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江上に対する身の処し方を決めた潤は、ベッドから這い出た。自室をそっと後にし、暗い廊下に出て二人がいるリビングに向かう。
江上とは当然顔を合わせにくいので、そのまま寝たふりをしていても良かった。しかし、とにかく今はそんなことより、なぜだか颯真の顔を見て、声を聞いて、潤自身が安心したいという気持ちが勝っていた。
「気がつきましたね。大丈夫ですか」
リビングのドアを開けた潤に最初に気がついたのは、ソファに腰を掛けていた江上。潤の心臓が僅かに跳ねた。そして、立ったまま背を向けていた颯真が振り返る。
「おい、大丈夫か」
素早く潤に近づいた颯真が、確かめるように両腕を掴む。いつも冷静なのに、心配な表情を隠さずに問うてくる。普段はこんな反応なんて絶対にしない。
潤は少し反省した。よほどこの双子の兄に心配をかけてしまったようだった。
「うん……。心配かけてゴメン」
潤が素直に謝ると、無事ならいいんだ、と安堵のため息に近いような呟きが聞こえた。俺も言うだけ言って後は放置だったからな、と兄の弱気な発言に潤は驚く。
「……颯真の言うことをちゃんと聞いておけばよかったよね」
潤もわずかな後悔を口にすると、颯真は困ったようにそうだろ、と頷いた。
「江上。僕を連れ去ろうとした人間の身元、分かったのかい」
颯真に促されて、ソファに腰掛けた潤は、向かいの江上に問う。聞いていらっしゃったんですね、と江上は反応した。
「うん、なんかそのあたりで目が醒めた」
そうですか、と江上が頷き、寝ているとはいえ、社長の前ではうかつに話せませんね、と苦笑する。
颯真が潤の隣に座った。
「実は、明確には分かっていません。さすがに情報が少なすぎて。人数は最低三人。あまり人を攫うのに手慣れた様子ではなさそうでしたので、おそらくその手のことは素人……に近いのかもしれません」
冷静になって考えてみれば頷くところもある。複数でいたにも関わらず、待ち伏せするような連携もできず、江上に保護された時点で逃げ出したのは、深追いをしなくても良いと指示されていたためかもしれない。
「何か心あたりがあるのか」
颯真の言葉に、江上は首を横に振る。
「いえ……」
しかし颯真の追求は終わらない。
「じゃなかったら、どうして警察に届け出なかった。どう考えても何か心当たりがあるんだろう」
そうだ、と潤も思う。帰りがけに同じ疑問を持ったのだ。すると、江上が潤に目配せしてきた。
そうかと潤も気がつく。直接的な犯人は分からずとも、相手の狙いには見当がつくということだ。
「いいよ、話して。颯真なら知られて問題になることはないと思うし」
潤の許可に江上が頷いた。
「颯真さんが仰るように、心当たりがないわけではないのです。わたしがそう申し上げれば、社長も思いあたるかと」
「この間、飯田さんが言っていた件だよね」
潤がそう言うと、江上は頷く。
「はい。実は、先日、弊社取締役の情報漏洩疑惑が浮上したのですが、その絡みと思われます」
颯真は唸った。
「穏やかではない話だな」
「ええ」
今度は潤が話を引き取る。
「実は、今度の取締役会で大規模な組織改正を決議したいと思ってるんだ。長く準備してきたし、何より僕の決断だからね、問題なく通ると思っていたんだ。でも、取締役のなかで一人、頑なにそれを反対している人がいる」
「へえ。勇気がある奴だな」
颯真の感想に潤も少し気分が和んだ。
「ただ、その人の反対の主張が曖昧で、説得するにも、なにを懸念しているのかも分からない。落としどころを探るうちに、独自に他社との提携話を模索しているため、ということが分かった」
潤の言葉に江上が頷く。
「トップダウンの決断ですから二度目のチャンスはありません。賛同を明らかにしないという時間稼ぎをすることで、廃案を狙っているのではないかと。今回の組織改正の話も先方に漏れているのではないかと懸念しており、調査を進めています」
颯真も頷いた。
「なるほどな。それは情報漏洩疑惑だな」
あえて、そういった。
