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 目の前にいる佐賀の存在を、一瞬潤は信じられなかったが、辛うじて自分を建て直す。 「……これは失礼しました。佐賀部長、おはようございます」  潤は平静を装いながらも必死に考えた。相手はなにを考えているのか分からない。できるなら二人きりになるのは避けたい。  とはいっても、佐賀は未だこの会社の取締役であり潤の部下である。立場上、無下にもできない。  潤は佐賀から距離を取る。  佐賀も、睨めるように潤を見た。  無言の探り合いとも、はたまた張り詰めた緊張感とも取れる、奇妙な沈黙が舞い降りた。  今、ドアの目の前に立つのは佐賀。  出入り口はここだけ。  潤は考える。  ならば、ここはチャンスと考えよう。佐賀の真意を暴くことができれば、今日の取締役会の山場は半分以上越えたことになる。  そんな欲が潤のなかで大きくなった。  手元のスマホを素早く操作し、密かに通話を江上に繋げて、デスクの上にさりげなく置いた。  室内のやりとりを流しておけば、状況はそのまま伝わるし、証拠にもなり、いざというときには助けに来てくれる違いない。   「で、佐賀部長。用件はなんでしょう」  潤は努めて冷静に問う。 「これから取締役会ですから手短にお願いします」  そう先制を加えると、佐賀は腕を組んだ。 「……証拠は掴めましたか?」 「……」 「私を取締役から解任できるほどの明確な証拠は」  潤は応えない。佐賀は言葉を重ねた。 「いや、あなた方のことですからきっと掴んだのでしょう。私もこの会社ではもう終わりですか。先々代の、あなたお祖父様が社長の代に入社して二十年。私なりにこの会社で奮闘してきましたが、まさかこのような形でこの職を失うことになるとはね……」  そう言って腕を組んで指を顎に当てる。  二十年前というと、あなたはおいくつでしたか。そんな長い期間、わたしはこの会社に尽くしてきたのです、と佐賀は言い放った。  佐賀は何をしにここに来たのか、潤は奇妙に思うが、黙っていても始まらない。話題をどこに持っていかれるのか分からないが、その言葉に乗ってみることにした。 「ならば、なぜ危険な道を選んだのです」  潤が問う。  佐賀が僅かに目を細めた。 「許せなかったのですよ。私が入社した頃はまだ真っ当な会社でした。それが、国産初のフェロモン抑制剤を発売し、当時学会が設立されてトレンドになっていたアルファ・オメガ領域に大きく舵を取った。先々代の時代ですね。  しかし、オメガのフェロモン抑制剤もアルファのヒート抑制剤も、治療薬ではない。単なる金儲けと一緒だ。アルファを抱き込むことで、医学界はこの領域に潤沢な研究資金を投入することに成功した。我が社もその流行に躊躇いなく乗りましたが、医薬デバイス総合企業を名乗る我が社がやることではありません」  アルファ・オメガ領域はここ三十年程で学問として認知された比較的新しい分野だ。  それまで多くのベータと、フェロモンに大きく左右されるオメガとアルファの間に差があるなど考えられてもいなかった。しかし、アルファとオメガはベータとは違うという発想が広まるに従い、医療関係者で注目を浴び始めたのが性差医療。佐賀が森生メディカルに入社した頃の話だ。大学病院でもオメガ科が診療科として設置されはじめ、それがアルファ・オメガ科に発展した。それと前後して「アルファ・オメガ学会」という学術団体も作られ、一つの潮流となった。  ……というのが、よく言われる表向きの話。  実際は、巷に出回る質の悪い抑制剤により多くのオメガが被害を受け、それを重くみた国が、抑制剤を健康保険の一環に加えたことが、この領域が広がった本当のきっかけだ。  この出来事は、保険制度を定める厚生省の審議会の当時の委員の中に粗悪なフェロモン抑制剤を掴まされ被害にあったオメガを番に持つアルファがおり、問題が顕在化し一気に進展したという裏話がある。  