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しかし、と潤は思い立つ。尚紀の項に思わず視線を向ける。そこにあるのは見せつけるように付けられている番としての咬み跡。尚紀には、確か番が居たはずだ。
番契約についてはオメガ同士でもわりとデリケートな話になる。潤は一応前置きをした。
「込み入ったことを聞くけど、番の方には頼れないの?」
潤の質問に、尚紀はああ、と自分の項に手をやった。
尚紀はそのまま少し考えて、潤に視線を寄越した。すこし困ったような表情が印象的だった。
「この跡ですよね……。実はもういないんです」
「いない?」
「死にました」
潤は言葉を失った。しかし、そんな反応は慣れているのだろうか。
「……ひどい話ですよね。番にしておいて、先に死ぬなんて」
尚紀は苦そうな笑みを浮かべた。
オメガの発情期にアルファがオメガの項を噛むことで成立するとされている番契約は、双方にとって本能によるものとも言われており、結婚や養子縁組といった書類上の結びつきよりも強い。オメガにとっては、いったん項を噛まれてしまうと、相手のアルファの匂いしか感じなくなり、なかったことにはできなくなる、身体同士の結びつきだ。
その一方で、アルファは番のオメガに対し一方的に番を解除することも、複数のオメガの項を噛むことも可能だと言われている。
番契約とはどちらかの死亡で解消されるものであると聞いたことがある。しかし、オメガに限ってはその限りではないらしい。現に番を失ったという尚紀の項には未だに痛々しい咬み跡が残っていた。
「番契約って、相手が死んでも解消されるわけではないんですね……」
となると、尚紀の項に残っているその咬み跡は、亡くなったアルファのもので、それがある限り、尚紀の身体も心も、すでにこの世にはいないアルファの番に縛られてしまっている。尚紀の不安定な体調の原因は、そこからきているものなのだと、潤はようやく理解した。
潤自身は番もいないし、今後も作るつもりはないし、発情期だってほとんど記憶になくて、経験したとは言いがたい状態だ。しかし、番がいるオメガの、アルファ不在の発情期が辛いというのは知識としては知っている。番のいないオメガの人生は、極度のストレスに晒され、人によってはメンタルを崩したり、病気になるケースもあると聞く。番を亡くすというのは、オメガにとって自分の根幹を失うに等しく、筆舌にしがたい苦痛なのだ。
昔は寡婦となったオメガは、亡くしたアルファを思い、その短い人生をひっそりと生きていくことが正しいこととされていた。しかし、今はそんな時代ではない。抑制剤がこれだけ出回っている現在、亡くした半身を医療で補う何かの技術があってもいいと潤は思う。
「そういうのって、医療の力である程度軽減できないものなのかな……」
潤の呟きに、尚紀は困ったような表情を浮かべる。
「颯真先生が……」
「颯真?」
尚紀は頷いた。
「颯真先生が番を亡くしたオメガに現れる体調不良の治療に熱心だと聞いたんです。事務所の人が連れてきてくれました」
潤自身、直接颯真に仕事内容を聞いたことはないと思うが、間接的にそのような評価を聞いたこともあり知っている。営業会議や開発進捗会議で、時折誠心医科大学病院の取り組みなどの報告を受けて颯真の仕事内容を垣間見ることがあるためだ。
「大学病院だし、颯真先生も忙しいからって、本当は診療予約も取るのが大変みたいですけど、僕のケースが新しい治療法の適応になるらしく、颯真先生の口添えでここにも優先的に入院させてもらったんです」
「新しい治療法……」
「詳しいことはすみません、僕も分からないんですが、この項の咬み跡を消せるかもしれないって話で」
「へえ。そうしたら、もっと体調がよくなるんだよね」
「たぶん。ただ、そのための治療が、薬の微妙な調節とかも難しいらしくて……、もしかしたら治療は辛いかもって言われました」
今のところは大丈夫ですけど……と少し不安そうな表情を浮かべる。なにを考えているのか、表情によく現れるこの純粋な青年を、潤は手をとって躊躇いなく励ます。
「大丈夫だよ。颯真を信じて。僕も応援する」
潤はそもそも警戒心が強い性格だが、この青年には不思議なほどに警戒感が湧かない。
