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 ふと、意識が浮上した。  まず、視界に入ったのは枕。俯せに寝ているようで、布団のなかで身体は暖かさに包まれていた。  ぼんやりと視界を回す。いつもの見慣れた自室の風景が見える。  そして、発情期が終わったのだなという感覚があった。  これまで脳内に靄がかかっていたものが綺麗に晴れて、訳もなく、いつもの自分が戻ってきたと確信できた。久しく感じていなかった感覚だ。  しかし、意識がはっきりしてくると身体の怠さが気になった。少し身体を動かすのが億劫だ。何故だろうとふと考えて、脳裏の狭間に自分の痴態が見え、慌てて秒速で記憶に蓋をした。  それでも終わったのだと思うと安堵する。発情期というものがあんなに辛いものであるとは思わなかった。正直、発情期の初期の頃の記憶も遠すぎて曖昧だ。  でも、最後の方は……と先ほど蓋をしたはずの記憶が蘇る。  潤の脳裏に、身体が覚えている快楽の記憶が、不意に蘇ってきた。  初めてアルファに抱かれた。  身体がぞくぞくと揺れる。そのいちいちが記憶に蘇る。思考が曖昧だったのに身体が覚えているのだ。  アルファの、丹念に這われる手、指に快感を引き出され、それだけで歓喜の声を上げた。  そして、身体の隅々まで愛されて、首筋に所有の証しを付けられ、それだけで嬉しくなった。  さらにアルファの猛りを受け止めるその場所をみっちり埋められて、それだけで満たされて達した。  アルファの香りに包まれ、官能を煽られて。身体を見られ、触られ、愛されて、精を受け止め、自分の発情期は落ち着いた。  やはり自分はアルファに抱かれるオメガなのだと否応なく実感させられたが、抱いてくれたアルファは颯真だった。  血の繋がった実の兄の颯真。  潤は布団のなかで身動ぎした。身体を横に向け、布団の中に顔を覆った。自分を抱いている時の、颯真の表情が思い出され、胸の内に急速に不穏な空気が広がり始める。  兄弟で身体を繋げてしまった。  それが許されることなのかと言えば、遺伝子レベルで刻み込まれたタブーだ。  それを颯真があっさり越えてしまった。  いや、自分たちが軽々と越えてしまったのだ。  その事実を前に、潤は自分の感情をどのように処理していいのか分からなかった。  これは越えてはならない一線で、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。  潤の胸にじわりと広がるのは、今更なかったことにはできない行為への後悔。    身体に溜まりつつある澱のような深い後悔を散らすために、ため息を吐いた。 「潤?」  ふと背後から声がして、潤は驚く。もしかしなくても分かる。颯真だ。  潤が、横になったまま振り返ると、ベッドに腰掛ける颯真が居た。すでに着替えも終わっており、ラフなジーンズにセーター姿だ。  颯真が、手をそえて掛け布団を除ける。寝起きの潤の顔を凝視し、穏やかな表情を浮かべた。 「終わったな。聡明でしなやかな、いつもの潤が戻ってきた」  それが何を指しているのか、潤にもいやというほど分かる。潤がなんと応えていいかと迷っているうちに、颯真はベッドから立ち上がる。 「着替えてリビングに来いよ」  颯真は、至っていつもの態度だった。  颯真が退室したのを確認して、潤は身体の向きを変える。すると目の前に置かれていたのは自分のスマホ。  そういえば、今はいつなのだろうと思う。日付の感覚なんてほとんどなかった。  スマホを手にとり、ディスプレイを見ると、十二月三十一日、大晦日の朝だった。  窓の外に目を向けると、朝の光が漏れている。一年の最後の日に、どうやら正気に戻れたらしい。  それもこれも颯真のおかげだ。もし、あの場面で彼があのような決断をしていなかったら、自分は未だに身悶える朝を迎えていたかもしれない。いや、迎えていただろう。  発情期でアルファとオメガが相対していたら、当然ながらアルファの決定は絶対だ。  だから、なぜあのような決断をしたのだと、颯真を責めることは藪蛇だ。結局自分だって、颯真の決意に捕らわれて、あられもなく身体を開き、颯真自身を受け入れ、その身にアルファの精を受け止めたのだから。  颯真を責めることはできない。きっと医師として、潤の主治医として最善を尽くしてくれたのだろうと思う。  そうなのだ。颯真はきっと、コントロールも効かない、どうにもならない発情期を宥めるために、自ら身を挺して潤の体内の熱を宥めてくれたのだ。あれは、治療の一環に違いないのだと思う。  でなければ、兄が弟を抱くなどという行為に、颯真が及んだ理由が見つからない。  潤はベッドから身を起こす。  身体がだるさを訴えるが、潤は身を起こす。意外に足腰はしっかりしている。クローゼットに向かい、久々に衣裳ケースを物色し、Vネックセーターとスラックスを身に着ける。  颯真と話さなければという思いに、潤はかられていた。きっと同じように考えているのだろうから、礼を言わないと。きっと颯真は、主治医として当然のことをしたまでだ、とか言うのだろう、と潤は想像していた。    リビングはエアコンが入れられて快適な室温に保たれていた。潤が身支度を調え、洗面所を経由したリビングに顔を出すと、颯真は嬉しそうな表情を浮かべる。  やはり兄も自分が元に戻ると嬉しいのだろう。    ダイニングテーブルを指して、座って待てという。 「朝飯食える?」  颯真にそう問われたが、潤は首を横に振る。たぶん、体力的には食べた方がいいのだろうが、なんとなく落ち着かなかった。 「颯真」  潤が呼びかけると、颯真はじゃあホットミルクにするから、と言った。  キッチンから掛けられる声に、潤も頷いて、大人しくダイニングテーブルに着いた。  いつもの見慣れたリビング。潤はそれを眺める。すると、リビングの脇に、颯真が使っていたドクターズバッグが目に留まる。もしあそこで、抑制剤を物色していなければ、颯真とあのようなことにはならなかったのだろうかと、ふと思ってしまう。  その一方で、潤の脳裏には袋に入れられた大量のヒート抑制剤「スラット」が思い浮かぶ。あの量をどのような間隔で服用しているのか知らないが、使い方によっては乱用すれすれなのではないだろうかと懸念が過ぎる。とたんに潤は、颯真の身体が心配になってきた。 「ねえ……颯……」  潤の目の前に愛用のマグカップが置かれた。中に注がれているのは、湯気が立つホットミルク。  柔らかいミルクの香りに、これまで眠っていた食欲が刺激を受ける。甘さを強めにしたと言われた。 「熱いからな。気をつけろよ」  そう言って颯真も隣の席に、ホットコーヒーを置いて腰掛けた。 「あのさ……」  医師である兄に、素人の自分が薬の懸念を示すのもどうかと思うが、心配なのだ。  潤がスラットのことを切り出そうとしたところで、颯真がPTP包装された薬剤を一錠、潤の目の前に差し出してきた。

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