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「潤」
抑揚のある、滑らかな女性の声に呼ばれた気がした。
意識が急激に浮上する。
「潤っ」
温かい何かが肩に触れられ、揺すられた気がする。誰だ…。
ぼんやりと瞼を開いて一番最初に眼に入ったのは、ショートカットにボリュームのあるイヤリングを着けた、母親の心配そうな表情だった。
あれ、なんで、と潤は思う。潤の母、森生茗子のまだまだ若々しい顔を、潤もぼんやりと認める。
「…かーさん…?」
潤はどうしてこの人がいるのだと不思議に思う。一方、茗子は正気に戻った息子を、良かったと安堵の吐息を漏らして胸に抱き寄せた。
「もう。この子は。心配したのよ」
茗子の甘い香りがふわりと感じる。香水……ではないだろう。
ここは……と潤は考える。家だ。自分の部屋だ。ここに茗子が来ることはほとんどない。
「……なんで……ここ、に?」
茗子が潤の頬を両手で包む。五十代だったと思うが、まだ艶やかな肌をキープする母親は綺麗なラインの眉尻を少し下げる。
「飯田に聞いたのよ。午後には貴方が来るはずだったのに、彼が来たから」
ああそうかと、言われてみればの事実に思い当たる。母茗子は、オメガながらも経営の手腕を評価され、潤に森生メディカルの社長の座を譲り、持ち株会社である森生ホールディングスのCEOに就任していた。今回の取締役会の結果についても、午後に潤が報告しに行く予定だったが、それが叶わずやむを得ず飯田に託していたのだった。
「飯田に事情を聞いて、居ても立ってもいられなくて」
事業会社の社長自らが持ち株会社に報告する予定だった、会社の今後を左右する重要案件の議決結果を、部下に託した時点で、何かが起こったと悟らせるには十分だと思っていた。ただ、茗子が母親として潤のところにやってくる可能性は、意識からすっかり抜け落ちていた。
「江上と一緒に颯真のところに行ったって聞いたから、仕事を片付けて横浜まで行ったのよ。そしたら自宅に帰ったって聞いて……」
森生ホールディングズが本社を構える大手町から横浜まで車を飛ばし、さらに再び中目黒まで戻ってきたらしい。
「入院するのに、部屋が空いてないって……」
そう言いながら潤は自分がパジャマを着ていることに気がついた。たしか、さっき果てて気を失ったはず……。
そうか、颯真かと悟る。
身体も体液まみれだったにも関わらず、綺麗に後始末がされている感じがするし、シーツも交換されている。
「今は大丈夫なの?」
潤は頷く。先程熱を吐き出して、少し楽になった。
よかった、と茗子は吐息を漏らした。
「誘発剤を打たれたって聞いたわ」
茗子の言葉に潤が頷く。すると茗子が再び潤を抱き寄せた。
「このわたしが佐賀の本性を見抜けなかったなんてね。ごめんね」
確かに茗子が佐賀を取締役に就任させたのだから、その謝罪は間違ったものではないが。
「…違うよ。母さんのせいじゃない……」
そう、佐賀は茗子ではなく、自分のことを疎ましいと思い、あのような行動に出たのだ。
「本当の彼を見抜けなかったのは、僕の責任だ……」
茗子はなんとも言えない表情を浮かべた。
「もう。颯真、潤はどうなの?」
茗子が背後に視線をやる。気がつかなかったが、颯真もいた。
「しばらく、しんどい時期が続くとは思う」
ようやく周りを見る余裕が出てきた。窓の外はすでに暗い。陽が落ちた時刻のようだ。
茗子が潤への抱擁を解く。
「ここに連れ帰ってきたってことは、貴方が責任を持って面倒を見るという意味なのよね」
ああ、と颯真が即答する。
すると茗子は少し考えるように、沈黙した。
「でも、ちょっと心配だわ。潤、せめてうちに帰りましょう。颯真も、その方がいいわ」
茗子は潤と颯真を交互に見る。うち、とはもちろん横浜の実家のことだ。茗子が心配して、実家に戻ってこいというのは理解できる。
