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 その日、潤は不覚にも早めに仕事を切り上げることになった。昼過ぎまではいつもどおり仕事に集中できていたのだが、夕方近くなってくると徐々に身体が重くなり怠さを訴え始めたのだ。  飲み慣れない抑制剤の副作用であることは、簡単に想像できた。幸い、外出や来客などの予定はなく、多くの決裁事項を裁くためにデスクに張り付いていたところ。しかし時間が経つにつれ、身体が重く、そして熱っぽくなってきた。  そんなときにタイミング良く所用で来室した江上に、一発で体調不良を見抜かれた。  江上はそのまま社長室の内線から社用車を手配する。潤に抵抗する暇は与えられなかった。 「そういうときは早く帰って寝てください。すべては明日で結構ですから」  確かに、決裁事項は単に判子を押すだけの仕事ではない。身体の不調で判断力が鈍り、決断を間違えたら洒落にならない。  対して、江上の勘は冴え渡っている。 「きっと今飲まれている薬の副作用ですよね。今は無理をしないでください」  そう窘められ、地下の駐車場に停まったレクサスの後部座席に押し込まれて、自宅に帰されたのだった。    素直に帰宅した潤はそのまま着替えて横になった。また抑制剤の副作用で淫夢を見ないかと心配で、寝ることができなかったが、うつらうつらしている中では幸い見ることがなかった。  夜になって颯真が帰宅した。いつもよりも早い気がする。迷わずそのまま潤の居室までやってきた。 「体調、大丈夫か?」  ベッドのなかでぼんやりしていると、颯真がスーツ姿のまま、枕元にいた。おそらく江上から連絡がいっているのだろうと思う。 「うん……」  潤が頷くと、颯真が額に手の平を乗せる。冷たくで気持ちがいい……。うっとりとしていると、脈や目元や首筋などを触診、視診された。 「少し熱があるな。たぶん、今日から入れ始めた誘発剤に、身体が驚いているんだろう」  颯真はそう結論づけた。潤も頷く。 「…そんな感じ。我慢できないくらいしんどいわけじゃないから、大丈夫」  受け答えがしっかりしているのを見て、颯真も安堵したのだろう。 「明日は仕事行けそうか?」 「…平気。仕事残してきたから、行かないと江上に怒られる」  そう言うと、颯真も安堵したのだろう。頷いた。  そうだ、と颯真が声を上げた。ビジネスバッグと一緒に置かれていた紙袋を潤の前にかざす。 「お土産。約束のやつ、買ってきたぞ」   それは先日、潤が無くしてしまった紅茶専門店の紙袋と同じもの。受け取り中を覗くと、真っ赤な紅茶缶が三つ入っていた。 「颯真…、ありがと」  気晴らしで買い求めたものだったが、無くしてしまうと心残りで気になっていた。赤い紅茶缶を取り出すと、潤は気がつく。 「アッサム、アールグレイ……、キャラメルバニラ……」  驚いて、思わず颯真を見上げる。 「僕……なにを買ったかも話したっけ?」  それは先日、潤が店員と相談しながら買い求めた茶葉の種類とまったく同じだった。しかし颯真は聞いていないと首を横に振った。 「だって、ロイヤルミルクティ用だろ? 店員さんにいくつか見せて貰って、お前が好きそうなやつを買ってきた」  煎れてやるから貸してみろと言われ、紙袋ごと潤は颯真に渡した。 「颯真……」 「ん?」 「ありがとね」  自分の好みの茶葉を難なく買い当てて帰ってくる、この双子の兄が居て、本当によかったと思う。  潤が普段どのように紅茶を煎れているのか、颯真はまったく知らないはずだが、颯真が淹れてきたロイヤルミルクティは、驚くほどに潤が煎れたものと同じ味だった。  紅茶の香りが立っていて、コクがあって濃厚で、少し甘くて美味い。 「そういえば、尚紀もミルクティが好きみたいだぞ」  潤に付き合って、一緒にマグカップでミルクティを飲んでいた颯真がそんなことを言い出した。颯真によると、よくベッドサイドにペットボトルが置かれているらしい。 「よく見てるね」  潤が茶化すが、颯真は動じない。 「そりゃ一日何度も会ってるからな」  担当医と患者という意味だろう、たぶん。 「尚紀さんと一緒にお茶するのも楽しいかもね」  今度、茶葉を病室に持ち込むというのもありだろうかとと潤は考える。 「少し精神的に過敏になってるようだけど、お前が顔を見せれば喜ぶと思うぞ」  そう颯真が応じた。颯真がいなくても、尚紀はよろこんでくれるかな、とふと潤は思った。 「流石ですな、社長! まさか、ペア・ボンド療法の情報をキャッチされているとは。驚きましたよ」  翌日の午後。ペア・ボンド療法についてレクチャーしてほしいという潤の依頼に、ファーマ部門の大西研究開発部長が電光石火の反応を見せてくれた。忙しい時間の合間で簡単に、要所だけお伝えしますよと請け負ってくれたのだ。  社長室に入ってきた時の大西の反応で、我が社にとってペア・ボンド療法が無視できない治療法であるということを潤は察した。  潤は大西をソファに誘うと、自分も腰掛ける。 「偶然、伝え聞いたものだったので、まずはどのようなものなのかを教えて頂こうと」 「ああ、お兄さんですかな」  大西は勘が良い。膝を叩いた。潤も頷く。 「兄の颯真が絡んでいると聞いてます」  なのでおおよそざっくりとした話は聞いていますと、潤が白状する。 「ペア・ボンド療法は……、誠心医科大学附属横浜病院と本院の共同で行われる、番を無くしたオメガに対する新たな治療法でして……」  それによると、現在はメルト製薬が噛んでいるという。 