フェロモン抑制剤が保険制度の中に組み込まれるということは、その一連の医療行為が保険でカバーされ、医療現場で広く使われるようになることを意味する。フェロモン抑制剤に限定して言えば、薬局で売られている一般薬とは桁違いに大きな市場規模に成長するので、製薬企業にとってはビジネスチャンスだ。莫大な研究開発費を投じて医薬品を開発し発売しても、それを回収できなければ意味は無い。抑制剤が保険適用になるという事実は、製薬業界からすると、研究開発費の回収の目処が立つ、参入しやすい領域の薬剤になったということ。さらに言えば、この領域は番を持つアルファの関心も高く、研究資金を集めることも容易い。それが性差医療を進めたいという医療側の表向きのニーズとうまく合致した。  この国のアルファ・オメガ領域の医療の発展のきっかけは、ヒトとモノとカネの関係が巧く嵌まったことにより、一つの流れを作り出したこと。  森生メディカルはその波に巧妙に乗ったにすぎない。  それを製薬企業としてプライドがないと断じるか、柔軟性があったからこそ生き残ったのだと評価するかは、人によるだろう。  少なくとも潤は、先代社長と先々代の社長の、その決断を大いに評価している。製薬会社の存在意義は、継続して有益な新薬を出し続け医療に貢献することで、企業としても成長するところにあるからだ。   「あなたは会社の方針にずっと不満を抱いてきたということですか」 「自分が所属する会社が間違っていたら、それを軌道修正したいと思うものでしょう。しかしサラリーマンですから、そのためには発言力が必要です。だから私は上を目指してきました」  そして佐賀は、潤を見た。 「先代の茗子社長は仕方が無い。オメガですが実績もあり会社を大きく発展させました」  ところがあなたはどうだ、と佐賀の視線が厳しくなる。 「私が苦労して苦労してようやく辿り着いた取締役というポジションに、同じタイミングであなたも就きました」  そうだった。自分が海外勤務を終えて帰国したタイミングで、佐賀と潤が取締役に昇格したのであった。 「しかし、あなたは取締役など腰掛けと言わんばかりにすっと社長に就任してしまった……」  潤はようやく理解する。  佐賀は不満に思うのは、実績もないにも関わらず、ぽんと自分を追い抜きのほほんと社長職に留まる「オメガである」自分なのだと。  そして、アルファ・オメガ領域が発展した負の部分ばかりに気を取られ、歪んだ正義感に目が濁ってしまったことで、先々代の英断を未だに受け入れられない。 「だから、あなたは東邦製薬に内通したと」 「人聞きの悪い。でも、東邦製薬の大路社長はとても分かりやすい方でいいですよ。わたしの不満ももどかしさもよく理解してくださる」  佐賀の目が少しおかしい。  潤の直感が嫌な警告を放っている。    思わず潤はスマホに向かって叫ぶ。 「江上!」  佐賀が驚いたように辺りを見回す。 「もしかして……」 「もちろん、この会話は秘書室に繋いでましたよ。わたしがあなたと話すのに丸腰であるはずがないでしょう。佐賀さん、そろそろ終わりにしましょう」  潤がそう言うと、佐賀の目が据わった。  少しやばいかと、身の危険をわずかに感じた。  潤は間合いを取りながら、ドアに向かう。  しかし、佐賀がすばやく後ろ手に鍵をかけたのを潤は見た。社長室のドアに鍵があることを、すっかり失念していた。これまで全く使ったことがなかったからだ。 「社長!」  ドアの向こう側からどんどんと扉を叩く音がする。おそらく、江上と警備員だ。がちゃがちゃとドアノブのレバーハンドルが動いており、向こうも鍵を掛けられたことは分かったようだ。尋常ではない事態に、外がざわついているのがわかる。  手っ取り早いのは、助けを待つより自分がドアまで辿り着き脱出すること。しかし、それを分かっているから、佐賀が動かない。 「佐賀さん、もう止めましょう。こんなことをしてもどうにもならない」  無駄と分かりつつも説得を試みる。