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閑話:年初の恒例(1)
本編が始まる1年前のお正月の話です。
1回で終わる予定が長くなったので分けます。
なんて事ない三人の日常です。本編と切り離して単なるイチャイチャをお楽しみください。
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「おい、潤。用意できたか?」
階下から兄の颯真の声がする。
「今行く!」
そう叫んで、潤はクローゼットにかけてあった新しいダッフルコートを羽織る。そして、ボディバックとマフラーを掴んで、部屋を出る。階段を駆け下りると、玄関のエントランスにチェスターコート姿の颯真がいた。
愛車のキーをかざす。
「車、ポーチまで回してくるから」
潤が頷くと、颯真が玄関を出て行った。
新年一月三日。
横浜の実家で、両親と颯真の家族でのんびりとした正月を過ごしていたが、今日は兄と出かける予定だ。
「母さん、父さん。行ってくるね」
玄関からすぐの居間に顔を出すが、両親の姿がない。すると、居間の奥にあるサンルームから、二人の声が聞こえてきた。見ればソファで寛いでいる。普段はほとんど家に居ない人たちだが、年末年始は別だ。幾つになっても仲が良く、息子が居づらさを感じるほどにいちゃいちゃしている。……もしかしたら、母の発情期が近いのかもしれない。
「颯真に運転は気をつけろと言っておけよ」
父が母の手を弄びながら、手を挙げる。
潤が了解すると、母もお土産よろしく、と言い添えた。
「くず餅だよね」
母の好物である。潤は笑って頷いた。
社会人になったここ数年は毎年一月三日に、友人の江上廉と三人で初詣に行くことを恒例行事にしている。品川に実家がある江上と、横浜が実家の潤と颯真の間を取って、例年初詣の参拝は川崎大師だ。
毎年江上と待ち合わせをしている京急川崎駅の近くまで、颯真が車を出してくれている。潤が電車に乗ることをあまり好ましく思っていない兄、颯真の配慮なのだが、少し過保護ではないかと、潤自身思わないことはない。電車で行けば、初詣の後、新年会と称して心置きなく飲めるのになと思うのだが。最初の頃は呆れていた江上もすっかり慣れたのか、最近はパーキングの近くで待ち合わせをするようになってしまった。
江上と無事に待ち合わせを果たし、そのまま三人は京急線で川崎大師へ向かう。川崎駅始発の電車に乗り込み十分ほどだ。
もちろん、車内は参拝客でごった返している。颯真と江上が素早く空いている席を見つけて潤を座らせてくれる。さらにその前にふたりで立ちふさがった。
過保護だなあと潤は苦笑する。
「お前、マスクしてないけど大丈夫か?」
颯真が思い出しように聞いてくる。そういえば、元旦に少し咳をしていたのだ。怒濤の年末を越えて気が緩んだせいかもしれなかった。
しかし、今日は調子がいい。潤は頷いた。
「だいじょぶ」
「無理すんなよ。寒くないか? カイロも持ってるか?」
「……颯真、平気だよ。僕を構い過ぎ……」
潤がそう呆れる。
「お前、一昨日体調崩したばかりだろ」
潤は何も言えなくなる。
「颯真、お前は潤の母親か」
江上が笑う。
「だって、こいつは仕事以外、身の回りとか殆ど興味持たないんだぞ。心配だよ」
颯真がそう言ってコートの両ポケットに手を入れた。
電車はほどなくして川崎大師の最寄り駅に停車する。すると吐き出されるように多くの人が降車した。その波に乗るように、潤と颯真、江上の三人も歩き出す。
駅前から続く表参道はすでに多くの人出があり、歩行者用道路として通行規制が敷かれていた。ここから寺まで徒歩で十五分ほどの距離だが、かなり時間がかかりそうだ。
三人は横に並んでのんびりと歩き出す。
「そういえば、潤」
江上が隣を歩く潤に話しかける。
「お前のそのコート、颯真の見立てか?」
すると、即座に頷いたのは颯真。
「鋭いな、廉。似合うだろ」
得意げに颯真が言う。潤も仕方なく頷いた。
「クリスマスプレゼントだって、渡された」
昨年のクリスマスに颯真から贈られたのは、明るめの色合いのキャラメル色のダッフルコートだ。そろそろ三十路という男が着る色合いではないだろうと潤は思うのだが、江上は同意するように頷いた。
「お前は本当に潤の服を見立てるの巧いよな」
江上が颯真に語りかける。アリなのかと潤は思う。
「これ、カシミヤだろ」
潤のコートに江上が触れる。たしかに軽くて、肌触りがやたらと良い。聞けば、イギリスの有名なブランドの新作らしい。
そのようなものを、似合いそうだったからと買ってくるのだ、この兄は。
さらに江上は愉しそうに潤にも問いかけた。