「メルト製薬も?」  潤の反応に、大西が頷いた。 「ええ。やはりペア・ボンド療法において、オメガのフェロモン管理には、メルトが昨年発売したフェロモン誘発剤「グランス」が不可欠なんですよ。そのため治験に参加しているようです。学内の倫理委員会を通ったので、年内に横浜病院で一例、年明けにも本院で数例、治験が行われると聞いていますよ」  具体的にいつどのような患者が対象になっているのかは全く分かっていませんがね、と言う。    そこまでが触りです、と大西が区切りを付ける。それですね社長、とさらに身を乗り出してきた。 「はい?」 「先日、メルト製薬がうちの製剤技術に興味をもって接触してきているという話をしましたよね?」  ああ、と潤は応じる。それは二週間ほど前、密着取材を受けている最中に、大西からもたらされた情報だった。そのときは、森生メディカルの製剤技術にメルト製薬が興味を示している、という内容だったと記憶している。 「そうです。メルト製薬が我が社の製剤技術をペア・ボンド療法に活用できないかと、内々の打診をしてきているのです」  潤は首を傾げる。  大西によると、現在メルト製薬は販売中の新薬であるフェロモン誘発剤「グランス」の他に、数種類の誘発剤の開発を進めている。森生メディカルも、メルト製薬の後塵を拝しているが、フェロモン誘発剤の開発を急いでいる。  しかし、森生メディカルが開発を進めているものは、メルト製薬が開発しているものとは少し異なっているのが特徴だ。  それは自己注射剤だ。グランスは最初に注射剤が上市され、最近になって錠剤も発売された。錠剤が発売されて、格段に使いやすくなったと言われるが、やはり即効性という効果の点では注射剤に及ばない。しかし、注射で受ける場合には、当然ながらアルファ・オメガ科を受診し、医師からの処置を受ける必要がある。  森生メディカルが開発を進めている自己注射剤は、文字どおり患者が自ら薬剤を投与できる剤型だ。森生メディカルはインスリン剤など自己注射剤の開発を行っていたデバイス部門を抱えており、この分野に明るいのが強みだ。  やはり発情期を起こすとなれば、リラックスできる場所でと考えるのが自然だが、まだまだアルファ・オメガ科という診療科がある病院が少ないうえに、発情するリスクを伴って受診するのは躊躇いがある。発情しても安全な場所でオメガ(もしくは番のアルファ)が、投与するのが理想だ。自己注射剤はそのニーズに応えた製剤である。しかも、誤投与のリスクを考慮して、中和剤もセットで開発している。  その取り組みが、メルト製薬と誠心医科大学の目に留まったのだろうと分析した。 「なるほど……メルト製薬が興味を持っているというのはそういうところね……」  潤がそう反応すると、大西も頷いた。 「もちろん、我が社の製剤技術は特許で押さえておりますし、シェアトップのメルトの開発チームと進めることで、スピードアップとスタッフの新たな刺激にもなります。誠心医科大学にも大きなとっかかりが出来ますし、我が社としては……」 「問題はないけど、懸念としては、ペア・ボンド療法の将来性だよね……」  もちろん尚紀が受ける治療なのだから、失敗があってはならない。しかし、その潤の願いと、経営者としての判断は別であるべきだ。 「ですよねえ……」  沈黙が二人の間に降り立つ。こればかりは、乗るか乗らないかは賭けだ。 「まあ、その懸念点を引いたとしても、佐賀さんが持ってこようとしている東邦製薬との提携はないと思いますがね……」  大西が呟いた。いきなり話題が変わった。 「あれ、大西部長は聞いたの?」 「っていうか、飯田副社長と江上室長の前でその話を聞いた社長が、烈火のごとく怒ったという話を、飯田さんから伺いましたが」  大西が楽しそうに潤を見る。  たしかに、飯田が、佐賀が模索している提携先が、国内製薬企業第六位の東邦製薬と聞いて潤は激怒した。提携先として佐賀が選んだ相手が、同じ製薬企業でありながらもあまりに企業文化と事業展開が異なる会社であったため、経営判断を下す取締役に名を連ねる者の選択としては悪手としか思えず、情けなくなったのだ。  森生メディカルは、医療機器などのデバイスの研究開発のほか、オメガのフェロモン抑制剤と抗がん剤領域で事業展開している。しかし、東邦製薬は生活習慣病治療薬や抗生物質を多く取り扱っており、市場は全く被らず、提携の相乗効果も期待できない。  同じ製薬会社といっても、専門分野が異なればビジネス環境も全く異なる。  さらに、東邦製薬の社長も問題だ。ベータ、時にはアルファの中でも、社会的な生産性や経済力が低いという理由で、オメガ性に対して差別発言や行動を取る者がいる。東邦製薬の社長はベータであるらしいが、そのような「オメガレイシスト」であることを周囲に言って憚ることない人物であった。もちろんそんな人物と潤が、合うはずもない。 「我が社はオメガの社員も多い。東邦製薬とは全く合わないと、わたしも思いますがね」  大西が軽く感想を述べる。それを潤が受ける。 「でしょう。そういう意味では、フェロモン抑制剤を多く販売しているメルト製薬との方が、手を組むにしてもメリットはありそうだ」  潤の言葉に、そういうことです、と大西も頷いた。

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