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 有料道路は比較的スムーズに流れていたようで、レクサスはさほど時間が掛からずみなとみらいの誠心医科大学横浜病院の救急受付のエントランスに横付けされた。  潤は毛布に包まり、江上に抱き寄せられていたため、後部座席のドアが開かれて、冷たい空気に触れて初めて到着したということに気が付いた。  目を開けると、ドアの外に白衣姿の颯真の姿を見つけて、訳もなく安堵する。 「大丈夫か」  颯真は車内に充満する潤の香りに驚いたように、わずかに息を詰めた。  まず外に出たのは江上。  颯真が江上を抱き寄せた。かなり消耗していて、ぐったりしている。 「立てるか」  颯真の問いかけに江上はうん、と頷く。 「平気……立てる」  そして颯真の腕が潤に伸びてきた。すでに一人で立つことができないため、颯真に引きずり出されるように、潤はレクサスの後部座席から這い出た。 「よく頑張ったな」  毛布ごと潤を抱き寄せて颯真が背中をさする。潤もその手の動きに安堵し、本音が漏れる。 「うん……しんどい」 「そうだな」  颯真は車椅子を用意していたが、わずかな振動も刺激になって辛いため、颯真が背負って処置室に直行することになった。  救急外来の受付を素通りし、そのまま処置室へ。  いつも平日の昼間は外来患者で混雑しているであろうアルファ・オメガ科の待合室は人気が少なかった。それを疑問に思う程の思考は、今の潤には残されていなかった。  処置室には、看護師が一人待機していた。ベッドに横になると、そのまま袖をめくられ手際よく採血され、続いて服を寛げられて颯真に診察される。  これまで気が付かなかったが、佐賀に注射器を打たれた左肩と右の大腿部分が出血し赤く腫れ上がっていた。颯真によると、一気に薬液を投与し、そのまま放置してしまったことで、成分がスムーズに体内に吸収されずに残っているのではないかということだった。  その部分の手当を受けていると、なぜか先程までの発情の波が静かに引いてきているのを潤は感じていた。少なくとも、ワイシャツのみで、ベストとインナー、スラックスをはぎ取られ、胸から脚の付け根あたりまでをタオルで覆っただけで颯真の前に横になっている事実に、羞恥心を抱くほどには、頭が冷静になってきた。   「少しクリアになってきたか?」  目つきが落ち着いて来たのだろう。そう颯真に問われて潤は頷く。先程まででたらめに感じていた、むずむずとした衝動は今のところない。 「誘発剤の後に飲んだ抑制剤が今頃になって聞いてきたんだろうな。でも、中途半端な効き方だから。すぐもとに戻ると思うぞ」  颯真の診断は容赦が無い。ただ今のうちに診断と治療に必要な情報を引き出そうと思っている様子だ。 「誘発剤。どのくらいの量を打たれたのか、わかるか?」  かなりの量を打たれたという自覚はある。ただ、どの程度の容量の注射器だったのかと言われると、覚えてはいない。とっさのことで記憶は曖昧だ。  それを伝えると、颯真が処置室に江上を入れていいかと問うてきた。今ならば先程のようなでたらめな発情は来ない気がする。潤は頷いた。  室内に招き入れられた江上は、先程に比べるとかなり落ち着いたようで、いつもと変わらない様子に見えた。ベッドに横になったまま視線がかち合い、江上は少し安堵するような表情を浮かべた。  江上も潤と佐賀のやりとりを、直接その場で聞いていたわけではない。彼が社長室に踏みこんできた時には、すでに潤は誘発剤を投与されてしまった後で、床に注射器が転がっていただけだった。  その注射器は警察に佐賀の身柄と共に証拠として提出するため、手元にはない。しかし、江上は密閉袋に入れられたその注射器の画像を自分のスマホに記録として収めていた。  江上からスマホを受け取り、その画像を拡大して確認した颯真は、表情がわずかに曇る。  その反応に、思った以上に容量の大きいシリンジが使われていたようだと潤は察した。 「どのくらい入っていたかによるけど、そもそも二本となると、かなりの量になるな」  しかも、朝方に潤は颯真の処方に従って抑制剤よりも多い量の誘発剤を服用していた。そして取締役会直前にはだめ押しのように抑制剤を二錠飲んだ。 「薬剤で発情を抑えるのは難しいかもなあ」  颯真の呟きに、やっぱりと思う……。この状況下では素人の潤でさえそう思う。 「これ以上薬を入れると、副作用の方が強く出てくるよ」  颯真が潤の視線まで、腰を落とす。 「少し辛い発情期になるかもな」  想像どおりの回答で、潤も覚悟を決めるしかない。 