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「どう? ちゃんとできた?」
ベッドを覗いた颯真に潤は問われた。
本来ならば、そんなことを問われること自体が恥ずかしくて赤面するのだが、そんな余裕はもう潤には残っていない。
「……今日は何日?」
自宅の部屋に篭もって暫く経った。日付の感覚はもうない。
「二十八日の夕方。で、どうなの?」
潤は、毛布で顔を半分隠したまま、覗き込んできて反応を催促する双子の兄を見上げる。そして、首をわずかに横に振った。
颯真も吐息を漏らした。
「そっか……困ったな」
潤は身を起こし、そのまま颯真に抱きついた。三十路も近い男が、兄弟といえど同じ年の男に甘えているのだが、颯真はそれを抵抗なく受け入れる。
潤が広い胸に抱きつくと、颯真は背中を慰めるように、トントンと叩いてくれた。
「うーん。昨日も言ったけど、精神的なものだと思うんだよな」
「もー…どうしたらいいのかな……」
潤の呟きは、途方に暮れている。
すっきりしたいし、ゆっくり寝たい。
潤はもう何日も…、いや今日が二十八日であれば丸四日、熟睡から遠ざかっていた。
発情期の最中、射精に至れないばかりに。
その兆候は、母茗子がやってきた二十四日の夜からあった。もちろん、茗子の来訪がきっかけではなく、その後に発情期に一人で過ごすのは空しいことだと気がついてしまったのが、原因の一つのようだった。
興奮しても性器が反応しないわけではない。反応してもその欲望を吐き出せないのだ。しかも全く出来なくなってしまったわけでもなかったので、潤自身も発情期でこのようなことも起こるのかと意外に思った程度で、最初はさほど深刻に考えることもなかった。
しかし、その翌日も同じ事が起こり、射精に至ることが出来ず、一時間、二時間とベッドの上で苦しんで、そのまま力尽きてしまった。
これまで割と性欲に乏しく、さらに発情期も薬剤で抑えていた潤にとって、ここ数日の性的な刺激はこれまでに経験がなく、自慰をするにしてもすぐに興奮して達してしまうことが多かった。
それが、どれだけ刺激を加えても、簡単にイクことができなくなってしまったのだ。高見に昇り詰めると、身体の昂揚とは裏腹に、急激に気持ちが落ちてしまう。
こんなに難しい行為だったっけ、と潤は途方に暮れた。自慰はともかく、勃起や射精は、子孫を残すための動物的な本能のようにも思えたが、とてもデリケートな行為なのだと、改めて実感した。
しかも、身体に溜まった熱は、放出できずに、潤の体内にくすぶり続ける。
しかもその異変は、さほどの時を置かずに勘の良い颯真にも察知されていたようだった。
性的に満足できずに体力が尽きかけているにも関わらず、熱がくすぶり続けて熟睡も叶わない。達することができず、全裸でうつらうつらしている弟の姿を見て、二十六日の夜に颯真は直球で聞いてきた。
「平気か? 一人でちゃんと出せてる?」
何を、と言われずとも分かった。実はなんとなく前日から気がついていて切り出すタイミングを計っていたといわれたから驚いた。
一方、潤も不安で誤魔化す余裕もなくなりつつあり、素直に颯真に助けを求めた。
「……ううん。つらい……」
それから颯真は、潤をベッドに横たえ、約二日間の状況を丁寧に時間をかけて聞き取った。相手は兄とはいえ、イケない状況を詳細に問われるのはとんでもなく恥ずかしく、毛布を顔の半分まで引き上げて、ぽつぽつと話した。
発情期に自慰によって射精するという行為が、相手が居ないオメガによる空しい行為であるという結論に至った。発情の熱を受け止めてくれる相手がいないということは、すなわち愛してくれる人が居ないということ。それは、探す努力を怠ってきたから。自分が単なるオメガであるという事実から目を逸らしてきたから。
だから、射精に至れないというこの状況は、発情期に見舞われたら、という想像力が足らずにここまで来てしまった自分が受けなければならない報いなのだと。
辛い発情の中で辿り着いた結論を、潤は颯真にぽつぽつと話した。
途中から颯真は潤の話をむすっとした様子で聞いていた。
それが終わると、潤の言葉を一蹴し、きつい言葉で叱った。
