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森生潤さんですか?
美形の青年に診察室の前で突然そう聞かれて潤は戸惑いつつも頷いた。
「…え、ええ」
「よかった。間違えたかと思いました」
その青年はにっこりと笑った。ふわりと花が咲いたような、華やかな雰囲気が漂う。年齢はおそらく二十代半ば。潤よりは少し下に思えるが、この華麗さはなんだ。
少し日本人離れしたような彫りの深い顔立ちと白い肌、中性的な雰囲気。しかし、その立ち姿はすっと背筋が伸びて美しい。
潤自身、自分の中でこのような区分けはしないようにしていたが、アルファ、ベータ、オメガでみるならば、おそらくオメガだろう。
……当然か、ここはアルファ・オメガ科の診察室の前だと思い直す。
しかもその青年は、病衣を纏っている。入院患者のようだ。
あれ、でもどこかで見たことがある……。
この青年の顔立ちは、潤の記憶の琴線に触れた。
こんな美形の知り合いなんて絶対にいないのに。
すると、近くの女性の囁きが潤の耳に届く。
「あれ……、モデルのナオキじゃない?」
「ほんとだ……。入院してるの?」
なるほど、モデルか、と納得した。ほとんどテレビは観ていないが、どこかに記憶があるのはそのせいか。
あ、そうかと潤は思い立った。
いつも社用車の車窓から眺める巨大広告。大手化粧品メーカーのパヒューム・シャンプーの広告だ。上半身裸で水に濡れた髪をそのままに、強い視線でこちらを見据える印象的な絵。芯の強さと色気を兼ね備えた、そのモデルの表情に、車で通りかかる度に目を奪われた。
あれが目の前の青年と同じ顔だった。
「あの、貴方は…」
潤の問い掛けに、その青年は、西尚紀、と名乗った。
それで納得した。ナオキというのは芸名だ。
「颯真先生の弟さんですよね」
いきなり名前を呼ばれて驚いたが、なんとなくこの尚紀という青年の素性が読めてきた。
おそらく入院中のオメガで、颯真の患者なのだろう。潤自身、マスコミに全く出ていないというわけではないし、そのあたりの経済誌で見かけて声をかけてきたということか。
「ええ……なにか」
「颯真先生の双子の弟さんがオメガだってのは知っています。あなた自身も有名ですし」
オメガと言われ、一瞬警戒感が増した。しかし考えてみれば、オメガと公表してマスコミに出ているのだから、知っていて当然だろうと思い直す。
潤は嫌味を半分込めて返す。
「貴方ほどじゃないですよ。モデルさんでしょう」
しかし、尚紀は素直にうなずいた。
「はい、そのような仕事をしています」
警戒感を見せる潤に対し、尚紀はそのような仕草は一切みられない。穏やかに頷いてみせる。
「実は、僕は中学の時の貴方の後輩なんです。だからちょっと懐かしくて、声をおかけしてしまいました」
突然すみません、と人懐っこい笑みを浮かべる。
潤は本気で驚いた。
「え?」
あの学校で、自分以外に、しかもこんなに分かりやすいオメガがいたとは知らなかった。
有名人相手にあからさまに驚いているのに、この尚紀という青年はまったく気分を害する反応はない。
苦笑交じりで答える。
「先輩は目立ってましたから。颯真先生や廉さんと常に一緒にいて……」
ということは、同じ学内にはいたということかと判断し、なんとか記憶を引きだそうとする。
「君は僕の……」
「二歳下です」
ああなるほど、と潤も思った。自分がオメガと判明し、それまでもくっ付いていた颯真と江上が、さらに離れなくなったのが中学校三年生だった。
しかし、やはりこの青年は記憶にない。
「申し訳ない。あまり仲の良い後輩もいなかったから、尚紀さんのこと、あまり覚えていないようです」
しかし、尚紀は意に介さない。
「仕方がありませんよ」
「でも、モデルのナオキさんは存じています。コスメブランドやメンズジュエリーでモデルをしてますよね。あの印象的な強い目線、演技では表現できないものだと思っていました。きっと内面も強いんだろうなって」
尚紀はにっこり笑った。
「先輩が僕の仕事をご存じだとは思いませんでした。嬉しいです」
「尚紀さんはここに入院してるんだよね?」
そのように潤が問うと、尚紀が頷く。
「ええ。偶然ですが、颯真先生にお世話になってます」