「最初の辛い時期を越えて、薬が抜けていけばコントロールも出来ると思う。本来ならその時期を一晩くらいと考えていたんだんけど、話を聞く限り、どの程度の波がどのくらいの期間来るのか、今のところは明言できない」    ごめんな、と颯真が謝るが、自分のミスで打たれたことに違いは無い。潤は首を横に振る。 「僕の責任だし。大丈夫じゃないけど……仕方ない」  潤、と颯真は呼びかける。 「今より楽に発情期を越える方法はある」  少し躊躇いがちに颯真は潤を見つめた。 「楽な方法……?」  楽、という言葉に思わず飛びつきたくなる自分がいる。潤は颯真を見上げる。 「なに……?」 「それは、アルファに抱いて貰うことだ」  それは無理だ。安易に乗ろうとしてしまったことが滑稽に思えてくる。自分に限っては簡単な方法ではない。  潤は思わずふうっと息を吐いた。 「……それが出来たらこんな苦労はしてないよ……颯真」  潤の返事に、颯真もそうだな、と頷いた。 「選択肢は抑制剤だけじゃない。できるかぎりサポートはするから」  その兄の言葉は、本当に心強い。 「うん…。お願い。全部颯真に任せるよ…」  颯真は腕を組んで右手を頬に当てる。 「さて。潤に相手がいないとなると、どこでその発情期を越えるかというのが問題になるな」  それはこの病院の特別室では……ととっさに思い、日にちに愕然とする。今日は十二月二十四日。颯真が特別室の入院予約をしたのは二十八日だ。 「…今日は……?」  颯真は首を横に振る。 「残念ながらうちの特別室は塞がってる。近隣でアルファ・オメガ科がある病院にも、誠心医大の本院にも問い合わせたんだけど、どこも空いていない」  もともとアルファ・オメガという診療科自体が大規模な医療機関でないと開設されていない。  一般病棟ではたとえ個室であっても中から鍵をかけることはできないため、オメガが発情期を過ごすには不安が残る。  では、どこでこの発情期を越えればいいのか。潤も不安になってきた。 「うちに帰ろう」  自宅マンションに帰ろうと颯真は言うのだ。たしかに、鍵の管理がしっかりしていて内鍵が掛けられる防音設備が整った、医療機関のアルファ・オメガ科の特別室以外で、安心して発情期を越える場所となると、自宅が第一候補になる。 「その方がお前も落ち着くと思さうし。大丈夫、俺も一緒に帰るし、ずっと付き添ってやれる」  病院でなくてもちゃんと面倒を見てくれるらしい。颯真が兄で本当によかったと潤は思う。  これからどのような症状が出てくるのか潤には想像がつかない。それを自宅で一人で乗り越えなければならないのなら大いに不安だが、颯真がいてくれるなら大丈夫な気がする。  おそらく、颯真のことだから八方手を尽くした結果の結論なのだろう。拒絶しても何も変わらなさそうだ。 「……うん。颯真がいてくれるなら」  聞き分けの良い弟になっておこうと思う。  颯真は困ったような表情で笑みを浮かべる。 「俺としては、発情期をトラウマにしてほしくないんだけどな」  そんな兄の言葉に潤は驚く。 「そんなこと考えてたの?」 「心配してるからな、これでも」  颯真のそんな気持がくすぐったい。 「トラウマにしないように、頑張るよ…」  そこに颯真のPCに先程の採血結果が送られてきたらしい。颯真と江上がそれを覗き込む。 「かなり血中濃度が高いな。しばらくはモニターしたほうがいいか」  颯真が呟いた時だった。先程、車内で襲われたような、でたらめな衝動の感覚が、不意に潤を飲み込む。 「んっ……!」  それに耐えるために潤はタオルを抱き込んで身体を捩った。 「きたか」  身を翻して潤の元に近寄ってきた颯真に、潤は頷いたつもりではあった。取締役会の前に飲んだ抑制剤の効果が切れたらしい。あんなに苦い思いをしても効果は一瞬だったなと思う。  もう話す余裕は潤にはなかった。  体温が急激に上がり、身体がぞわぞわと総毛立つ。大きく呼吸をしたいけど、辛くてそれもなかなか叶わない。  看護師が急いで掛けてくれた毛布を、潤は握る。  何かに縋っていないと、飲み込まれてしまいそうで怖い。  横を向いて身体を丸める。急激に香りが漂い、本格的な症状が現れ始める。  下腹部の奥がじんじんと何かに刺激され、それが快感となって、背筋を駆け上がる。何か身体が急激に変化しているのがわかる。  じわりと快感が身体に広がっていて、身体の敏感な箇所はビクビクと刺激を拾っていた。もうすでに下着の中の潤の性器は硬くなりつつあるし、アルファの精を受け止める器官に変化するというアナルは、下着のなかで水分を含んだ何かが分泌されていて、例えようのない違和感がある。  アルファを求める身体に変化しているのが、潤にもわかった。    