しかし、彼が抱える不満の一部は自分にもあるのだから、安易な言葉で説得を試みても成功するはずなどない。 「こんなこと……私がなぜ、ここに来たのか分かりもしないくせに、そのようなことを良く言うことができますね」  潤が、佐賀に少しずつ近づき、間合いを詰める。しかし、佐賀はドアの近くから動くことはない。 「マスターキーを警備室から持ってきてください!」  ドアの外から江上の叫び声がした。  思わず佐賀が扉の向こうを見やった。  潤はその隙を見逃さず、ドアの前に駆け寄る。手を伸ばして、ドアノブにもう少し。  潤が、佐賀に背を向け手を伸ばした時。  右腕に大きな衝撃を受けた。  続いて、とっさに腕を引いてしまうような、強烈で暴力的な痛みに襲われた。 「あっ……つう!」  驚きと衝撃がうめき声になって口から漏れる。  一瞬何が起こったのか、潤には分からなかった。  思わず腕に視線を移すと、二の腕に刺さっていたのは注射器。針がずっぽりと腕に刺さっている。驚いて思わず手で抜き取り、床に払い落とす。  佐賀を見ると、驚いたことにもう一本、同じようなものを持っていた。  刺された箇所がじんじんと痛い。何をやられたのか分からない。潤は左手で右腕を庇う。    そのまま、後ずさる。佐賀と距離を取りたい。しかし、今後は佐賀が潤に近づき腕を掴んだ。 「社長!」  室内の尋常ではない空気が漏れているのだろう。江上の叫び声にドアが激しく叩かれる音が聞こえる。  そのドアの中では、潤と佐賀がもみ合っていた。とっさにやられると思った潤は、防衛本能で佐賀を排除しようとしていたが、佐賀がドアに潤を押さえつけ、さらに、腕を掴んでそのまま床に押し倒す。  馬乗りになって、再び潤の大腿に注射剤を突き立てた。 「いやっ……!」  見上げれば佐賀が、ひどく残酷な笑みを浮かべている。そして潤の脚に突き刺した注射器の中身の薬液をぐっと注入した。 「うぁあああ!」  あまりの痛みに喉の奥から悲鳴が上がる。    ショックで、その後のことは潤自身もよく覚えていない。でたらめに身体をばたつかせ、馬乗りの佐賀を追い払った。  その直後、ドアががちゃがちゃと音を立てる。  そして扉が開いた。  思わず潤は出入り口を見上げる。  待ちに待った助けだ。  開かれたドアから真っ先に入ってきた江上を、眩しい気持ちで見上げた。思わず手を伸ばす。 「社長!」  江上の悲鳴に近い叫びが室内に響く。江上と同時になだれ込んできたふたりの警備員が素早く佐賀の身柄を確保した。  江上が潤を抱きよせる。近くに転がっていた二本の空の注射剤が目に留まったらしい。  その顔色が変わる。 「何を……」  言葉を失った秘書に、潤は力なく呟く。 「なんか……薬のようなものを…打たれた」  そのまま江上はつかつかと佐賀に近寄り、胸ぐらを掴んだ。 「社長に……潤に! 何をした!」    佐賀が小さく笑った。 「もう取締役会は無理だろ。それはグランスだ」  グランス。  潤だけでない、江上も息を呑んだ。  メルト製薬のフェロモン誘発剤。  どうしよう……。  潤は思わずその場にへたり込む。  自分はオメガだ。グランスを打たれてしまえば、否応なく発情期が来る。この薬剤に中和剤はない……。  呆然としていた。    それは潤にとって、想定外の事態だった。  これまで、少しずつ、これから確実に経験する発情期に向けて覚悟を固めてきたはずだった。  しかし、こんなことになって、どうしようもなく動揺している自分がいた。  どうしよう。  怖い……。  気が付けば、自分で自分の身を抱き寄せていた。寒くもないのに、腕が震えている。  何も言葉が出てこなかった。 「これで取締役会は中止だ」  佐賀は警備員に背後で腕を掴まれながら、鼻で笑った。 「おい……!」  江上が怒りのままに佐賀の胸ぐらを再び掴む。  佐賀は小さな笑いを浮かべていた。  しかしその表情を見て、潤はなぜかすっと気持ちが引いた感覚がした。肝が据わったとでも言うのか、周りの風景が突如見えたのだ。  