「ありがとうございます……。本当に颯真先生に出会えて僕はラッキーでした」
「そう……」
「僕は一度死んでるようなものだから……」
「死んでる?」
「ええ。番を亡くすって、そういう思いに駆られるんです。あの人を追いかけて自分も死のうか……とか、自殺を選ばないのは、多分大した理由はなくて、たまたまだったりするんだと思います」
その尚紀の横顔が印象的だった。
「あ、颯真先生には内緒ですよ」
尚紀がいきなりそのように言い出す。
「え」
「颯真先生にそんなこと言ったら本気で怒られますから。潤先輩だけに。本音の話です」
潤を少し見上げるように見つめる瞳。潤は思わず頷いた。
「わかった。オメガ同士の秘密だね」
そう了解すると、尚紀もにっこり笑って頷いた。
「アルファには分からない感覚ですから」
「おい、潤。帰るぞ」
仕事が終わった颯真が迎えに来た。すでに白衣を脱いでスーツ姿だった。潤は思わず腕時計を確認すると、もう夜七時半を過ぎている。すっかり話し込んでしまったようだった。
「あ、うん」
潤も立ち上がる。
「颯真先生!」
尚紀が嬉しそうな表情を浮かべる。まるで主人を見つけて尻尾を振る犬のようで可愛らしい。
「尚紀、体調は大丈夫か?」
「はい」
「また明日な。朝、様子見に来るから」
颯真が尚紀の頭に触れる。嬉しそうな尚紀の表情を見て、潤も和むような気分になった。
「また近く来るよ」
そう挨拶すると、颯真に向ける笑顔を同じくらいの笑顔で、また来てくださいね、絶対ですよ、と尚紀は念を押して、両手をぶんぶんと左右に振って潤と颯真を見送った。
「尚紀といろいろ話したようだな」
地下駐車場で颯真の愛車に乗り込んですぐ。エンジンをかけるとほぼ同時に、颯真が潤に問い掛けてきた。
助手席に収まりシートベルトを着けた潤が頷く。颯真がゆっくりと車を発進させ、するりとみなとみらいの街並みに滑り込んだ。
やはりクリスマス前の街並みはきらきらと輝いている。それを潤もぼんやりと目をやりながら、先程の尚紀との会話を思い出していた。
まさか、番が亡くなっていたとは思わなかった。
「いろいろ話してくれたよ。とても素直で…いい子だね」
潤がそう言って颯真の横顔を見る。その視線に気がついたのか、颯真もちらりと潤を見た。
「中学時代の後輩だし、放っておけなくて」
「もしかして、颯真は面識があったの?」
潤は知らなかったが、颯真は頷く。
「本当に接点なんて僅かだけど、中三で生徒会長をやっただろ。そのときに。尚紀は一年のクラス委員だったから、少しだけな」
なるほど、と思った。
中学二年生の秋から三年の夏まで、颯真は生徒会長を務めていた。潤たちが通っていた学校では生徒会の選出方法が特殊で、前任者の指名を経ての信任投票となるケースが多かったのだ。学年の中でもとりわけ目立っていた颯真が生徒会長になるのは必然と言えた。
「あれ。じゃあ、廉も知ってる?」
潤の質問に颯真も頷く。
生徒会長はその権限で副会長を指名できるシステムだった。固辞した潤に代わって、颯真が指名したのは江上だった。当然、新入生との接点もあっただろう。
「知らなかったのは僕だけか……」
どこか残念な気がした。きっと中学時代の尚紀は可愛かったと思うからだ。自分の第二の性が判明してからこちら、潤は颯真と江上に守られることが多かったこともあり、自分も、守る、愛でるという立場になってみたかった。
まだ二回しか会ったことがないのに、潤には尚紀が弟のように可愛く思えていた。
「ああいう弟、ほしかったなって思う」
颯真も笑みを浮かべる。
「俺は、弟はお前だけで十分だけどな」
「ふふ。僕が手がかかるからね」
「そう。寝起きが悪くて、朝起こすのも一苦労だ」
潤の軽口に、颯真が軽快に乗ってくる。こうやってこの双子の兄と他愛もない話を交わすがの楽しい。話のテンポもセンスも似ているからだろう。
「ずいぶん颯真は懐かれてるね」
「嫉妬か?」
颯真はそう笑いかけてくる。潤も少し妬けると答えた。
「だって、颯真が顔を見せたら尻尾振ってる犬みたいに見えた」
「お前は俺の方に嫉妬するのか」
「あの反応は、得がたい」
そう言うと、颯真も笑う。
「まあ、あれだけ明るくなってよかったよ」
「すいぶん、辛い目に遇ったって聞いた」
うん、と颯真も頷く。