「潤、その考え方は止めろ。
今お前に相手がいないのは、努力が至らなかったからではなく、まだ出会ってないからだ。こんなめに遭ってるのも、しんどい思いをしているのも、薬が効かない体質にも関わらず頭がイカレた部下に誘発剤を打たれる事故に遭遇したからだ。それ以上でもそれ以下でもない。すべてに関してお前に非なんてあるか」
颯真の言葉は断定的で力強い。正面から違うと言われて少し心が慰められる。
「頼むから、推察する部分と事実の区別をちゃんとつけろ。事実じゃないことを自分のせいにして傷つくことはない」
颯真が潤の顔を覗き込む。すると、目の前にこれまでに見たこともないような表情が見えて戸惑った。
これまでずっと不屈の精神力と正しい判断力で頼りがいのある姿を見せてきた颯真の瞳が揺れていた。そんな兄を目の当たりにして、潤は自分よりも辛そうだとぼんやりと思った。
「うん…。ゴメンね」
今、颯真は潤以上に泣きそうな表情を浮かべている。思わず腕を伸ばし颯真の頬を手のひらで包んだ。颯真が、安堵するように目を閉じる。温かい。こんなに心配をかけて、本当にごめん。
颯真からは、原因は精神的なものと推察できるが、器質的な原因という可能性を否定しておくために一応診ようか? と言われたが、さすがにそこまでは恥ずかしいので固辞した。どうすればいいのか分からなかったが、とりあえず一人で頑張ってみると話したのだった。
それから約二日が経って、颯真が改めて聞いてきたということは見守るにも我慢の限界を迎えたのろう。
潤が起き上がろうと左肘をつくと、颯真がそれに応え、ベッドから起こしてくれた。
「平気……じゃないよな?」
颯真の問いに答えられず潤は俯いた。
これは颯真に頼ることではなく、自分で乗りこえないとならないことなのに。
越えられるかな、と思って途端に心細くなっている。
こんな状態があとどのくらい続くのか、正直考えるだけで気が遠くなる。
出口の見えない発情期は、潤の気持ちを荒ませるのには十分だった。徐々に心が、灰色の何かに覆われていくような気がした。
不意に鼻の奥がつんとした。
俯いたまま鼻をすすり上げると、颯真が覗き込んできた。
「もう、あまり深刻に考えるな」
しかし、ここ数日の潤の脳裏はこのことばかりである。考えてしまうのは仕方がない。
すると颯真が意外な提案をしてきた。
「体調が落ち着いてるなら、少し気分転換しないか?」
それに潤は頷く。久しぶりに自分のベッドから出て、リビングのソファに腰を落ち着けた。
いつものリビング。カーテンが引かれているが外はもう暗いのだろう。
颯真が愛用のマグカップにホットミルクを注いできてくれた。
「蜂蜜を多めにしたよ」
久しぶりに胃に液体を入れる気がする。本格的な発情期が来てから食事はおろか水分も摂っていなかったように思う。食べる、飲む、という本能が消えてすべて性欲に変わるという感じだった。とはいえ、飲まず食わずでは身体もキツいので、颯真がタイミングをみて点滴で水分と栄養補給をしてくれていたらしい。オメガの中でも発情期に医療的な支援が必要になるのは、発情症状の重さによるのだろう。
マグカップに口を付けて一口飲み込むと、甘いと思った。温かい液体が喉を通って胃に落ちていくのが分かる。お腹がほんわか温かくなる。
「あったかい……」
しみじみと思ったことが言葉に漏れる。颯真が表情を緩めた。
「蜂蜜甘くておいしい…。颯真ありがと」
少し日常を垣間見れて、少し心が弾む。
「ミルクティを飲みたいかなって思ったけど、カフェインは刺激が強いからな」
颯真が隣に座ってそういった。
「それを飲み終わったら、身体を拭いてやるから。着替えて、すっきりしような」
リビングでホットミルクを飲む潤を横目に颯真が動き始める。洗い立てのパジャマを出して、蒸しタオルの準備を始める。
「僕、お風呂に入りたい」
潤がそう言うと、颯真が身体は大丈夫かと聞いてくる。潤が頷く。
「……うん。すっきりしたい。落ち着いてるうちに」
颯真も考える。
「そうだな…、シャワーならまだ身体の負担は少ないかな。そう思うのは発情が落ち着いてきているためかもな。ならいいけど。風呂から出たらちょっと診てみようか」
そう言って颯真は浴室の準備をしてくれたのだった。
