない。しかし、年末はともかく、年始は早々から対外的な予定が多く、一週間の休暇を取得するのは難しいのだ。年初のいろいろと挨拶の重なる時期に、森生メディカルの社長が発情期で休んでいると他社に噂されるのにも抵抗があった。  となると、颯真も巻き込んで年末年始に休みなしとなるが、そもそも言い出したのは颯真であると、潤は嫌がらせ半分で開き直ることにした。  ただ、正直、潤は今から憂鬱になっている。  取締役会のことを考えると頭も痛い。正直考えたくなくて、意識的に颯真からの連絡をシャットアウトしていた。   「おかえり」  自宅に着いたのは午後八時前。  久しぶりに早くに帰宅していた颯真に、早速玄関で捕捉された。きっと、帰宅したという連絡を江上から報されていたのだろうと想像がつく。  颯真はスーツを脱いでラフな格好をしている。 「ライン見たよな?」  潤は玄関先に揃えて室内に上がると、颯真を見る。かなり機嫌が悪そうだ。無言で頷いた。 「なんで連絡をよこさない?」 「……ん。まだスケジュールが確定してなくて」 「江上は優先して空けるって言ってるぞ」 「……」  なんだもう話が通じているじゃないかと潤は思う。ここ数日、颯真と顔を合わせていないのに、すべて江上から情報を得たうえで、言い逃れできない状態で潤に向き合っているこの兄の周到さに、潤は憂鬱になる。アルファ同士で決めてしまえるのならば、決めてしまえばいいのに。自分は従うだけだ……。 「嫌なのか?」  直球で問われる。颯真の目が少し怖かった。 「……嫌っていうか……」  強引なんだよ……と思う。こういうところが、双子の兄のアルファらしい部分だと潤は思う。しかし、それをそのまま伝えると角が立つということは分かっている。 「体調が悪くないんだよね」  腕を組んで、壁に身体を預けていた颯真が即頷く。 「そんなのは薬が効いているからだ」  自分が考えることなんて、颯真に敵うはずがないのに、それでも素直に頷きたくない。 「あのさ……、大丈夫だよ。無理矢理に発情期なんて起こさないでも……」 「それは俺が診て判断することだろう」  苛ついた表情で颯真が潤を見てくる。それは正論であるため、潤はなにも言えない。  颯真はため息を吐いた。こんなこと言いたくないんだけどさ、と前置きをする。 「お前、まだ自分を受け入れられないんだな」  なにを言っているのか、主語が入っていなくても潤にはわかった。それはオメガとしての自分を指している。できれば触れられたくない部分を、颯真は素手でいきなり掴んできた。 「あは。なんのこと……それ」  大抵のことは流せる。とぼけることも可能だ。だから、ここも流してとぼけて逃れようとした。  ただ、声が少し引きつったかもしれない。  潤、と颯真が近づく。逃れようとしたのに、腕を掴まれる。 「俺が言っても、なんの慰めにもならんだろうけどな」  きっと、いい年してそんな拗らせてもいいことはないとか、大人なんだからもういい加減受け入れろ、とか。自分でも分かっていることを、双子の兄から言葉にして聞かされるのは、精神的にしんどい。 「お前はいい香りを纏ってるよ。だから、そんなに自分を否定するな」   潤の思考が一瞬停止する。なにを言われたのか、分からなかった。 「……」  だから、自分を受け入れてやれよ、と颯真は言った。 「ずっと否定し続けてると、誰も受け入れてくれなくなるぞ」  颯真から見れば、すべてがバレバレなのだろう。思わず潤は腕を掴む颯真の手を払った。 「それは……大きなお世話ってやつだよ、颯真」  鞄を持ち上げて、颯真の前を横切ろうとする。すると、再び颯真が問い掛ける。 「お前……好きな人とかいないの? そういう気持ちって大事だぞ」  大きなお世話だと言っているだろう。なかなか噛み合わないやりとりに、潤は苛つく。 「いないよ。そういう颯真だっていないだろ」 「俺はいる」 「え」  そんな事実、初めて知った。  思わず、潤は颯真を振り返る。すると颯真の目線に真っすぐ射抜かれた気がした。 「俺の人生をかけて守りたい存在だ」  その目に潤は戸惑う。こんな真摯な目を見たことはなかったかもしれない。双子の片割れがそんなふうに思っている相手がいるとは。多分、これまでほとんど話したことはなかったし、初めて聞いた。 「なら……番にすればいいじゃないか。颯真はアルファなんだから」  番にするか否かは、オメガの発情期に、アルファがオメガの項を噛むことで成立するとされている。そのため、その決定の有無はほぼアルファにあるといっていい。  しかし、颯真の言葉は意外なものだった。 「相手の気持ちも大事だ。俺はあいつを囲いたいわけじゃない」 「……どういうこと?」  潤の疑問に颯真は応えなかった。 「俺のことはいい。お前はちゃんと自分に向き合えよ。明日は一緒に行くからな」 「どこに?」  潤の疑問に当然のように俺の職場だと颯真は答える。 「お前休みだろ。外来時間までは俺のオフィスでコーヒーでも飲んでろ。朝一で診てやるから」 どうやら、もう逃れることはできなさそうだった。  翌朝は予告どおり、いつもどおりの時間に起こされ、そのまま颯真の運転で誠心医科大学附属横浜病院に連行された。拒絶する猶予もないくらいの強引ぶりで、そのまま颯真のオフィスまでノンストップだった。  「朝一で診る」というのもそのままで、午前九時から始まる外来診療の冒頭に呼ばれた。呼ばれてすぐに看護師にフェロモン量を測定するため血液を採取され、その結果が出る間に、颯真の診察を受ける。    颯真によると、今服用している薬剤はかなり強いもので、それを徐々に弱めていくと同時に、少しずつ誘発剤を入れていくという。  次回は、仕事が終わった後の夜でもいいから、週明けに来院してほしいと言われ、一日一回の抑制薬を二種類、計六錠を処方された。  とりあえず、今日の分はここで飲めと言われ、潤は颯真の前で二錠の薬剤を服用した。 「潤、抑制剤っていうのは本来なくてもいいものだが、お前のように長く頼り続けていて、その効果をサイクルに含めてコントロールしている場合、突然服用を止めるというのは危険だ」  颯真の言葉は真剣だった。潤もつられて頷く。 「しかも、これから飲む薬剤は、いつもの抑制剤と同じようでいて少し違う。抑制剤と誘発剤を併用していくという方法だからな。飲み方を間違えれば副作用として跳ね返ってくる可能性もある。突然発情期が来たり、フェロモンをコントロールできなかったり。だから、くれぐれも俺の指示を守ってくれよ」    それはちゃんと通院しろ、自分の管理下で服用しろと念を押しているのだろう。これを飲むと、発情期までノンストップということか。 「……わかってる。この件は全部颯真に任せるから」  颯真の覚悟を求める問いに、最後まで気が乗らない本音を押し隠して、潤はうなずいた。最近、颯真の言葉にいちいち反発したくなっている自分がいるが、基本的に信頼しているし、この兄のことが好きだ。    診察室を出ると、待合ロビーはかなりの人がいた。颯真のオフィスからそのまま診察室に通されたため、まったく気がつかなかった。  すると、目の前を通り過ぎた美青年に潤は熱い注目を浴びていることに気がついたのだった。  誰だろうと思ってみていると、その青年が不意に近づいてきた。 「あの……。失礼ですが、森生潤さんですか」  その美青年に直接名前を聞かれて、潤は驚いた。

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