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週が明けた月曜日の夕方。江上が無理矢理スケジュールを空けてくれたおかげで、少し早めに退社することができ、潤は再び誠心医科大学横浜病院に向かった。処方された抑制剤が今朝の服用分で終わってしまい、新たに薬剤をもらうためだ。
服用を止めたら、副作用として突発情期がくる可能性もある、などと脅されては時間を作って通うしかない。
江上とは今日は完全に別行動だ。取締役会の後から休みを取得する予定と聞いており、今日は溜まった仕事を片付けるために残業するとのこと。さらに、秘書室の忘年会にも顔を出すらしい。
今日は緊張を強いられる案件が目白押しだったこともあり、潤にとっても一人での移動の方がリラックスできて有難い。
実は、今日横浜まで行くのにも仕事ではないため、社用車の利用を躊躇ったが、江上には「先日、誘拐されかけたのに、それ迷いますか?」と冷静に指摘され、素直に品川の森生メディカル本社から横浜まで車で送って貰うことにした。自分の身になにかあったら、品川・横浜間の交通費以上の損失を会社に与えることになるのは分かる。
社用車を運転しているのは、潤が取締役の頃から世話になっている専属のドライバーだ。業務絡みではないため申し訳ないと潤が恐縮すると、付き合いの長いドライバーはかまいませんよと軽く笑った。
「横浜の病院へは何度もお送りしていますしね」
誠心医科大学横浜病院の外来診療は平日の朝八時四十五分からで、基本的に午前中と聞いている。予約患者であれば午後も診てもらえるようだが、颯真によると曜日によって午後は手術が入っていることもあり、融通はなかなかきかないらしい。それでもこんな夕方に、診療予約を受け付けてくれるのは異例のケースに違いなく、主治医の颯真自身が都合をつけてくれているからだろう。
特別待遇は申し訳ないと思いつつも、始業前の朝の時間は、順にとって貴重であるため有り難い。朝七時半には出社しているが、早朝のほうが電話や来客もなく集中して情報収集したり、メールをまとめて返信したりといった作業が捗るし、海外との電話もこの時間に当てることが多いためだ。
早朝出勤は、潤が森生メディカルに入社して以降、習慣にしている日課だ。
病院のエントランスの車寄せで社用車から降り、ドライバーにもう今日はいいからと告げて後部座席のドアを締める。レクサスは静かにエントランスから離れていく。潤はそれを一人で見送った。
すでに薄暗くなっていた待合ロビーの受付で名乗り、診察券を出すと、受付の女性が明かりが点いた診察室に案内してくれる。
先日と同じ、アルファ・オメガ科の第二診察室。
ノックしてからスライドドアを開くと、これまた先日と同じように目の前のデスクで颯真が待っていてくれた。
「潤、お疲れ」
いつもの調子でそのように挨拶してくれる。
今日は特に朝から慌ただしかった。午前中から、先日薬価収載された新薬のフェロモン抑制剤の発売会見があり、会社としての力の入れ具合を示すために、潤も出席者として登壇した。
そして午後はそのまま全国を繋ぐ営業会議に出席し、やはり新薬の社内的な位置づけや今後の営業戦略、開発戦略などを全国の営業職に伝え、鼓舞してきた。
事前に開発部長と営業部長から具体的な戦略のレクチャーを受け、情報を頭にたたき込んで臨んだが、それでも失敗できない緊張の連続で、疲弊した。
いわゆる新薬の種と言われる化合物の中で、新薬として開発に成功し市場に投入されるものの確率は、三万分の一程度といわれている。種が見つかってから、開発パイプラインに乗せられて、多くの医師や患者の協力を経て大小いくつかの臨床試験を行い、安全性を確保した後に厚生労働省に薬事承認申請を行う。数年かかるとされる審査の段階でもデータのやりとりや確認、検討が行われ、最終的に薬事承認を取得し、薬価がついて上市にこぎ着けるまで、莫大な時間と資金、多くの人々の協力と手間が必要だ。
そんな新薬を市場に投入後、その薬剤が持つ可能性を最大限に発揮できるよう、販売戦略を立て、実行することが製薬会社の腕の問われるところであり、営業部隊の実力が見られている。
