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気がつけば、帰りがけに買った紅茶缶が入った紙袋はどこかに無くしてしまっていた。
潤は身体の力が抜けてしまい、へたり込んでいた。江上に付き添われて、地上まで出てタクシーを拾う。
警察に届けなくて良いのかと思ったが、江上はやめておいた方がいいと言った。その理由までは聞かなかったが、おそらく何か考えがあるのだろう。潤自身も問い質す元気はなかった。
タクシーに乗り込んでも安心できず、潤はずっと無言で江上の手を握っていた。江上も嫌な顔をひとつせず、後部座席の隣で、潤を気遣いながらもドライバーに経路の指示を出す。
何度も深呼吸をして心を落ち着かせようとする。その度に、江上が背中をさすってくれる。その手が優しい。
いい年をした成人男性なのに、同じ男に追いかけ回され誘拐されかけたうえに、ショックを受けて震えているなんて、普通に見ても情けない。でも、そんな自分を繕う余裕などはなかった。
自宅に戻り、見慣れた室内を見まわして、ようやく帰ってきたと安堵感がこみ上げる。
コートを着たままリビングのソファに座り込むと、潤はそのまま動けなくなってしまった。
「安心したんですね」
座り込んでしまった潤のコートを、江上は器用に脱がしてくれて、さらにマグカップに注いだホットミルクを渡してくれる。
「蜂蜜を入れて少し甘めにしました。飲めば気持ちが落ち着くと思います」
潤も頷いてそれを受け取る。マグカップを通して伝わる温かさにほっとする。蜂蜜入りのミルクをそっと口に含んで嚥下する。それと分かる液体が、喉から胃に落ちていくのが分かる。温かいものを胃に入れて、江上のいうとおり少し気持ちが落ち着いた。
「一体、なにがあったのです?」
そこでようやく事の次第を江上が聞いてきた。
しかし、潤にもよく分からない。みなとみらいの紅茶専門店で違和感があったこと、駅のホームで明確に視線を感じたこと、そして横浜駅での出来事。
話し始めると、心拍数が上がり、心臓がドキドキと早鐘を打ち出す。興奮しているのか、きちんと順路立てて話が出来ているのか、よく分からない。それでも江上は相槌を打ちながら、時に潤を促して、質問を足して、誘導するように話を聞いてくれた。
「よく話してくださいました。本当に間に合って良かった」
そう安堵のため息を吐いた江上に、潤は疑問が湧いた。
「なんで、あんなに早くに来てくれたんだ?」
電話を受け取ってから迎えに来てくれるまで、時間にして十分もなかったように思う。
「颯真さんからあらかじめ連絡を貰っていました、潤を朝一で病院に連れて行くから、と。終わったら連絡をさせると聞いていたので、その頃にみなとみらいに行くつもりで、移動していたのですよ。
そしたら、颯真さんから独りで帰ったらしいと連絡があったので、私も慌てて貴方に電話したというわけです」
ああ、なるほどと潤は思う。準備が良すぎると思ったが、そういうことだったか。やはり颯真と江上の間で話がまとまっていて……、今回はそれに救われた。
やっぱり自分はこの二人には先を見る力でも敵わないと思う。しかし、情けないと思う感情は、幸いにも腹に温かいものが入って、安堵も手伝って背後から忍び寄る睡魔に阻まれた。
それを素早く察知した江上が、寝室から毛布を運んでくる。
「このソファで大丈夫ですから、少し休んでください」
そう言って毛布を肩に掛けてくれるが、潤はとっさに江上を見上げる。
「え、帰る?」
独りになりたくなくて、思わずそう問い掛けると、大丈夫ですと江上は頷いた。
「颯真さんが帰宅されるまでは帰りませんから」
その言葉を聞いて安堵した潤は、促されるままソファに横になり、夢の淵に落ちていったのだった。
あれ。いつの間に。
潤は衣服を脱いで、ベッドの上に横たわっていた。誰かを待っている。
なにも身に着けていない自分の姿が恥ずかしい。でも、身体が火照って火照って、ぱりっとしたシーツが肌に触れる時の冷たさが、心地よい。
「お待たせ」
誰かが、潤の肩を背後から腰に手を添える。
「……ううん…」
顔は分からないが、この人を求めていたと直感する。
「もうトロトロだね。可愛い」
相手は潤を仰向けにしてかぶさり、唇に自分のものを重ねる。最初は触れるだけ。そして口を少し開けて探るように、舌を交わす。もう我慢できずに、潤が強請るように舌を出すと、すぐに唇が塞がれた。くちゅくちゅと音と立てて唾液を交わすようなキスをする。
相手の手が潤の下半身に延び、脚を上げさせて敏感なアナルに触れる。
「ん……っ!」
刺激に吐息が漏れる。早急な……と思ったが、なによりその場所に触れてほしくて触れてほしくて、腰が揺れ、唇を離して首にかじりついた。
相手の指が一本、中に挿入される。腰が揺れる。それでも嬉しくて、腰がしなった。
「…ぁぁん」
すでにその場所は、アルファの性器を受け止めるに十分な潤いがあるようで、くちゅっくちゅと水音が聞こえてきた。
「わかる? もう俺がほしいって、ここが吸い付いてくる」
指はいつの間にか一本から二本に、二本から三本へと増やされて、その場所は卑猥な音を立てて柔らかく解されている。脚を大きく開かされ、ささやかな性器を口に含まれ愛撫され、前立腺を刺激されて果て、どろどろに蕩かされた後、正面から抱き合って、一気にその場所にアルファの猛りを突き付けられた。
「はぁっ……!」
あまりの衝撃に、嬌声とも悲鳴ともとれない声が口から漏れる。大きく開き掲げられた脚の間から、キスを落とされる。それに夢中になって応えていると、ぐっと、さらに中に入り込まれた。
「あああーー!」
この埋められたという充足感が、オメガとしてとても幸せな気分にさせられる。
「潤」
相手が初めて自分の名前を呼んだ。潤も嬉しくなる。
「俺を呼んで……」
相手の言葉に潤も頷く。でも、自分は誰に抱かれているのか。相手の攻め立てが激しくて、分からない。
「潤」
相手が切なげない呼ぶ。
「あ……ぁ」
貴方は誰……?