「お前の部屋のクローゼットにはかなりの割合で颯真の見立てた服があるんじゃないか?」
鋭い。もう江上に隠すことでもないので、潤も素直に頷いた。
「今日の服だってほぼそうだよ。自分の服買いに行って、僕の服買って帰ってくるんだからさ」
このコートだってそうなのだ。
「でも、僕も颯真にはちゃんとクリスマスプレゼントを贈ったよ」
すると颯真がチェスターコートの左袖をずらす。
出てきたのは新品の腕時計。
「オメガかよ」
驚く江上に潤も頷いた。
「毎年なんだかんだと貰ってるしね」
昨年のクリスマスは奮発して颯真に腕時計を贈った。少し前に愛用している時計を修理に出したと聞いていたからだ。
「奮発したな」
江上の言葉に潤も頷く。
「でもまあ、颯真には世話にもなってるからね」
日本に帰国してからしばらくして同居を始め、今では家事もかなり負担して貰っている。
「たださ、兄弟で高額プレゼント交換するその関係性ってどうなのよ?」
江上の突っ込みに潤も苦笑せざるを得ない。
「普通じゃないね」
颯真も頷く。
「だな。でも、自分の片割れだからかな。買ってやるのも貰うのもハードルは高くない」
「それは言えてるね」
潤も隣で頷いた。
「仲良いな、おまえら」
分かってたけどさ、と、江上は呆れた様子を隠さなかった。
参道には参拝前から客を誘惑するように様々な露店が軒を連ねており、美味しそうな香りを漂わせている。それがまた正月であることを実感させてくれ、特別な時間を共有している気分になって、潤は嬉しくなる。
この連ねるように歩くものすごい人出も正月ならではだ。しばらく歩いていくと、仲見世通りからトントンというリズミカルな音と活気のある声が聞こえてくる。名物の咳止め飴を切る、飴切りの音だ。
おそらく年に一度しか聞かない、賑やかな音だが、久しぶりに聞いて懐かしい思いがこみ上げる。
昨年も一月三日に三人で川崎大師に初詣に行ったはず。しかし、昨年は潤の記憶にはあまり残っていないのだ。昨年の正月は、赴任先のドイツから一時帰国していた中だったせいか、忙しない気分がどうしても抜けずにいたのだった。
昨年の今頃は……と潤は脳裏を巡らす。
その年の四月から、潤はドイツの子会社に駐在していた。クリスマスから年末年始の休暇は、ちょうど買収交渉が山場に差し掛かったところだったので、気が休まらなかったのだ。
いや、買収というほどには大きいものではなかった。とあるベンチャー企業から、欧州で承認申請中の新薬を含む開発品を、プロジェクトごと譲渡を受けるという案件で、予定では年内に交渉が完了する予定だった。しかし最終段階になって、他社から横やりが入り、話がこじれてしまっていたのだ。
譲り受ける開発品の中に、オメガのフェロモン誘発剤が含まれており、森生メディカルとしてはなんとしても物にしたい交渉だった。
この開発品を、データをまるまる日本に持ってくれば、メルト製薬一強の市場環境に一撃を加えることが可能と考え、本社を説き伏せたのは潤だったのだ。
「貴方をいつまでも向こうに置いておくつもりはないわ。一年で呼び戻すから、そのつもりで」
ドイツに赴任する際に、母親である社長から内々にそのような話をされた。次に本社に戻る時は取締役と分かっていた。要するに母は一年で取締役に就任するにふさわしい成果を上げてこいと言っているのだと潤は理解したのだ。
その母の言葉に焦っていたわけではないが、昨年は潤にとって心から楽しめる正月ではなかったのだ。
「潤、なんか愉しそうだな」
潤は素直に頷いた。
「久しぶりにのんびりしたお正月だなって」
颯真も頷いた。
「そうだな。去年は心ここにあらずって感じだったな」
「去年は颯真がえらく心配してたからな。ホントにお前ら双子だよな」
江上も颯真の言葉に乗る。
「社長に就任して、少し落ち着いたのか」
颯真の言葉に潤は首を横に振る。
「まさか」
潤は、昨年の四月にドイツから帰任して、森生メディカルの取締役に就任した。そして、そのまま十月に母親の茗子の後を継ぎ社長職に就いた。
まだ社長就任から三ヶ月ほどで、社内のあれこれを把握したり、一つ決断するにも部下のサポートが必要であったりと気が抜けない日々が続いている。
「当然責任は増してるし、年末もバタバタだったよ。この休みのうちにやっておきたいことも多いし、気が抜けないけどさ、とりあえず今は楽しんでおこうかなって思って……」
颯真は納得したように頷いた。
「ああ、なるほど。責任が重い仕事だけど、オンとオフの使い方が巧くできるようになってきたってことかな」
潤も頷いた。
「そういうことかな」
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