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 潤と江上の二人がやって来たのは、近隣の商業施設で行われているクリスマスマーケット。中庭に見上げるほどに大きなクリスマスツリーが設置され、その周りで可愛らしい露店が開かれているという。    小さな小屋をイメージしたような露店が並ぶ。きらびやかな装飾を施し、屋根の上にトナカイやサンタの人形を飾った店並みの先に、大きなクリスマスツリーが飾られていた。  人混みには近づくなと江上に言われているため、人の出入りがさほどに多くはない、少し離れた場所から眺めた。 「先程の電話は飯田副社長ですか?」  江上の問い掛けに潤は頷く。 「例の件、なかなか尻尾が掴めないみたいで」 「……そうですか」  明日の朝にはクリアになる話だから問題ないよ、と潤は言い添える。  しかし、潤の脳裏に引っかかっているのは、飯田の最後の言葉だった。  飯田が忠告した「オメガレイシスト」とは、ベータや、時にはアルファの中で、社会的な地位を持たず、生産性も経済力も低いオメガ性に対して、差別的な思想を持つ人々のことだ。オメガレイシストというその言葉自体がもつ意味合いが過激であるため、ネットスラングに近いが、そのような思想を持った人々というのは確実に存在している。割合としては多いわけではない。しかし、時々その過激な発言や行動が事件となってニュースに登場したりする。  最近、潤が聞いたなかでは東邦製薬の社長がそのような思想を持っているらしい。佐賀がなぜ、東邦製薬に引き寄せられたのか、どうしても解せなかったのだが、なるほどそういう訳かと合点したのだ。  飯田によると、佐賀の身辺を調査しているうちに匿名のSNSや掲示板などに、そのような思想をほのめかす書き込みを行った形跡があるとのこと。  本音とは限らない。真相は分からない。  飯田が固い声でこう忠告した。 「今後、佐賀部長が何を言ったとしても、社長が本気で反論する必要など全くありません。ただ、気をつけてください。もちろん彼は、我が社の取締役ですから、社長に危害を加えることは考えにくい。しかし、彼の言動のベースにあるのは、歪んだ差別意識である可能性も否定できないので」  自分の部下に、自分の性を忌んでいる可能性のある人間がいる。  様々な思想を持つ人が一つの会社で働くというのは、今の時代に必要なことではある。しかし、森生メディカルはオメガ性の人々が自身の性に捕らわれることなく有意義な人生を送るために、フェロモン抑制剤の開発と販売に力を注いでいる医薬デバイス総合企業だ。さらに今後は、フェロモン誘発剤の開発を進めており、アルファ・オメガ領域でプレゼンスを確立すべく大きく舵を切っている。  そのような意味では、森生メディカルの経営幹部にオメガレイシストがいるのは許されることではない。  一歩間違えばスキャンダルだ。末端の社員や生活習慣病治療薬を販売する東邦製薬の社長と同列に語ることなどできるはずがない。  潤は堅い声で断じた。 「飯田さん、その情報の真偽、急いで確認してください。それが本当ならば、彼を今の地位に置いていくわけにはいかない」  そして、飯田も短く応じたのだった。  潤はため息をついた。  突然飯田からもたらされた情報であったが、おそらく冷静に対処できたと思っている。  これが少し前だったら。オメガ性を完全に受け入れられていない状態の自分であったならば、とっさに拒絶反応が出てしまっていたかも知れない。  一応江上に話しておいたほうがいいかと思ったが、彼は明日の午後から休暇に入る予定だ。おそらく年内には決着する話だろう。余計な心配をさせるのも気が引けた。  潤は気分を変えようと思い、視線を目の前のクリスマスツリーに戻して、江上に話しかける。 「ところで、明日からの休み。どこに旅行するの?」 「旅行?」    潤の唐突な質問に、江上が不思議そうに反復する。  江上は、取締役会が終わった明日の午後から仕事納めまでの数日間、有休を取得すると聞いている。聞けば携帯の電波も繋がらないような場所に旅行するらしく、しばらくは連絡が取れないということなのだ。 「だって、携帯が繋がらないって話だからさ」  海外旅行だろ、今時どんな秘境に行くんだよ、と潤がからかうと、江上がああ、と眼鏡の向こうで表情を緩めた。   「違います。携帯が繋がらない所にいるだけで国内に居ますよ。連絡が取りにくいというだけです」  そうなのかと合点するも、江上自身はそれで収まらない。誰です、そんな適当なことを社長に報告したのは、と逆に鋭い追求を受ける。  実は秘書課の女性社員から雑談混じりで聞いた話だった。江上の部下であるため、正直に言ってしまうと彼女に非が及ぶかもしれない。自分の勘違いだと潤は弁解した。 「私がいなくとも、フォローはきちんと課員に頼んであります。それに明日の正念場の取締役会が終われば、その後は年末の残務処理だと思いますので。サボらすにお願いしますよ」  潤は苦笑する。 「まったく、敵わないね……」  江上も表情を和らげた。 「年末の忙しいときにすみません」 「いいよ。僕が取締役になって以降、ずっと頼りっぱなしだったしね。携帯からも解放されてリフレッシュしてよ」 「ありがとうございます」  二人で並んで、暫くクリスマスマーケットのイルミネーションを眺める。その光景が少し滑稽に思えて、潤が口を開いた。 「これって、僕たち二人で見るものじゃないね。恋人とか……番とかで見に来るもんだ」  照れくさくなって、潤はそう呟く。隣の江上を見ると、彼も少し苦笑していた。  それでも潤は、内心では思う。こういう光景を江上と見ることができて幸せだったかもしれない。