自分はこんな人間の思い通りになるわけにはいかない。  潤はゆっくり立ち上がり、己を検分する。  腕と脚を動かす。注射器を刺された部分は痛いが、歩けないほどではないし、どうにもならないという訳でもな。  今発情症状があるかというと、ない。まだ、薬剤の効果が全身に行き渡っていないからだ。    先日の颯真の言葉が脳裏に蘇る。 「朝、入院の準備をしてきて貰って、診察。で、そのまま誘発剤を投与しようと思う。で、ここの処置室で休んで貰って……それでも昼過ぎには発情症状が出てくるから……」  今朝、颯真の処方に従い、グランスの錠剤を服用した。それに加えての先程の注射剤二本だ。確実に過剰投与状態になっているはず。でも、本格的な発情症状が出てくるには猶予があるはずだ。  ならば、自分には成すべき事がある。 「江上!」  潤が秘書を呼ぶ。その声に迷いはなかった。  警備員が佐賀を連れて行くのを見届けていた江上が潤の元にやってくる。 「大丈夫ですか?」  立ち上がっていた潤を江上が気遣う。 「颯真から抑制剤を預かっていただろう」  潤が江上を見る。江上が驚いた表情を見せる。 「それを出せ」  潤が手を出すと、江上が顔色を変えて首を横に振る。 「ダメです。尋常ではない量を投与されたんですよ。すぐに颯真さんのところに行きましょう」  江上が潤を介抱しようと腕を伸ばしたが、潤はそれをはねのけた。 「馬鹿言うな。これから取締役会だ」 「無理です」  江上の決めつけに、潤は苛ついた声を出す。 「無理じゃない。大丈夫だ。だから抑制剤を出せと言っている」  潤が江上を睨み上げる。  それを見た江上が息を飲み、何も言わずに懐から錠剤を取り出した。  潤はそれを受け取る。さらに自分が持っていたものも取り出して、二錠を纏めて包装を剥いて口に入れる。奥歯でガリガリと咬み砕いた。予想以上に苦い味が口腔内に広がり、僅かに眉間にしわが寄る。こんな苦いなら早く効いて欲しい。まだ発情症状は出ていないから、少しでも時間稼ぎになればいいだけなのだから。    潤はそのままスリーピースのジャケットを羽織る。 「大丈夫。取締役会をすぐに片付ける。それまで症状が出てこなければいいだけだ」  待っててくれと江上を見る。  江上も潤の覚悟を完全に理解したようだ。 「わかりました。少し早いですが、準備は整っています。非常事態です。すぐに開催できるように手筈を整えましょう。すぐ済むので、ここで少しだけ休んで待っててください」  江上が潤をチェアに誘導する。  取締役会は招集者の出席が必須だ。だから、佐賀は自分に害をなすような手段に出たのだろうと潤は思った。ならば、今ここで引き下がるわけにはいかない。  今日の議題は二つ。  佐賀の取締役解任の件について。そして、組織改編の件について。  この状況下で勝算は十分だ。  あとは、本格的な発情症状がどのタイミングで出てきてしまうか。せめて、会議が終わるまでは持って欲しい。  取締役会メンバーの中にはアルファもいる。洒落にならない事態になりかねない。  潤がチェアに座って、天井を仰いでいると、江上と飯田がやってきた。飯田もすでに江上から話を聞いている様子で、表情が硬い。 「社長、遅くなって申し訳ありません」  飯田の謝罪に、潤は笑みを浮かべて首を横に振る。 「大丈夫。問題ないです。僕にも意地がありますから。さっさと片付けましょう」  気合いでチェアから立ち上がった。少し症状が現れてきたような気もするが、大丈夫問題はないと自分に言い聞かせた。  江上が潤の耳元で囁く。 「地下駐車場にレクサスを手配しました。取締役会が終了次第、颯真さんのところに向かいましょう。連絡を入れておきます」  相変わらずの的確な判断。  潤は、江上の肩に手を乗せる。僅かに心配そうな表情を見せる秘書に向かって、頷いてみせた。 「そんな顔をするな。僕は大丈夫だよ。行ってくる」  

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