アルファ。  不意に先程の颯真の言葉が壊れかけた脳裏に蘇る。  アルファに抱いて貰う。  その言葉を、条件反射のように潤は否定する。  抱いてくれるアルファなんていない。  自分が置かれた状況を目の当たりにして、潤は絶望にうちひしがれる。  プルルルル……。  不意に颯真の白衣の中からけたたましい電子音がした。  それは首から提げられた医療用携帯の呼び出し音。  颯真がちらりと見て通話元を確認し、少し止まってから携帯電話を耳に当てた。   「はい森生です」  こちらに背を向けて、颯真が携帯に応じていた。  白い背中を向けられたとたん、潤の中に胸が締め付けられるような心細い気持ちが広がる。 「大丈夫か」  不意に手を握られて驚く。辿った視線の先は江上だった。 「廉……」  オメガとしての本能が、思わず口にした本音だった。江上の手を握り返し、潤は江上を見上げる。 「僕を……抱いて?」  こんなにしんどいとは思わなかった。  いや。  こんなに自分が弱いとは思わなかった。  そして、これがラストチャンスかもと思った。 「……潤」  戸惑う江上の声。発情で半分以上使い物にならない脳でも、こういうときは敏感に読み取ってしまう。  とっさに潤は後悔した。  自分は、親友になんてことを言ったのだろう。 「ごめ……」  ショックのあまり声が詰まる。自分自身に呆れるような一言だ。 「わすれ……っ」  再び腰の奥から刺激が加わり、潤は喘ぐ。なんでもいいから、今の一言を撤回させてほしい。  通話を終えた颯真がこちらを振り返る。 「彼が発情期に入った。計画通りだ」  江上が息を飲んだのを潤は見た。ごくりと喉が動いた。  彼とは誰だ。潤は、おぼつかなくなった頭で思う。   「確診ついたから特別室に移すそうだ。行ってやれ」  特別室? 発情で湧いた頭にはスムーズに入ってこない。それでも、ワンテンポ遅れてから事情を察する。  誰が特別室に? オメガが発情期を超える場所に、江上がなんの用があるというのだ。  しかし江上は潤の手を離し、颯真に向き直る。先程の潤の言葉など忘れたように。 「わかった。お前は潤に付いてやるんだろ」 「ああ。あとは同僚に任せてる。本院からもわんさか来てるから、俺がいなくても問題ないだろ」 「そう言って、手柄横取りされるぞ」  江上の軽口に颯真は口角を上げる。 「そんなヘマするかよ」  江上が潤を見る。 「潤を、頼んだから」 「わかってる」  もう潤は言葉が出てこなかった。  なぜ江上が特別室にいるオメガに用事があるのか判らないが、もう彼の興味が自分に向いていないと、潤には嫌でも判った。  発情期は気持を乱高下させるのか。  急激に一人で発情期を越えることが、潤には怖くなってきた。誰かの腕のなかで前後不覚になるような怖くて恥ずかしい経験をするならば、部屋で一人篭もって自分を慰めるほうがマシだと、ずっと思っていたのに、  違うのだ。  抱いてくれる相手がいないのは、愛してくれている人がいない、ということと同じなのではないかと気がついてしまったのだ。  鼻がつんとして、不意に潤を取り巻く視界が歪んだ。 「なんで泣いてる? 潤?」  颯真の言葉で、はじめて潤は気が付いた。  颯真の問いに応えることもできず、毛布で顔を覆う。  僕には愛してくれる人なんて、いない。ずっとオメガという自分の本当の性を疎んじて、受け入れられなかったからだ。自分が嫌いな人間を好きになってくれる他人なんていないだろう。だから、こんな局面になって、一人で孤独に喘いでいるのだ。  だから、これは自業自得というやつなのだろう……と、潤は思った。 「潤、顔を見せてくれ」  颯真の声に、観念した気持で毛布を外す。  涙に濡れた情けない顔が、アルファの二人に晒されたに違いない。  不意に、こちらを伺う江上と目が合った。  まだ諦めきれない気持の一片が、潤の中で希望として息を吹き返す。  しかし、江上はすぐに颯真に視線を移してしまった。 「俺は行くから」  決別の一言を口にして、江上は身を翻す。  その特別室のオメガに会いに行くのだろう。  発情期のオメガに会って、江上はどうするのだろう……。  潤は、その事実に気がつき、身体の機能が一瞬止まった気がした。  颯真が潤を見下ろしていた。それと目があった。そして颯真も潤から目を逸らした。 「廉、ちゃんと潤の香りを落としてから行けよ。尚紀を怯えさせる」  尚紀。  潤の脳裏に人懐っこい笑顔を見せる弟のような青年が浮かんで、すぐに消えた。

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