だから、颯真は「先生」なのかと納得した。
すると、背後の引き戸がスライドされ、潤の後に診察室に入った患者が出てきた。その見送りに出てきていた颯真が顔を出した。
送り出した患者に挨拶をしてから、颯真は病衣姿の尚紀に視線を投げる。
「尚紀、こんなところにいたのか。早く病室に戻れよ」
颯真の言葉に、尚紀は素直に頭を下げる。
「すみません」
「まだ体調が安定してないんだから。なんでこんなところにいるんだ」
「雑誌が欲しくて」
「あまり仕事を考えるなよ」
「……分かっています。でも、やっぱり自分が抜けた穴を確認しないとって……」
颯真が尚紀の頭に手を乗せる。
「そんなことを今は気にするな。元気になったらまた活躍できるから。今より確実に魅力を増してると思うぞ」
「あは。颯真先生、それはセクハラ発言かも」
尚紀が小さく笑う。潤はそのとき、尚紀の項にある咬み跡を偶然見かけてしまった。そうか、彼には「番」がいるのか、と思う。
「あれ、潤」
颯真の視線は、自然と尚紀に導かれるように潤に流れてくる。
「まだ居たのか。早く迎えに来てもらえよ」
しかし潤は意地を張った。
「独りで帰れるよ。江上に連絡なんてしたら迷惑だろ。電車で帰る」
今日は土曜日で、江上だって休みだ。休みにそんなこと言えるか、と潤は思う。
しかし、颯真はダメだと譲らない。
「迎えに来てもらえ。電車で三十分独りなんて危険だ」
おいおい、と潤は呆れる。
三十歳近い男が独りで公共交通機関に乗れないってどういうことだと。潤は颯真の助言を無視することを密かに決めた。
「森生先生!」
診察室の中から看護師が颯真を急かす声が聞こえる。外来は忙しいのだろう。颯真が診察室に戻り、潤もその場から離れようとしたら、名残惜しそうに尚紀に呼びかけられた。
「潤先輩、またお話させてもらっていいですか? 僕、しばらくこちらにご厄介になる予定です」
尚紀の言葉に、潤も頷いた。
「わかった。僕も近く来る予定だから。また会おう」
するとふわっと花が咲いたようなあでやかな笑顔を見せた後輩は、手を振って潤を見送ってくれたのだった。
病院を出て、そのまま地下鉄の駅に向かう。ホテルや大きな会議場も併設された巨大商業施設の地下に駅があった。
西尚紀。
あんな、一見してオメガと分かる後輩がいたとは知らなかった。
整った顔立ち、全体的に色素の薄い雰囲気。なのに、カメラの前で見せる、ぎらつくような強い色を見せる瞳。あんな目ができるようになるには、様々な経験が必要なんだろうと潤は思う。
中学時代となるともう十五年も前の話だ。オメガは人によっては高校時代から番を持つ人もいる。人生の変化が大きい時間だ。
大きな会議場を横目に地下鉄の駅がある商業施設に入ると、ふわっと暖かい空気に包まれる。少し日常が戻ったような気がする。目の前に、大きなクリスマスツリーが設置されていて、まだ昼前というのに、きらびやかなイルミネーションが灯されていた。
世の中がクリスマスカラー一色だ。
と同時に、憂鬱な事も思い出す。
イブに取締役会、仕事納めの翌日からは入院だ。これではため息もでるというものだ。
せめてこのあたりで美味しいものでも買って帰るかと思ったが、考えてみれば食べ物でストレスを発散するタイプではない。
美味しい紅茶があればいいかな、と結論づけた潤は、目についた紅茶専門店に立ち寄ることにした。
颯真はコーヒー党だ。江上は紅茶も嫌いではないらしいが、美味しいコーヒーがあると喜ぶ。対して潤は、コーヒーは嫌いではないが、紅茶の華やかな香りが好きだった。付き合いでコーヒーを飲むが、やはり独りで楽しむなら紅茶だ。
帰って、温かくて濃厚なミルクティーを飲みたい。
そう思って、パリに本店を置く、フレーバーティーが有名な店に立ち寄る。
平日は分刻みのスケジュールで時間が無いため、基本的に車を使う。こんなふうに店に立ち寄り、買い物をするなんて久しぶりだ。そんな気分も手伝って、潤はいくつも並んだ紅茶の缶を品定めするために眺めた。
そのとき何かが、意識に触れた。
あれ。
思わず振り返るが、背後には誰も居ない。
店内の大きな窓の外はタイル張りの中庭、そしてみなとみらいの観覧車も見えるが、先程の違和感が嘘のように平和な風景だ。
見られてた?
