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今回は堅い話ばかりで申し訳ありません。。。 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧  翌朝。潤はいつもどおり朝七時半に出勤した。いつもは潤に付き合って江上も一緒であることが多いが、昨夜は残業のうえに秘書課の忘年会だったので、今朝は付き合わなくてもいいと言っておいたのだ。  ここ数日、一人であることに不安がないわけではなかったが、早朝とはいっても社内のセキュリティは厳しく、オフィス内は外部の人間が入り込むことはできない。社長室は言わずもがなだから、一人でも安全だろうと思った。  デスクのPCに電源を入れ、チェアに腰を掛ける。社長室といっても、オフィスビル上階のワンフロアを副社長室や秘書室、役員会議室、応接室などと分け合っており、さほど広い空間ではない。一般社員と比べて、少し広くて立派なデスクと打ち合わせ用のソファセットがある程度だ。  対外的なことは、役員用の応接室があるため、ここは実務を裁く場所であった。会社の隣にある早朝から営業しているコーヒーショップで購入したロイヤルミルクティーを飲みながら、まずばメールをチェックする。  返信が必要なものとそうでないものをより分けながら、ファーマ部門の大西開発本部長に軽く一通メールを入れておこうと思いつく。  ペア・ボンド療法の現状について軽いレクチャーを受けたいという依頼だ。急ぐ話ではないということを言い添えておこう。医師免許を持つ彼ならば知っているだろうと考えた。  昨夜、車内で颯真に聞いた話が、潤の頭からはどうしても抜けなかった。素直に颯真に問えば良い話ではあるのだが、彼の研究に他社が絡んでいたり機密があったりすれば言いにくいのではないか、などと考え出すと気軽に切り出せなくなった。とはいっても、純粋な興味であるため、忙しい大西の時間を割いて貰うもの心苦しい。  まずは抑えておくべき資料を教えて貰うところからかもしれないと考えたとき、コンコンと控えめにドアがノックされた気がした。  この時間に来客か、と思わず腕時計を確認すると、八時前。江上が出勤してくるにしても早い。 「はい」  潤が応じると、ドアが開いて入ってきたのは、グレーの上質なスーツに身を包んだ、五十がらみの男。森生メディカルデバイス部管理部長の佐賀だった。 「社長、おはようございます」   取締役とはいえ、普段はあまり顔を合わせることはない。彼がここに来た理由は一体何か。  相手が相手であるだけに、気持ちに少し怯みが出たが、気を引き締めて建て直した。 「佐賀部長ですか。おはようございます」   緊張を表に出さずに、何気なく応じる。どうぞお入り下さいと、と潤が誘った。  佐賀はゆったりとした足取りでドアを閉め、潤の元にやってくる。実年齢は五十代半ばと聞いているが、見た目以上に若々しく見える。   潤もデスクから立ち上がって佐賀を迎え、ソファに腰掛けるよう勧めた。 「で、こんな朝早くから何のご用でしょうか」  佐賀が着席し、潤もその脇に腰掛ける。次いでそのように問うと、佐賀は脚に肘を乗せて、早朝に突然に押しかけて申し訳ないと謝罪したうえで、社長は忙しいそうなので、朝しか捕まらないと思った、と言った。 「秘書室長に取り次いでいただけませんでしたのでね」  どうやら、江上が面会要請をせき止めていたらしいと潤は察した。その口調からも、佐賀は江上を目障りと思っているようだ。 「それは大変失礼しました」  思惑を笑顔に隠して潤は謝罪する。 「少々お時間を頂けますか。社長のご見解を伺いたいのです」  潤も頷いた。 「もちろんです。なんでしょうか」 「いささか雑談めいたものになりますが、弊社は研究開発のスピードアップのために、どのような対応が求められていると考えておられますか」  いきなりの質問だった。 「なぜそんなことを?」 「ふと疑問に思いましてね。いや、雑談ですよ」  佐賀が念を押す。雑談といいながらも、姿勢は少し前のめりで、潤の考えを聞き漏らすまいというわずかな緊張さえ見え隠れする。その姿に、潤は少し異様さを感じていたが、部下からの問い掛けだ。逃れることはできない。  潤は慎重に口を開いた。 「研究開発のスピードアップですか。まずは社内で出来ることを模索すべきでしょう。プロセスの見直しと意志決定の簡素化でしょうか。