「僕からみたら、そんな提携話は危険きわまりないものだ。だから、僕たちも、貴方の狙いを掴んだという情報をそれとなく向こうに流したんだ。それを知って諦めてくれれば問題はないと思っていたんだけど……」
「逆に潤を威嚇する行動に出たってわけか、その取締役は」
「……そういうことなんだろうね」
潤は頷いた。こちらからみれば何のメリットもない提携話でしかないが、佐賀にはこの上なく魅力的に見えるようだ。
「それで? 潤を連れ去ろうとした連中はその仲間か」
「仲間、というよりは頼まれた……雇われたのでしょう。件の取締役はもともと他社からの転職組で、以前の会社では総務部門の責任者でした。株主総会の事務局経験も多いとのことですから、反社会勢力と個人的に繋がりがあってもおかしくないと…」
颯真が、総会屋ってやつか、と呟く。
潤も頷いた。おそらく江上のことだから、そのあたりの交際関係についても調べているのだろう。
総会屋。今でこそほとんど無くなったが、昔は株主総会を円滑に進めるためにそのような組織が跋扈していた時代があった。
企業の株式を僅かに保有して株主総会に出席し、企業側に有利な進行を促すことで不当な金品を得る。最近では商法や会社法の度重なる改正に加え、企業コンプライアンスが向上し、数十年かけてほとんどが壊滅した。ただ、地下に潜ったものもあるというし、佐賀とも繋がりがあるのかもしれない。
「まさか、彼がこういう方向に振れるとは思わなかったね」
狙いが分かったら分かったで気が重い。潤はため息を吐いた。
江上が帰宅し、自宅は潤と颯真だけになった。先程少し寝てしまったせいか、潤は目が冴えてしまった。寝ていろと心配する颯真を宥めて、寝付くためとワインを開けることにした。
「帰りに紅茶を買ったんだけど、走ってる途中で、どこかに紙袋ごと落としたみたいで……」
残念だよ、と肩を落とした潤に、颯真は紅茶なら今度買ってきてやるよと請け負ってくれた。
「だから当分独りで行動はするなよ」
颯真が軽いつまみを用意して、潤が赤ワインのボトルを開ける。
ワイングラスに熟成したフルーティーな香りがする赤い液体を注ぎ、颯真と向かいのダイニングテーブルに着く。グラスをかち合わせて、乾杯した。
「何に乾杯? お疲れ様?」
潤の軽口に、颯真は憮然とする。
「お前の無事に、に決まってるだろ」
「そうだった」
潤は肩を竦めた。今日はいろいろありすぎて、一日が長く感じる。
一口含んだワインは、タンニンが強めで潤の舌には少し渋く感じた。
「なんか、ずいぶんあっさり話したと思わない?」
潤の問いに、颯真はグラスを片手に首を傾げる。
颯真は酒に強い。気がつけばワイングラスが半分ほど空いていた。
「誰が? 何をだ?」
「江上が。僕を連れ去ろうとした連中のことを」
「判明すればちゃんとお前に報告するだろ」
「うん、そうだね」
潤は頷いて、少しワインを口に含む。そういえば、今日はほとんど食事をしていないが、そんな状態で飲んで大丈夫だろうかと思った。
もちろん潤も江上を信頼しているし、報告はきちんと受けている。しかし、彼とて潤にすべてを報告しているわけではないだろう。当然、上司の耳に入れるべきと判断されたもののみが報告される。
その取捨選択に、職務上の判断と江上の個人的な判断が加わっているような気がするのだ。具体的には江上が潤の耳に入れたくないと思う情報。
しかし、なにがあったというわけではないし、その取捨選択を含めて、潤は江上を信頼していて任せている。
「颯真は、廉を信頼してるよね」
敢えて江上を名前で呼んだ。苗字と役職で呼び合う関係は、自分と彼だけのものだ。彼と颯真は、単に中学時代からの友人関係だから、それに合わせたのだ。
そういえば、と先程のやりとりを潤は思い出す。やっぱり江上の反応は薄かった。昼間、横浜駅の階段で、番となるべきアルファは江上だと確信した潤だが、江上はそのように感じなかったのだろう…。分かっていてもショックだった。
「お前だってそうだろ。あいつ、今はほとんど社長専属の秘書だろ」
颯真の一言で我にかえる。鋭いところを突いてくる。たしかにそのとおりで、潤の会社の秘書室には数人が在籍しているが、そのなかで室長の江上はほとんど潤の専属状態だ。