「うちに来たときはひどかった」
颯真には言えないが、尚紀は「自分は一度死んだ」と言っていた。それほどまでの経験をしてきた。それがどんなものだったのか、潤は躊躇い踏み込むことができなかった。いや、安易に踏みこんではならない気がした。
「新しい治療法の適応になるんだって?」
そう潤が水を向けると、颯真は前を見たまま頷いた。
「尚紀から聞いたか」
潤もうん、と頷いた。
「死んだ番の思いが強いのと、尚紀も繫がれているという意識が強いみたいで、咬み跡が消えないんだ。そういうケースって少なくないんだけどさ……」
車が赤信号で停車した。颯真が潤を見る。
「ペア・ボンド療法って知ってるか?」
いきなり問われて、潤は首を傾げる。
「ペア、ボンド……番関係……?」
「そう。オメガの患者の中に残る既存の番関係を、新しい番契約で塗り替える方法だ」
青信号に変わり、颯真は発車させる。
「そもそも概念はあったんだ。ただ、それを可能にする方法と倫理的な問題があって、実現は難しかった」
しかし、昨年メルト製薬が上市したフェロモン誘発剤がきっかけで可能になったと颯真は言う。
「具体的にどういう方法なの?」
「今のお前以上に厳格にフェロモンを管理して、前のアルファの身体的な影響を完全に押さえつける。そのタイミングで薬を使ってピュアな発情期を引き出して、アルファと繋がることで、身体的な負担を最小限に抑えながら番契約を成立させる」
なるほど、強引な方法だね、と潤は素直な感想を漏らした。医療行為として番契約を交わすという手法に複雑な思いがよぎる。
「だから倫理的な問題もあったんだ。でも、ようやく学内の倫理委員会を通って、具体的に進められるようになった」
それが尚紀の希望に繋がっているのであれば、と改めて潤は思う。
「相手のアルファも複雑だよね、きっと」
「オメガの患者だけでなく、相手のアルファにもかなりの精神的な苦痛が伴うと思われる」
アルファには、オメガにもともとは違う相手がいたという過去だけでなく、オメガは今そのかつての相手の番に未だに身体的に捕らわれてるという現在を受け入れるだけの器が問われる。それを全て飲み込むのは、決して簡単なことではなかろう。
さらに、ここまできてなお、自分一人でオメガを守ることができないというジレンマや後悔、独占欲など、様々な感情が襲いかかることが想像される。そもそも番に対しての独占欲が強いとされるアルファが、番候補のオメガに対して、それらの複雑な感情を一つ一つ乗り越えて、全てを受け入れるという決断をしなければ、この治療は成立しない。
潤は、尚紀の番に求められる条件を改めて辿ると気が遠くなる思いだ。
まず、生半可な気持ちでは無理だ。これまで心を縛ってきた前の番への気持ちを断ち切るほどの愛情をもって尚紀を包み込まないと成功しないのだろう。たしかに尚紀は可愛いし、モデルだし、アルファからモテるに違いない。しかし、そんな面倒くさいオメガと番いたいアルファなど、どれだけいるというのか。
さらに、颯真自身が尚紀を可愛がっていることもあって、相手のアルファに求めるハードルは上がってしまっているだろう。となると、ますます相手は…。いや、そう考えると、いっそのこと、颯真が尚紀を番にするというのは手っ取り早くないか……?
その思いつきに、潤は気持ちが揺れた。
それは、自分に、義兄ができるかもしれないということだ。これまで不思議なことに一瞬たりとも想像もしたことがなかった可能性だ。
尚紀の相手が誰なのか。颯真に聞いてみたかったが、尚紀を飛ばすのは順番が違う気がして、躊躇って、口に出すことができなかった。
「……尚紀には幸せになってほしいよな」
潤は頷いた。
「そうだね……。また会いに行くよ」
「大喜びしてたろ。好かれてるな」
颯真が視線を流してくるのを、潤もやんわりと受け止める。ただ先程とは少し違う気持ちが篭もるのは仕方が無い。
「あの子は、もともと颯真が大好きなんだよ。颯真先生にそっくりを連呼された」
はは、と颯真は声を上げる。
「双子だから仕方ない。違うところを期待されても困るな」
ハンドルを握りながらそう軽口を叩いた。
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