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車内は座席が埋まっており、かなりの人がつり革に捕まっていた。
プシュー。
電車の最後尾に乗り込み、ドアが閉まると同時に、純は人並みをすり抜けて移動を開始する。視線を寄越した相手が乗り込んだのは分からないが、一刻も早くその場を後にしたかったのだ。
車内で立位乗客にをすり抜けながら、潤は留まることができず、前方車両に移動し続ける。
「まもなく横浜です。JR線、京急線、相鉄線、横浜市営地下鉄線はお乗り換えです。出口は右側です」
しばらくして、電車は徐々に減速し始め、軽やかに次の駅のホームに滑り込む。
目の前のドアが開き、潤は降車客に紛れてホームに飛び出した。
横浜駅は、ターミナル駅だけあって、ひしめくほどに人が多い。その人波に流されるように、エスカレーターを上るために並んだが、早く上がりたくて、すぐに待てなくなった。
前ばかりが気になる。隣の列はエスカレーターを歩いて上る乗車客の列だ。そちらに移ろうかと迷っていたところ、不意にコートの袖を、ぐいっと強く引っ張られた。
「……!」
驚きすぎて、声も悲鳴も上げられなかった。思わず振り払うように強く袖を前に引いて、その列を飛び出した。前方の階段に向かったが、振り返る余裕はない。
誰なのか、なにから逃げているのか、潤自身も分からず、階段を駆け上がる。
そして、縫うように人波みを掻き分けて、上層を目指した。
なんでこんなことになっているのか。
そんな疑問がようやく頭に浮かんできたのは、ホームから逃げ出すように、無我夢中で息を切らして階段を駆け上がり、横浜駅のコンコースに出てきたところでだった。
ここはJRの改札があり、先程よりも多くの人が行き交う、地下空間だ。年中工事をしている駅でもあって、床に敷かれたゴムシートと鉄筋の臭いが漂う。
相手は誰だ。なにが目的だ。
そんなことをされる覚えは全くないが、相手にとってこちらの都合など関係ないのだろう。
誰かに連絡を取った方が良い。
そう思い立ち、コートのポケットに入れたままのスマホの存在を意識する。それが、震えていることにようやく気がついた。
取り出すと、なぜか江上からの着信。
「は……はい」
階段を駆け上がったせいで息が上がっていて、巧く声が出ない。息を整えようとすると、身体が欲するだけの空気が取り込めず、さらに息が上がる。
「社長? 大丈夫ですか?」
その息づかいが異様だったのだろう。江上は真っ先にに異様さに気がついたようだった。
「あ……あうん……。ちょっと待って……」
しばらく無言で深呼吸を何度か繰り返し息を整える。それと同時に一ヶ所に留まるのが怖くて、通路をあてもなく歩きはじめた。
「ごめん」
「今どこにいらっしゃいます?」
潤が躊躇い答えずにいると、江上に答えを促される。
「……横浜駅」
「なんでそんなところに?」
「颯真の病院の帰りにちょっと途中下車して……」
言葉を濁したのが伝わったのだろう。
「何かありました?」
なるべく、大袈裟にならないように伝えようと思う。
「……いや。なんか変な感じが。誰かに見られてるようで。さっきも、コートの袖を引っ張られたような……」
それでもスマホの向こうの江上の空気が変わった気がした。
「で、でも気のせいかも。大丈夫だから!」
大丈夫なはずないでしょう、と江上が怒る。
「今すぐ行きます。人通りの多いところに居てください。背中を見せてはダメです。あと位置情報をオンにしていてください。近くに交番はありますか」
手短にそう指示をすると、通話を終了させた。すぐさま位置情報をオンにする。
そして歩きながら、人通りの多いところ……と考える。
コンコースの改札前ならば、人通りは途切れることはないだろう。
JR横浜駅の改札口はかなり大きく、その前にいくつもの柱が立っている。潤はその柱に背を預けて、江上の迎えを待つことにした。
よくこのタイミングで江上が連絡を寄越してくれたと思う。潤は少し安堵していた。
これで無事に会えれば……。
江上は今すぐに行く、と行っていた。
それはどのくらいなのか。こんなに人の往来の多いところにいても心細くあった。
目の前のJR線の改札はもちろん、行き交う人波にも目を配る。どんな異変も見逃さないようにと神経が過敏になっている自覚がある。潤は紅茶が入った紙袋の持ち手をぐっと握った。
こんなことになるのなら、最初から意地を張らずに迎えに来て貰えば良かったのだ。みなとみらい駅で、あのまま颯真の病院に戻り、迎えを待つ、という選択肢もあったに違いない。とっさに到着した電車に乗ってしまったが、判断を間違えたという気がしないでもなかった。