そのスタートラインとなる新薬が上市されるタイミングは、失敗するわけにはいかない重要なイベントだ。
「ネットニュースに載ってた。今日は新薬発売の件で忙しかったみたいだな」
潤以上に忙しいはずなのに、颯真はニュースをチェックしてくれていたらしい。仕事であるといえばそれまでだ。だけど、それが嬉しくて、少し気恥ずかしい。
「大型新薬の発売なんて、そうそうないイベントだから気張らないとね」
「こういう新薬はスタートダッシュが大事だからな。明日朝一で、うちにも森生メディカルのMRが面会予約を入れているよ」
そろそろ採用会議があるから、必死だろうね、と颯真は言った。新薬採用会議といい、年数回開催される製薬会社にとっては一大イベントだ。ここを通らないことには誠心医科大学横浜病院で自社製品は使ってもらえない。
誠心医科大学の系列病院がある営業エリアは、森生メディカルでも重要な位置づけにされており、この横浜港湾エリアも、関東では東京の中央部と同じくらいの重要性を持つ市場だ。
「うちとしても期待の新薬です。森生先生、どうぞよろしくお願いします」
そう潤がおどけると、颯真も表情を緩めた。
「まさか裏で自分の会社の社長が頭を下げて売り込んでいるとは、担当MRは思っていないだろうけどな」
あはは、と潤も笑った。
「でも、森生先生はうちの社長の実兄って、もちろん分かってるだろうからね」
「うちに来る森生メディカルのMRはやりにくいだろうな」
「そんなことないよ。精鋭を取り揃えてますから」
他愛のないやりとりで、少し今日の疲れが癒やされた気がした。
「で……」
颯真が居住まいを正した。
「抑制剤はどう?」
本題を問い掛けられ、どう応えようかと潤は少し考えた。どうと言われても、効き目についてはよく分からない。首を傾げた。
「…匂いは感じないよ。あとは……、最初に飲んだ日に悪夢を見たな……」
それは、誘拐されかけた日の午後に見た、自分が発情期にみまわれて誰かに抱かれる夢。潤からみれば今でも苦い気持ちで思い出せるほどで、まさに悪夢といっていい。
颯真は目の前のPCに潤の話を打ち込みながら、うなずく。
「抑制剤を服用していて見る悪夢……割合的には淫夢が多いみたいだけど……、それはわりとある副作用だから心配ないよ」
敢えて悪夢といったのに、どのようなものであったのかは颯真にはやはりお見通しだったらしい。潤は俯いた。
「抑制剤を新しいのに変えたりすると結構見るんだ」
颯真がそうフォローした。
「さて、ちょっと診せてもらおうかな」
そう言って、颯真が聴診器を手にすると、背後に控えていた看護師が、ささっと介助に入る。潤がスーツのジャケットを脱ぐのを手伝い、診察を受けやすいようにサポートしてくれた。聴診や血圧、熱などバイタルをチェックされて、採血もされた。
しばらく待っていると、PCのデータに採血結果が示されたようで、颯真が頷いた。
「うん、問題なさそうだね。抑制剤も少しマイルドなやつにして、明日から少し誘発剤も入れようか」
次回はまた週の後半ね、と颯真に言われ、また違う錠剤を数錠処方された。自社製品はすぐにわかる。森生メディカルのフェロモン抑制剤。それに、メルト製薬のフェロモン抑制剤と誘発剤だった。
診察が終わって、颯真に今日はどうやって帰るんだと問われた潤は、一緒に帰ると即答した。颯真はまだ仕事が残っているとのことなので、大人しく待つつもりだった。
もう日が落ちた時刻だが、面会時間は夜八時までとのことなので、尚紀の病室を訪ねるつもりだと颯真に告げると、院内も完全に安全なわけではないのだから、気をつけて行動するようにと釘を刺された。
それは最もなことだし、颯真の話を聞かずに一人で行動したことで誘拐未遂に遭遇したので、潤は素直に頷いた。
颯真に病室の場所を聞いてそのまま上階の病棟に上がる。
アルファ・オメガ科は院内の十二階にあった。エレベーターで上がると、目の前にカウンターがあるナースステーション。そこを通り過ぎて、病棟番号をチェックしていると、すぐに見つかった。
二人部屋だと聞いていた。
スライドドアは開け放たれていたので、潤はそのまま室内を覗いてみる。左右にそれぞれベッドが一台ずつ配置されており、尚紀はその右側のベッドに座っていた。