いや、気のせいか。
「いらっしゃいませ、お探しものでしょうか」
店員の声に誘われ、そのいやな空気を無理矢理振り切る。
「あの、ミルクティーに合う茶葉を探していて……」
気のせいだ。妄想が激しすぎるだろ。
潤は嫌な気分を、身体を捩って振り切る。
早く帰ろう……。
紅茶専門店で店員と話しながらいくつかの茶葉を購入し、地下鉄の駅に急ぐ。先程の違和感は全くない。やはり気のせいだろう。
きっと颯真が変なことを言ったから、神経が過敏になっているに違いない。そもそも、こんなに人がいて、オメガだからといってなぜ自分がじろじろと見られなければならないのだ。いい三十路の男だ。感心を寄せる人なんていないだろうに。
きっと過敏になっているに違いない。
潤は、そのように、うじうじと考えている自分が気持ち悪かった。
自動改札をくぐり、電光掲示板を確認する。しばらく待てば中目黒まで一本で帰れる電車が来るようだ。エスカレーターでホームまで下る。音声誘導チャイムのかもめの鳴き声がのどかな雰囲気を演出する。
そういえばと潤は、尚紀を思い出す。
あの、人懐っこい美青年に話しかけられたのが新鮮な経験だったのだろう。なかなか忘れられない。
ああいうふうに、率直に向けられる好意というのが新鮮だった。華やかな世界に身を置くにも関わらず謙虚で、素直で眩しさを覚える。あれが二十代後半の男かと正直思うくらいの純粋培養ぶりだ。
なぜあの青年が、人が変わったような、印象的な強い表情を作ることができるのか。役者の才能もありそうだなと思う。
とにかく、自分の周りにはいないタイプで、そのギャップに興味があるのかもしれない。
別れ際、また話したいという彼の望みを社交辞令だと思って返したが、少なくとも潤は、あの青年と再び話してみたいと思っていた。
それに、少し気になったのが尚紀の項の咬み跡だ。簡単に目に入るほどに目立つ場所に付けられていた、生々しい跡。
アルファのなかには番のいるオメガと周囲に知られたくないと場所に配慮して項に咬み跡を付ける者と、所有欲を満たすためにあえて目立つ場所に咬み跡を付ける者がいると聞いたことがある。潤自身、アルファとそのような話をしたことはないから、ネットやテレビからの受け売りだと思うが。
どんなふうに咬み跡を付けるかなんて、尚紀の番のアルファの自由だ。しかし、彼はモデルだ。身体が資本だ。相手のアルファはもっと考えて咬み跡を付けてやるべきだったのではないかと、他人事であるのに、考えるにつけひどく腹立たしく思えてきた。
「お待たせいたしました。快特電車が入線します」
不意に目の前に電車が滑り込む。
そしてまた感じた違和感。
潤はふたたび振り返る。
大きな音を立て、疾風を伴って電車がホームに滑り込む。
その瞬間に訳もなく、背筋がぞわりとした。
何かが……いや誰かがどこかで自分を見ている。
誰かは分からない。でも、視線がある。
こんなホームに突っ立ってては、相手からは無防備に見えるに違いない。
ちょっと待て、と潤は思い立つ。
こうしてキョロキョロ辺りを見回す姿が、相手には丸わかりに違いない。気付いたことに気付かれたのかもしれない。
これは少しヤバいかも。
一気に汗が噴き出しそうなほどの焦りを感じ、心臓が早鐘を打つ。急激に体温が上昇するのを感じながら、急いで車内に乗り込んだ。
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