不安なことは考えないように、目の前の風景に神経を研ぎ澄ませて待つ。さっき袖を引っ張られた時に、ちゃんと振り返って相手を確認しておけば良かったと今更ながらに後悔する。驚きすぎて、とっさにそんな判断ができなかった。たぶん、同じ場面に遭遇したとしても、自分がアルファだったら冷静に対応できたのかもしれないのに。
相手が見えないのは怖い。怖くてあまり好きではないが、まるで邦画ホラー映画のようだ。
知らず知らずのうちに一方的に獲物となり、なんとなく嫌な雰囲気が続いた末のクライマックス。ひたひたと嫌な空気が漂い、ずっ……ずっ……と何かを引きずるような音とともに、気になって振り振り向くと、自分の背後に……。
不意の出来事だ。
「っ!」
潤はぐっと腕を掴まれた。
心臓が止まるかというほどに潤は驚き、とっさにそれを振り払う。
そして、脇目も振らずその場から駆け出した。
背後から、おい逃げたぞ、と叫ぶ男の声がした。
え。
なにそれ。
誘拐目的か。
こんな大の男を攫ってなんの得があるというのだ。
潤は振り返って男の正体を確認する余裕さえなく、前を向いて人並みを掻き分けて、ただひたすらに駆け逃げる。
複数? 複数人に追いかけられてるのか?
地上に行くかこのまま地下道を彷徨うか。
そんな判断を待つまでもなく、脚は地下道を選んだ。喫茶店の角を曲がり、そのまま私鉄の改札口の前を駆け抜ける。
小さい改札口で、人の往来が極端に少ない。走りやすいが、人目が少ない。しまったかも、と思う。こんなところで捕まってしまったらマズい。
男達の声が聞こえてきた。
「こっちだ!」
一本道で撒くこともできやしない。
前を向いて、ひたすら通路に従って逃げる。さらに人通りも少なく、タイル張りの無機質な通路だ。出口番号の掲示がちらりと見えたが、それがどこを指しているのか、潤にはわからない。
コインロッカーのスペースを駆け抜け、階段を駆け上り始めたところで、視界の端に靴が見えた。正面から人が来たらしい。やばい、ぶつかると階段の踊り場で、潤は身体を捩る。すると、その相手に腕を掴まれた。
「わあっ!」
思わず手を振り解こうと身を捩る。すると、その相手はぐっと潤を抱きしめた。
「潤、俺だ」
その声に、はっとする。
「え。……廉……?」
ここ暫くこの声で呼ばれたことのない名前を告げられて、思わず江上の名前が思わず口に上る。
驚いて顔を上げれば、毎日見る、凜々しい秘書の顔がある。驚いて、最初は頭がうまく反応してくれずポカンとした。そして、数テンポおいてから安堵で身体が解け落ちそうになった。
「おい……逃げろ」
「ちっ!」
階段の下から複数の男の声が響く。
「大丈夫? ちょっと待って」
江上がそう断って、潤の手を離す。階段を駆け下り、男達を追いかける。潤は、身体の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
その様子が目に入ったらしい江上が潤の元に駆け戻る。
「社長?」
江上の口調がいつものものに戻っていた。
潤は、江上を求めて手を伸ばす。それを得られて、江上の胸に抱きついた。
「大丈夫ですか?」
江上が聞いてくる。潤は息を整えながら頷く。すうっと息を大きく吸うと、江上から漂う爽やかな森林のような香りが嗅覚を刺激する。そしてはあっと吐くと、鼻からその江上の香りが抜けていった。
安堵する。アルファの香り。この男の香り。
気がつけば手が震えていた。
今になって恐怖心に襲われる。
あそこで捕まっていたら、自分はどうなっていたのだろう。
江上はそんな潤の手に、温かい手を乗せる。
「もう大丈夫だから。安心してください」
耳元で囁かされた声に、俯いたまま無言で頷いた。顔を上げられなかった。江上は、潤の背中をさすりながら、落ち着くまでそうしてくれていた。
もう離したくない。
今、明確に気がついた。
この感情は、本能からくるもの。このアルファは自分のものだと、潤の中の、これまで自覚もしていなかったオメガの部分が叫んでいる。
二十年近く付き合っていて、腐れ縁の友人に対して今更恋愛感情など湧くはずはあるまいと思っていた。
でも、僕はやっぱり廉の事が好きなんだ。
身体から沸き上がる、否定しようがないその感情を、潤は半ば諦めた気分で、認めるしかなかった。
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