あとは実務的な話になりますが、審査機関への相談の効率的な活用と、アウトソーシングの……」 「いやいや。そうではないのです。そういう消極的な話を伺いたい訳ではないのです」  潤の見解は、佐賀によって即座に断じられた。その反応に潤はわずかに気分を害する。 「消極的でしょうか?」  思わず声が固くなった。  佐賀は、潤からみれば部下ではあるが、年齢もキャリアも上だ。ビジネスシーンではできる限り敬意を払い、礼儀として敬語を使うようにしている。しかし、敬意を払わない相手にこの対応は正解なのだろうかと、ふと思った。  そんな潤の心境など構わず、佐賀は潤の顔を力強い目線で捕らえた。 「ええ、消極的です。我が国の製薬業界は今岐路に立たされています。欧米の……外資の攻勢を躱すには、積極的なM&Aや提携も考慮に入れるべきではありませんか」  しかし、潤からすると佐賀の意見の方が突飛に思える。 「闇雲に規模を追求しても、最終的な目的である新薬の創出は望めません。それよりも……」 「違いますよ。新薬を持っている会社と関係を作るのです」 「ベンチャーとですか? しかし、いろいろ話を聞きますが、やはり玉石混淆……」 「いえ」  潤の言葉に、佐賀が僅かに腰を浮かせる。 「はい?」  潤が戸惑いを見せると、佐賀が身を乗り出した。 「いい話があるのです」  そこまでくると潤も佐賀の話が読めた。おそらく、自分が進めている提携話に乗れと提案したいのだろう。それに乗ることで、来週の取締役会での組織改正の提案は延期…、中止を狙うのか。いや、もしかしたら逆で、中止にさせたいから、提携話とやらを持ってきたのか。  潤の中で嫌悪感が膨らんでいく。早くこのやり取りを終わらせたい。 「あいにくですが、そのご心配には及びません。あまりにリスキーで乗れない」   潤は会話を一方的に打ち切った。  最後まで佐賀に話させても良かったが、こちらも彼の動きを察知していると情報を流している以上、無駄な話を聞く必要はないと判断した。  もしかしたら、少し感情的になっているかもしれない。しかしこの嫌悪感は耐え難い。 「ほう、話を聞かなくてもいいと?」 「問題ありません。わたしには……森生メディカルには必要のない話です」    自分、ではなく会社と言い直したところで、佐賀の眉間にしわが刻まれた。 「では、取締役会では変わらずにあの案を?」 「もちろんです」 「わたしが賛成しなければ、通りませんけど」 「……」  潤が思わず黙る。すると、佐賀は気を良くしたように、表情を緩めた。 「社長御自らご提案される組織改正が取締役会で否決されたとなれば、下の者はどう思うでしょうな。反応が楽しみですな」  さて、お邪魔しましたと佐賀が立ち上がる。  潤は自らドアを開けて、佐賀を見送る。 「来週の取締役会、楽しみにしていますよ」  佐賀なにやりと笑み浮かべる。その表情に嫌悪感を覚え、背筋が冷えたが、それを悟られる前に佐賀は去って行った。  チリリンと、デスクに置いたスマホが鳴った。  ドアを閉めて、大きく安堵の息を吐く。  あれは、宣戦布告のつもりか。以前の彼はあれほどではなかったはずだが、嫌悪感がどうしても先立ってしまう。  潤はデスクに戻り、スマホを手にする。  メッセージが入っていた。  相手は、昨日IDを交換したばかりの尚紀からだった。 「おはようございます!  昨夜はわざわざありがとうございました。とても楽しかったです! 潤先輩と颯真先生が一緒にいるのを見るのが、とても嬉しくて幸せでした。また、お暇があれば来てくださいね」  彼らしい、優しく控えめなメッセージに、潤は心が浄化される思いだった。次回は木曜日の夕方に行く予定なので、また寄りますと、メッセージの下部にしたためて送信した。  デスクにスマホを置くと、潤はチェアに腰掛けて、大きく息を吐いた。  午前中の営業会議を終えて、オフィスに戻ってくると、江上と副社長の飯田が待ち構えていた。 「週末の件、江上さんから聞きましたよ。ちょっと洒落にならない話ですねぇ」  渋い顔をしてソファに腰掛けているのは飯田。きっと、横浜駅での一件を聞いたのだろう。昨日はバタバタしていて話す時間がなかったのだ。  今朝方、どのように調べたのか全く分からないが、潤を誘拐しようとした人物の素性を、江上は調べ上げてきた。  それによると、江上の当初の予想通りだったらしい。  潤を街中で攫おうとしたのは、総会屋崩れの男たちだった。