ただ、正直、これから実家に戻るために動くのは億劫だ。
「その方が、森生のかかりつけ医の先生にも協力して頂けるし……」
それを聞いて潤はますます憂鬱になる。ここまでくると、颯真以外に診られるのは嫌だ。
そんな潤の本音を颯真も分かっているのかもしれない。
「それはいい」
颯真は即答した。
「颯真……」
母の心配そうな声に繕うように颯真が言い重ねる。
「いや、あのさ、もうここまで発情すると潤も動くのはしんどいと思うし、こいつの身体を本人の次に分かってるのは俺だから……」
「それはその通りだけど。でも、颯真が一人で潤を抱え込む必要はないのよ。負担が重いんじゃないかって思うのよ」
颯真は少し笑う。
「体力と経験には自信あるよ?」
茗子はうなずく。
「わかってる。でもかかりつけ医の先生にも相談して潤をサポートしてあげてほしいのよ」
母の心配も最もだと潤は思う。いつまで続くか分からない発情期を、颯真がすべて面倒を見るというのは、精神的にも体力的にも懸念があろう。
でも、潤が信頼しているのは、昔から身体を診てきてくれたこの片割れだ。
「かあさん……」
潤が遠慮がちに呼びかけると、茗子はすぐに振り返る。
「……潤」
この母親らしくない声に、潤は宥めるように説得する。
「だいじょぶ……。僕には颯真がいるから」
潤の言葉に、結局は茗子も、そうねと頷いた。
「潤の状態はちゃんと説明するから。リビングに行こう」
颯真がそう茗子を促すと、彼女も頷いた。そして潤に言う。
「帰りたくなったら連絡して。迎えにくるから」
息子の治療を息子に託すしかないというのは、母親として心配で仕方が無いのだろうと思う。潤も頷いた。
「……ありがと」
茗子と颯真が部屋を出て行って、室内は間接ライトのみで薄暗い空間になった。枕元のスマホで時間を確認すると夜八時だった。ついでに、先程見ることができなかった飯田からの報告を見ると、森生ホールディングスに報告に行った際の先方の……茗子の驚きようが報告されており、すぐに会いに行くと言っているといったことまで書かれていた。
もともと年末から入院すると話していたから、何がどうしてこうなったと余計に心配を掛けているのだろう。
本当ならば、実家に戻った方がいいのだろうが、この状況で十年以上ブランクのあるかかりつけ医に診てもらうのは嫌だし、移動も面倒だ。
それに、いつまた発情の波がやってきて、先程のようなことになったら……。
ダメだ。ヤバい。ヤバすぎる。
思わず潤は目をぎゅっと閉じて布団のなかで身体をばたつかせた。おそらく、颯真には相当に恥ずかしい姿を見せてしまったのだろうと潤は思う。先程、自分は指を自分の中に入れたまま気を失っていたような気がするからだ。颯真は見慣れていると言ってはいた。しかし、今のこの羞恥心の前では、なんの慰めにもならない。
颯真がフォローしてくれるのは想像がつく。だから、実際どうだったのかを聞くのは恥ずかしくて怖い。
自己嫌悪で真っ黒になりそうだ。
潤は掛け布団のなかに潜り込む。横を向いて両腕で脚を抱えて真っ暗な中で身を潜める。
布団のなかに漂う自分の香り。
オメガの発情期は一人で越えるにはしんどいものであるというのは、なんとなく分かった。
颯真が、初めての発情期を迎える、相手がいないオメガには緊急抑制剤を使うということを話していたが、なるほど納得もできる。でたらめに刺激と快感を求めて、人間としての尊厳を脇に置いてしまうレベルで理性を失うのは怖い。これは十分トラウマになるだろう。
だから、きっとこの期間だけは、どうにもならない劣情を受け止めてくれる存在が必要であるように、身体ができているのだ。
そうだよな、と潤は思う。どうしよう、胸が締め付けられるようだ。
発情期とは、本来であれば幸せな時間なはずなのだ。愛する番……でなくても、最愛の人から、愛されて必要とされて、身も心も満たされて。相手の視界に入るのは自分だけであるという、大切な人を独占できる得がたい貴重な時間。