「あ、潤先輩!」
尚紀は驚いた表情を浮かべ、そして嬉しそうに笑顔が弾けた。それは先日見たものとなんら変わりがなく、潤は安堵した。
病室内に足を踏み入れる。ふと、反対側のベッドも見たが男性で、一見してオメガと分かるような、たおやかな容姿をしていた。その彼にも軽く会釈する。
「週明けに来る予定になっていて、時間が空いたから寄ってみた」
我ながら言い訳じみていると思うが、会いたくて来たと素直に伝えるには、二回目ではなかなか言えなかった。
しかし、尚紀はそうではなかった。
「嬉しいです。僕、潤先輩ともっと話したかったので、あの後、颯真先生にもお願いしてしまったんですよ。しつこかったかなって、反省してました。でも、本当に来てもらえるなんて……」
感情を素直に表に出す青年だ。そこが潤には好感が持てる。
尚紀に促されて、潤はベッドの脇に置かれている椅子に腰掛けた。
「体調はどうなの」
潤が聞くと、尚紀はおかげさまで今は落ち着いていますと、笑みを見せた。
「周期に影響されるんです。やっぱり発情期が近くなると不安定になって」
でも、今は大丈夫です! と拳を見せる。いちいちの反応が空元気に見えなくもない。
「不安定になると仕事にも影響するよね」
潤がそう水を向けると、尚紀は素直に頷いた。先程とは少し違って寂しそうな表情だ。
「……そんなモデル使いにくいですからね。仕事もできなくなりました」
モデルもまた、自己管理が求められる仕事だろう。撮影スケジュールやショーに合わせて、心身ともにベストな状態に持っていかねばならない。自身の周期に翻弄され、コントロールが利かなくなってしまってはどうにもらならい。
「オメガは仕方ないのに……。辛いね」
「僕の存在意義なんて、そこにしかないんですけどね」
その切なげな横顔で、潤は尚紀にとってモデルという仕事は、彼の彼たる所以を成立させる一つの構成要素になっていて、アイデンティティなのだと悟った。
それは学生時代から周囲からの期待に応えたいと、自分を奮い立たせて仕事に邁進してきた潤にも共感できるところがあった。
潤は身近に医師の颯真がいたこともあり、オメガ特有の不安定な身体を調えるために徹底的に抑制剤に頼るという選択をした。おそらく颯真がいなければ、尚紀のようにどうにもならなくなっていたような気がする。
そのためか、潤は尚紀のことが他人事とは思えなかった。
いや違うなと思う。
それもあるかもしれない。でも、これまで自分自身をないがしろにしてきたつもりはなかったが、今のような、無理矢理発情期を起こさねば体調の安定化も望めないような事態まで放置したのは、仕事を優先させて、オメガ性と向き合ってこなかったことも原因としてあろう。
そう考えると、オメガ性特有の周期に翻弄されて仕事ができなくなった尚紀を、自分の未来を見る気がして、他人事ではいられなくなったのかもしれない。潤自身とどこか通じる部分を感じるのだ。
潤は思わず尚紀の手を取る。すると、一瞬おどろいたような顔をした尚紀が、表情を和らげた。
「潤先輩は優しいですね……。颯真先生とそっくり」
「そっくり?」
そんなことはこれまで言われたことはなかった。双子といえど、二卵性双生児のため、颯真とはまったく似ていない。
しかし、尚紀は即頷く。
「颯真先生は本当にいい先生です。自分でもうんざりするほどに不安定なのに、きちんと向き合ってくれます。投げ出さずに診てくれて、ちゃんと楽にしてくれる。颯真先生が来てくれたら大丈夫って思える」
尚紀は潤を見た。
「僕は颯真先生の温かい手が好きです。潤先輩も同じように温かい……双子なんだなって思います」
潤は尚紀を見ていてどこか不安になった。
「自分の身体のことを、うんざりするなんて言わないほうがいい。それだけ辛いってことなんだから」
潤の言葉に尚紀は、同じことを颯真先生に言われました、とふふっと笑う。
「……もうホントに、しんどかったんです。僕には頼れる人がいなかったから……」
潤は、尚紀が抱く主治医の颯真への信頼の篤さを強く感じていた。
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