「……僕はアルファのように出来がいいわけじゃないから、有能な秘書がいてこそ、なんとかなっているんだよ」
アルコールが入り、隠している卑屈な本音がひょっこりと顔を出す。
いつもは理性で抑えているが、時折こうしてなぜ自分がこんな仕事をしているのか、できているのか不思議に思うことがある。自分はオメガで、本来であれば、常に冷静な判断が求められる、このような重い仕事はできるはずがないと思ってしまうのだ。
「そういうことを言っているわけじゃない。潤が社長で会社はちゃんと回ってるだろ。社員だってお前を信頼しているし、技術力もあっていい会社だと思うぞ」
卑屈な顔だと颯真にも分かっているだろうに、颯真はそのたびに潤が欲しい言葉をくれる。
そして、颯真の言葉は真実だと、潤も知っている。
「それは江上がいるとかいないとか、アルファだからオメガだからとかじゃない。ちゃんと分かってるだろう。お前がこつこつと積み上げてきた実績を社員は分かってるし、そういうお前だからこそ、母さんだってお前に後を任せたんだから」
そうなのだ。分かっている。
ワイングラスのステムに触れる手に、颯真の手が重なる。驚いて、思わず目の前の兄を見る。すると颯真の真っ直ぐな視線があった。
「なに自信を無くしてる。お前が落ち込む必要なんてないのに」
「そうだね……ごめん」
颯真は首を横に振る。
「謝らなくていい。ただでさえ、ストレスが多くてキツい仕事をしてるんだから、自分を追い詰めるな」
兄の優しい言葉に安堵する。世界で一人、この片割れの兄だけが自分を理解してくれている。それがどんな安堵と自信に繋がっているか。自分と颯真はオメガおアルファで性は違うが同じ感情を共有できる。それが心強い。
「ありがと。颯真は優しいね」
潤が呟く。
「片割れだからな」
颯真は表情を緩めてふわりと笑う。うれしくなって潤もつられた。
ふと、久々に颯真の匂いを僅かに感じた。ミントのような爽快な香り。
「…あれ、颯真の香りがする」
「抑制剤飲んでないからかな」
珍しい。発情期のオメガが来院するアルファ・オメガ科で働いている颯真は、日常的にヒート抑制剤を服用しているのかと思っていた。でも、昔はいつも感じていた香りで、潤にとって自分のものよりもずっと好感が持てて安堵する。
「なんか懐かしいね」
「お前、昔から俺の香り好きだよな」
颯真の言葉に潤も頷く。
「昔はくっ付いて、くんくんしてたよね。でも、いつからかやらなくなった」
中学生の頃だったように思う。二人で同じベッドで寝る夜は、潤が颯真に抱きついて寝ていた。
「お前を刺激しないようにって思って」
「刺激って…あは。兄弟じゃん」
一体なにを言ってるのだと潤が笑う。颯真も、そうだなと笑みを浮かべた。
「なんか、子供の頃を思い出すな…」
昔から好きな颯真の香りを感じながら、それに身を委ねていると、アルコールもあってふわふわとした気持ちになってきた。
「そういえば……、今日診察室の前で会った綺麗な子」
二十代後半の青年に「子」はないかと思うが、仕草が可愛らしいくてついついそう言いたくなる雰囲気だ。
「尚紀か」
「中学時代の後輩と聞いて驚いた」
颯真も頷く。
「お前のことをずいぶん気に入ったみたいで、本当に来てほしいって言っていたぞ」
病室でも念を押された、と颯真は苦笑気味に教えてくれた。
その言葉に、潤も素直に嬉しくなった。
「そう、じゃあ今度会いに行くよ」
もう一度会いに行きたいと思うほどに、潤も彼に好感を持ったし、好意を向けられて嬉しい。
卑屈になった気持ちが、颯真の香りに癒され、尚紀の話題で浮上してきた。
「まさか、尚紀がお前に懐くとはな」
颯真が意外そうな口調で呟く。
おそらくオメガ同士で気になるのだろうと思う。
尚紀はなぜ入院しているのだろう。見た目では健康を害しているようには見えなかった。ここで颯真に聞いてみてもいいが、おそらく医師としての守秘義務で教えてもらえないのだろう。今度会ったときに、可能であれば聞いてみようと思った。
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