その期間に、誰もいないというのはぽっかり孔が空いたようで切ない。
今頃、きっと廉は尚紀と……と、ふと魔が差すように考えてしまい、潤は意識に蓋をした。危険な考えだ。二人が無事に番関係になるというのは、自分にとって無条件で喜ばしいことであり、尚紀が幸せになるのは当初から望んでいたこと。
だからこれでいいのだ。
まあそれに比べると、ずいぶん孤独で寂しい発情期だよな、と皮肉交じりに己を省みてしまうのも事実。
「っ……ん…」
思わず鼻から吐息が漏れる。
丸めた身体の奥から、再び、ずん、と重い響きが伝わってきた。下半身に力が篭もる。ズボンの中に手を入れると、自分の意志に関係なく性器が硬くなりつつある。今日も何度目だろうか。腰の奥がぞわぞわと沸き立つような衝動が気配を見せ始めた。
潤は布団から顔を出し、もぞもぞと再びパジャマと下着を脱ぐ。また汚してしまいそうな気がしたからだ。
やんわり屹ち上がる性器を、先程のようにローションで濡らしてやるとすぐに反応してみせた。さっきの快感が記憶にでも残っているのだろうか。同時に、双丘の奥も潤んできているようで、刺激を求めている。潤は布団の中で膝を立てて脚を開き前と後ろの両方に刺激を加える。
「あ……あん……」
そのまま俯せに体勢を変えて、腰を突き出すように膝で身体を支える。
重力に逆らうように立つ性器とずぶずぶと水音を立てる後蕾。枕に顔を当て、ひたすら快感を追う。今は何も考えない方がいい……。
ただ、どうしても思いは過ぎる。
正直、番がいない発情期が、こんなに堪えるものであるとは想像していなかった……。
「あっ……はあ」
もう少し……。右手でベッドサイドからティッシュを数枚抜き取り、自分の性器に当てた。そして、後蕾の、敏感な場所を中指でくりっと刺激を加えた。
「ああ……あっ!」
腰が揺れてしなった。
いとも簡単に立ち上がった性器が白濁を吐き出し、それがティッシュに吸い込まれる。息が上がるのを抑えられずに、潤は枕から顔を上げて、その場所を確認する。
粗相はしていないようだった。吐き出した白濁が含まれたティッシュを丸めると新たにティッシュをあてて、その場所を丁寧に拭う。
後蕾も指を抜いて見ると、オメガ特有の液体が指をぬらぬらと濡らしている。
発情期に自分で慰める行為には快感は伴うが、むなしさが残る。心は満たされず、むしろ辛いのかもしれない。
この満たされなさは、自分が誰かに選んで貰えなかった存在というのを実感するためだろうか。
発情期に受け止めてくれる存在がないというのは、想像以上に切ないものだな。
後蕾も拭うと、まとめてゴミ箱に放り込む。
暑い。身体がじんわりと汗をかいている気がする。
とりあえず身支度は整え、横になって布団から身体を投げ出す。
潤は目を閉じる。
発情期には誰かに抱いて貰って全てを委ねるなんてしたくない、一人で乗り越えられると思っていた。このしんどさは、オメガという性への想像力が欠如し、これまで大切な人を見つけるという努力をしてこなかった自分への報いなのかもしれない。
となると、これと向き合わないといけないんだろうな、と潤は認識する。
しんどいなあ……。廉への気持ちが潰えたタイミングなだけに、誰かに頼ることさえ許さないといわれているようで。
まるで何かの試練みたいに思えてくる。
こうやって自分を慰めて発情を収めなければならないというのは、誰も自分を受け止めてくれないからだ。それは、自分を愛してくれる人がいないから……。
そんな考えに至り、鼻の奥がつんとする。
…どうしよう、涙が出てきそうだ。
自分で自分を慰めるという行為が、今はとても切ない……。
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