今後の自分達の関係性に発展があるかというと、臆病な自分であるために皆無なのだろうが、それでも、思い出みたいなものを作れて良かったと思う。  ここしばらく、潤は仕事の現場を離れて江上と行動を共にすることが少なかった。というのも、潤が江上を遠ざけていた面がある。  横浜で攫われかけたところを江上に助けられ、不覚にも恋心を自覚してしまった。あの日以降、潤は意識して自分の気持ちに蓋をし、江上を意識して遠ざけていた。  もちろん、新薬の発売や通院、取締役会に向けての対応などで忙しかったこともあるが、それに便乗する形で意識的に避けていた部分がある。  それを彼自身も敏感に察していて、それとなく聞かれたこともあった。 「今は抑制剤の他に誘発剤も飲んでるから、正直アルファの香りがしんどい」  潤は江上に嘘のなかに少し本音を織り交ぜて弁解した。それには江上もすっかり納得した様子だった。 「ならば、年末の治療が完了すれば、通常に戻っても問題はありませんね」  そう言って、ここぞとばかりに自分の仕事を片付けることに専念していたようだった。  ただ潤の胸の中には一抹の不安が残ってる。  年が明けたからといって、この気持ちがリセットされるわけではない。  年が明けて、この関係性がどう変容しているのだろうか。少し怖いと思っている。 「……潤」  唐突に、横に立つ江上が潤を名前で呼んだ。 「廉?」  潤が江上を見上げる。江上は、潤を見ておらず、正面を見ていた。 「何?」  潤がそう聞くと、江上は我に帰ったように潤を見た。 「え、いえ」 「いきなり潤って呼んだから驚いた」  すると江上は全くの無意識だったらしく、少し慌てる。口調も砕けたままだった。 「ごめん。無意識だった」 「廉らしくないね」  ただ、こういうふうにプライベートでは「潤」と呼ばれるのは、悪くはない。昔みたいで、嬉しい。  すると、江上は再び、「潤」と語りかけた。 「今度はなに?」  潤が苦笑気味に再び江上を見上げる。  すると、思った以上に優しい視線に掴まれた。    「年末、仕事納めの後、入院だよな?」  その言葉に潤も言葉なく頷いた。 「がんばれよ」  シンプルな激励の言葉だった。  潤は思わず、視線を逸らした。 「颯真もいるし、大丈夫。……廉」 「ん?」  不意に確かめたくなった。 「僕たち、友達だよね?」  江上が目を丸くして潤を見返す。 「何、今更言ってるの?」  本当に驚いている様子だ。 「俺の中では、潤は上司より前に大事な親友だよ」  江上が潤の首に肩を回してきた。江上の香りにやはり焦るが、温かい。少し江上と距離を取ったことで、気持ちは落ち着いてきたのかもしれないと潤は感じた。  親友。その言葉は潤にとって、悲しさよりわずかに嬉しさが勝る。胸の辺りに感じるわずかな痛みは些細なものだ。  多分、大丈夫と思った。僕たちの間には番よりも最適な関係性がある。 「潤が退院したら、快気祝いをしような」  江上の言葉に、潤は頷いた。 「そうだね。颯真も入れて三人で」  そう、僕たちは友達でいいのだと、改めて思った。  翌朝。  十二月二十四日の朝。潤はいつもの通り、朝七時半に出勤した。冬至も過ぎて、朝は特段に冷え込んでいる。  この時期は防寒の意味もあってフランネル素材の柔らかい色合いのスリーピースを好んで着ているが、今日は気合いを入れるためにもウールのツイル素材を選んだ。ネイビーのパリっとした印象の一着だ。おろしたての白いワイシャツにスーツと同色のネクタイを合わせると背筋も伸びる。服装で気分を変えて気合いを入れるというのは、手軽でいいと潤は思っている。  今日は朝十時から、おなじフロアにある役員会議室で取締役会が開催される。  そのため、朝九時にはこの役員専用フロアは、慌ただしくなる。いつもは階下にいたり、相模原の工場や研究所にいる取締役もここ品川本社に集結するためだ。秘書課や経営企画室に所属する社員も慌ただしく動き回っているのが、ドアの向こうからも分かった。  取締役会が開かれるのは午前。その後、午後には潤が持ち株会社である森生ホールディングスに出向き、潤の母親であるホールディングスのCEOに直接報告する予定になっている。結局、一日をこの取締役会の案件で潰されることになるが、今年の仕事の山場だ。どんなに根回しをしていても、本番の取締役会で議決されなければなんの意味もない。  潤は落ち着かない気持ちでメールを裁いていた。今かと待ちわびているのは、飯田の到着だった。  飯田からは取締役会開催の一時間程前に、ようやく書類が揃ったため向かうと連絡が入った。ぎりぎりのタイミングでようやく間に合ったと、潤はもちろん江上も安堵した。  これで今日の議題に緊急案件として佐賀の取締役解任を提議できる。  潤は安堵して、ジャケットを脱いでデスクに置いた。  しばらくの間、チェアに身体を預けて天井を仰ぐ。長かったと思う。もし、佐賀の証拠を見つけることができなくても、取締役会の承認条件を引き下げれば、それで済む。色々と言われるだろうけど、おそらく組織を変えることで、研究開発のスピードは格段に早まるだろうから、批判も一時的なもので済むとは思っている。  ただ、ここで佐賀をどうにかしておかないと、今後に禍根を残す気がしている。  するとコンコンとドアをノックする音。もう九時半近い。飯田に違いないと、潤は席を立ち上がり、出迎えるためにドアに向かった。 「飯田さん、朝からお疲れさまです」  そう言ってドアノブを回したとたん、潤は外からの衝撃に身体のバランスを崩した。 「……飯田社長でなく、申し訳ありませんね」  潤は固まった。 「佐賀さん……」  社長室に入り込み、後ろ手にドアを閉めたのは佐賀だった。  潤は息を呑んだ。

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