昔は跋扈していた総会屋も、現在はほとんど表に出ることはなくなってしまった。そういう者は大概は地下に潜るもので、半分やくざみたいなことをやっている連中もいるとのこと。現在はまとめて「反社会勢力」などと呼ばれている連中だ。  佐賀は、かつて中堅製薬企業の総務部に勤務していた経歴を持つ。総会屋対策を担当していたこともあり、そこで繋がりができてしまったと想像できる。もちろん総務部にいるからといって簡単にできる繋がりではない。素養があったということなのだろう。  そのような人物が取締役の地位にあるというのが、今の森生メディカルにとって痛恨であり、早急に対処するべき課題だ。しかし、佐賀がこれら反社会勢力と繋がりがあるという、肝心な証拠を押さえることができていなかった。 「もうこれは社長になるべく一人にならないように気をつけて頂くしか……護衛を付けますか」 「いや、大丈夫です。僕はだいたい一人では行動していないし。それに相手が分かれば、注意することはできますし」  思えばあの日、一人で電車で帰ろうとしたことが珍しいことだった。それに一度未遂で終わってしまったのに、再び同じ犯罪を行うのは考えにくい。 「取締役会までに、不特定多数の人物が接触可能な会議などに社長が出席する予定は?」  飯田の質問に、江上が即答する。 「ありません。いくつか会合がありましたが、欠席で問題がないものについては、すべて手配済みです」  飯田は満足気に頷く。 「ただ……、今朝ですが」  潤が口を開く。飯田と江上の視線がこちらを向いた。 「佐賀さんがここに来ました」  うちの取締役ですから来て頂いて構いませんが、少し驚きました、と潤は報告した。 「なにを話したんです?」  飯田が真剣な面持ちで話しかけてくる。 「どうも、例の提携に乗れ、という話だったようですよ。その前に話を切り上げてしまったのですが。おそらく、僕を懐柔できれば、取締役会を乗り切れると踏んだのでしょう」 「社長はどうお応えになったんですか?」  飯田の問いに潤も苦笑する。 「その提案はリスキーで考える余地もない。乗れないと具体的な社名が出る前に断りました。そしたら、やはり取締役会で組織改正を提案するのかと聞かれたので、そのつもりだと答えたら、わたしは反対すると明言されました」  結局、彼の最後の手段はそこなのですね、と飯田は応じる。 「こちらも、対抗手段として決定的な証拠を握っていないのが辛いところです。相手は分かってやっているのでしょう」  潤も頷いた。  潤の組織改正案を全会一致で通すには、二つの方法がある。  一つ目は、佐賀を含めた取締役全員が賛成すること。しかし、これは厳しい状況だ。  二つ目は、佐賀を取締役から除外した形で採決を取り、取締役全員が賛成すること。  その証拠を探しているが、未だに情報漏洩の証拠を掴むことは出来ずにいた。江上によると、いくつかネタはあるというのだが、いずれも取締役解任の決定打としては弱いらしい。  取締役会は来週に迫っている。二つ目の証拠を探しつつ、新たな方策を探さねばならないタイミングにきている。 「一つ案はあります」  飯田が口火を切った。 「あまり積極的に進めたいことではありませんが、あらかじめ取締役全員に根回しを計っておき、本事案について全会一致の原則から外させればよいのです。取締役会の議決は議決権を持つ取締役の過半数の出席、さらに過半数の議決で決議することも可能です」  潤は思わず渋い顔を浮かべた。 「それはあまり……」  自分が提案のみハードルを下げるというのは批判の的となりうる。肝いりの提案なだけに、そのような先入観を入れたくない。 「……という最終手段を検討しているという情報をそれとなく流すのです。それを佐賀さんがキャッチして、漏れれば情報漏洩の証拠となります」  あえて偽の情報を流すということか。質の悪い罠に近いが、いくつも手段が残されているわけではない。 「それに併せて、反社会勢力との関係性についても引き続き調査を進めます」  江上も頷いた。 「それが押さえられれば一発でアウトだ」  飯田も江上を見据えて頷く。 「社長、それで問題はありませんか?」  最後に飯田は潤に了解を求めた。潤は即答する。 「うん。すべて飯田さんに任せるよ」 「承知しました」  飯田は潤に一礼した。

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