「潤は大丈夫だったか」
騒々しい声に刺激され、夢と現の狭間から、潤の意識は這い出た。
「……大丈夫です。ただ、かなりショックだったようで、今は休まれています」
「部屋か?」
「ええ、さっき運びました」
ドアが開いたのか、少し周囲が明るくなった気がした。頬に誰かが触れる感じがする。
「廉。助かった。ありがとう」
「いや、本当に間に合って良かったです」
耳元で話す誰かの声のトーンが変わった。
「で、潤を連れ去ろうとした人間は身元が割れたか」
「それなんですが……」
そこで声が遠くなる。
ドアを静かに閉める音で、潤は目覚めた。
帰宅したときはまだ昼過ぎだったが、いつの間にか陽が傾き、薄暗くなっている。そして、ソファで横になっていたはずなのに、いつの間にか自室のベッドの中にいた。
おそらく、江上が運んでくれたのだろう。
……やばいだろう。意識がないまま、運ばれても目覚めもせずに。どんだけ、爆睡していたんだ。
しかも、あんなにドエロい夢を……。
体温が急上昇するのが分かって、両手で頬を覆った。
潤は目が覚めてくるに従い、絶望的な気持ちになった。今まさにその夢で刺激されたためか、ささやかな自分の性器が反応してしまっているのだ。
夢で勃つなんて、恥ずかしい……。
いや、夢は仕方が無いのだ、夢は。きっと飲み慣れない種類の抑制剤だったから、その副作用に違いない。発情期の前はよく見るし、と自分を慰める。
それでもそこは、宥まる気配がなく、仕方なく潤はスラックスのフロントを寛げ、下着から自分のものを取り出す。膝をついて身体を屈めると軽く上下に扱き始めた。
「……んっ…」
直接的な刺激に身体は強張る。もともと性欲が強い方ではないため、久しぶりということもあって、手の刺激でみるみるうちにそこは硬くなり下腹部が熱くなってくる。
先走りの液を指に纏わせ、更に扱き上げる。身体を支えきれずにベッドに横になり、ただ手元が生み出す刺激に身をまかせる。
「…ぅ…んっ!」
先端を嬲ると、潤の腰が揺れると同時に性器はいとも簡単に白濁を吐き出した。
ただ吐き出すだけの行為が終わると、なんともいえない物悲しさが残る。淡々とティッシュで片付け、身支度を整えた。
そういえば、江上が運んでくれた時に気づかれなかっただろうか。
そんなことが心配になってくる。もしバレていたらと思うと、恥ずかしすぎて、軽く死ねる…!
潤は思わず、掛け布団にぼすぼすと拳を振った。
しかし。ちょっと待て。それどころじゃないんだと、潤は我に返る。忘れかけていたが、江上のことが好きだと気がついてしまったのだ。
これからどう接すればいいのかというところまで考えて、ふと冷静になる。
江上のことを好きなのだと気がついて、何が変わるのかと思ってしまったのだ。
そもそも、江上自身が潤に対して恋愛感情があるかというと、百パーセントの確率で否だ。彼の付き合いの良さは仕事上のことだけで、自分は彼の上司だから。
たとえ私情が入っていたとしても、それは愛情ではなく友情だ。
そう考えていて、もの悲しくなってきたが、それは紛うことなき事実なのだ。
でも……と潤は先程、横浜駅で抱き寄せてくれた江上の身体のぬくもりを思い出す。あの香り、安堵感。あの男のものにならなってもいいと思ったのは間違いではない。
ならば、彼に告白して番にしてもらうか?
そう考えが及んで、背筋がぞわりとした。
番にしてもらう……。
それはすなわち廉に抱かれるということ。
そう考えて何とも言えない拒絶感が押し寄せた。あり得ない。
しかし、アルファとオメガの関係はそのようなものだ。ゆくゆくは、オメガはアルファの子を成すが、そんな関係を、江上との間に構築することができるのか。
江上に抱かれる自分というのが、想像できなかった。肉体関係を考えるには生々しい…。
不意に先程の夢が脳裏に蘇る。あれがもし……。前後不覚に蕩かされ、理性を飛ばされ、快感をも支配され、イかされ、なにも分からないうちに猛りを突っ込まれるその行為は、潤にとって恐怖だ。
いやちょっと待てと自分を窘める。
そこまではいかずとも、告白して江上にもし振られたら。
怖い。
振られても、江上を片腕として据え置いて何事も無く仕事に邁進できるかというと、そんな自信はなかった。
告白するのは怖い。
番にしてもらうのも怖い。
振られるのも怖い。
情けない限りであることは分かっているが、ならば、秘書として一分一秒でも長く自分を支えて貰うほうがいいのではないか……自分はそれで満足できるだろうか。
その思いつきの、逃げ場のような考えに、潤は飛びついた。
江上にはこれまで同様の関係を続けていくには、自分の気持ちは知られてはならない。
潤は、そう堅く心に誓った。
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