久しぶりに身体に湯を当てる。しっとりと湯気がまとわりついて、湯が肌を滑って落ちる。温かくて気持が良くて安堵する。
ここ数日、潤が気を失うたびに颯真が世話を焼いてくれていて、身体を清拭してもくれてもいたため、衛生上は問題なかったのだろうが、それでも入浴のリラックス効果は計り知れないと改めて潤は思う。
明るくて湿度と気温の高い浴室で身体を温めて、少し気分が前向きになってきた気がする。
こんなに過酷な発情期になるとは思わなかったが、それにすべて付き合わせてしまっている颯真にも申し訳ないなと思う。おそらく彼は江上と尚紀のペア・ボンド療法でも中心的な役割を担っていたのだろうから。
早く自分の発情期が終われば、そちらに集中することもできるのだろうが……。
そんなことを考えることができるようになってきたのが少し嬉しい。自分だけではなく人を思う、本能だけの発情期の波から逃れられているようで。
髪を洗い、身体の隅々までを泡たっぷりのボディソープを纏い、ほぼ一週間分の汚れとストレスを洗い流す。
シャワーの湯を頭から被りながら潤は思う。このまま治まってくれて、年末年始は何事もないことを願う。
それに風呂を出たあとの診察でちゃんと発情期が終わっていれば、もしかして明日にでも仕事を再開できるだろうか、そんな期待も過ぎる。颯真には少し気が早いと叱られるかもしれない。しかし、多忙な時に飯田にすべて任せてしまったから、年末年始の休暇に入る前に少し整理をしておきたいのだ。会社の機能は休みに入ったが、この時期でも取引先の医療機関に出入りするMRの社員は多い。上が休まないと末端は休めないと言われるが、すでに五日も休んだのだから許されるだろう。
ゴールはもう少しかも知れないと思うと、浴室の鏡に映る自分の表情も自然と明るくなる。
「んっ……?」
そんなことを呑気に考えていた潤の身体が、再び異変に見舞われる。思わず、浴室のタイルに膝を着いで屈んだ。
え、と戸惑いが先立つ。
どうしよう。やっぱりきた……。
身体の奥から、再びずん、と重い響きが伝わってくる。何度も経験したその予兆に、背筋が凍る。思わず潤はそのまま動けなくなる。スタンドに設置されたシャワーヘッドから放出される湯が、背中を伝う。
「っ……ん」
耐えるように下半身に力を込めてしまう。息を詰めて耐えてから、力を抜いたほうが楽になるという颯真のアドバイスを辛うじて思い出し、口を開けて大きく呼吸をしながら、膝を曲げて正座をして、身体を丸めた。
どうしよう……。
ここでやってしまうべきか。こんなところでイケるだろうか……。
ただでさえベッドで達することができないのに。でも、少し治まってくれないと動けないし、このままいると、いくらも経たないうちに颯真が様子を見に来そうな気がする。
潤は肘を突いて腰を上げ、脚を僅かに開く。
すでに感じ慣れてしまっている、腰から背筋を駆け上がるような強烈な快感で、性器はゆるく立ち上がっている。右手でそれに触れると、気持ちがよすぎて、離せなくなる。肩を内側にいれて、自分の性器を懸命にしごく。
こめかみが浴室の床に当たり、シャワーの湯で流れる髪が視界を遮る。
温かいけれど、自分はこんなところで転がって一体何をやっているのだろうと、惨めな気分にもなってくる。
そんな感情に強引に蓋をして、乱暴に性器を扱き上げて、もう少しのところまで昇り詰める。
スパークするようなゴールまであと一歩……。
なのに、潤の中で不意に触ってはいけない部分に触れてしまったようで、急激に気分が落ちる。それは真っ暗でなにも見えない……。
まただ……。ここ数日のイケないパターンにまた嵌まってしまった。ゴールが見えたはずなのに、靄が掛かったように先が見えなくなる。
中途半端に育った性器から手を離す。乱暴に扱ってしまったようで少しヒリヒリする。それがまた、さらに潤のテンションを落とすのだ。
この行き場をなくした熱は、また自分のなかに放出されずに残されるのだろう。
もう、泣きたい。しんどい。
潤は、シャワーの湯が顔にかかるのをかまわずに、脱力し目を閉じた。
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