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 潤が帰宅してからほどなくして、潤と颯真の父親である和真から羽田に到着したという連絡が入り、その二時間後には玄関ドアが開かれた。 「ただいまー」  父の和真は、森生グループの精密機器を取り扱う森生システムの社長に就いている。欧米、アジアなどに拠点を構えており、年中世界中を駆け回っている。  今回もクリスマス前にインドでトラブルが発生し、現地の幹部だけでは手に負えない事案ということで急遽社長が出向くことになったという。  国内外問わずのそのようなハードな経営を長年にわたってこなすには、気力と体力がないと難しい。この父親を潤は経営者として尊敬している。 「おかえり」  玄関に顔を出した潤を認めて、和真は表情を緩めた。父親ときちんと会うのは久しぶりだ。潤自身があまり実家に帰る余裕がないうえに、和真も家にいないため数ヶ月に一度顔を合わせればいい方だ。落ち着いた休暇を父子で過ごすのは、一年前の正月以来だ。 「おお潤、久しぶりだな! もう身体は大丈夫か」  そのようなハードなビジネス環境に身を置きながらも、息子が部下に薬物を投与され、十数年ぶりの発情期に見舞われたことは、茗子から聞き及んでいるのだろう。  茗子も多忙の身なのだが、この夫婦はどうやって綿密に連絡を取り合っているのだろうと、我が両親ながら潤は時々疑問に思うことがある。 「うん。もう平気」  すると父は潤をぎゅっと抱き寄せた。正直いい年をした息子への反応ではないと思うが、和真は時々潤に限ってそのような行為に及ぶ。父子でも、アルファとオメガという第二の性が関係しているのかもしれいない。  和真は潤を抱き寄せながら、母さんがすげえ心配してたぞ、と囁いた。潤は俯いた。 「……心配かけてごめん」  潤の謝罪に和真はぎゅっと腕に力を込めて応じる。 「今夜は颯真が仕事だそうだな」  それに関して潤はなにも言えない。 「……僕が、何日も拘束しちゃったからね」  和真が抱擁を解く。 「あいつも責任がついて回る年齢だからな」  果たしてそれが大晦日に夜勤になる理由として正当なのかは分からない。でも両親がそれで納得してくれるのであれば、渡りに船である。  また、発情期のことも潤が懸念したほどには両親から聞かれる事がなかった。ひょっとしたら颯真が話していたのかもしれないし、親子でもセンシティブな内容だ。敢えて聞いてこなかったのかもしれない。  大晦日に連絡もせずに、夕方に天野家の息子に拾われて、車で横浜まで送られたという潤の行動も、両親はさほどに気にしていない様子だった。一日中街を彷徨っていたという話はしていないし、会社に向かっていて途中で力尽きたという理由はそれなりに説得力があるのだろう。  潤は両親と三人で、ささやかで穏やかな年越しを楽しんだ。    潤が目的もなく街を彷徨っているうちに、スマホにはいくつか連絡が入っていた。通知が入っていることは潤も気付いていたが、確認する気にはなれず放置していた。松也とラインのIDを交換した際にも、見なかったふりをしていた。  しかし、帰宅した父と母の三人で年越しそばを食べて、自室に上がってきて、改めてスマホを見ると、メッセージは増えていた。 「潤さん、大丈夫ですか?」  潤が、江上の部屋を飛び出して、さほどの時間が経たないうちに、尚紀から入ってたメッセージ。  それから数時間が経って、さらにもう一つ入っていた。 「驚かせてしまって、ごめんなさい」  苦い気分がこみ上げる。尚紀が謝ることではないのに。  潤はベッドに横になり、大きく呼吸を繰り返した。あの二人への対応は正しいことではなかったと思うが、咄嗟のことでどう対処していいのか分からなかった。  きっと驚かせてしまっただろう。  そういえば、尚紀からは数通メッセージが入っていたが、江上からはない。薄情だなと感じてから思い直す。彼のことだから、きっと自身より尚紀からの方が反応しやすいだろうと、合理的に判断したに違いない。  そして最後に入っていたメッセージ。 「病院に戻る前に、一度お会いできたら嬉しいです」  尚紀の、彼らしい距離感の言葉。  寛ぐために一時帰宅したはずなのに、自分のせいで心配をかけてしまっている。  でも、このメッセージにどう返事をしていいのか、今の潤には正解が見つからない。   しばらくスマホを手にしていてもどうにもならず、諦めてトーク画面を閉じる。  そして、大晦日になっても連絡が無い息子を気遣う茗子からのメッセージも入っていた。  先程の茗子の姿が思い浮かぶ。心配して、ポーチに出て帰宅を待つ姿なんて、久しく見たことがなかった。  茗子は発情期の初期に会いに来てくれたし、本当に心配をかけていると思う。  ……でも。  もし今回の発情期を、颯真に抱かれたことで乗り切ったと知ったら、彼女はなんと思うだろう。なんと言うだろう。  潤は堪らない気持ちになる。  自分たちは、発情期だったとはいえ、いとも簡単に兄弟間のタブーを乗りこえてしまったのだ。それが、果たして許されることなのだろうか。  そして最後のメッセージは、颯真からだった。  朝のメッセージと同じような、事務的な内容だった。  この三が日は仕事でこちらにいる  忙しいから、年明けしばらくは横浜の家から通うと思う  正直に言えば、潤は安堵した。  これでしばらく颯真とは顔を合わせることはないと思ったからだ。三が日は仕事で病院に詰めて、その後実家に帰ってくるなら、自分は三が日を実家で過ごして、そのままマンションに戻る。せめて気持ちが整理できるまでは、顔を合わせたくない。  これは颯真なりの気遣いだ。  これまでどんなに多忙でも、一緒に住み始めてからは横浜の実家から通うことはなかった。それをあっさり拠点を移すというのは、やはり自分が颯真を拒絶したから。  拒絶。  颯真の言葉を頭から否定し、拒絶したのは生まれて初めてだった。どんなときでも、寄り添ってくれた大事な片割れなのに。    潤はベッドに仰向けになる。幼い頃から見慣れた天井が視界に入る。自立してもなお、この部屋を自室として残しておいてくれる両親には感謝だ。こちらにはあまり着替えも置いていないが、数日暮らすには問題はない。ちなみに隣室は颯真の部屋で、同じ間取りになっている。  実家の自室というのは、子供の頃から同じ風景だから、どこかこそばゆい気分になる。  こうやって、ベッドに寝転がって天井を眺めていると、昔のことが思い浮かぶ。  時々、颯真がこっそりやって来ては顔を覗き込んで、笑いかけるのだ。  でも、あの時は違ったな、と、潤はふわりと浮上した思い出に身を委ねる。なんだろう、颯真が自分のベッドに潜り込んでくるなんて、何度もあったのに、あの日だけはとても印象的だった。  何かあったっけ……、潤が思考を巡らすと、すぐに思いあたった。  そうか、あの日だ。第二性別通知書が届いた夜。  その夜、就寝時間になると颯真が枕を持って潤の部屋を訪ねてきた。中学三年生になったのだから、別々に自分の部屋で寝ようと言ったのは颯真なのに、今夜は前のように一緒に寝ようという。  一方の潤は、ちょっと嫌だなと思ったが、すでに寝る準備をして枕を抱えてきた颯真を追い出すわけにもいかず、内心はしぶしぶとベッドにスペースを作った。  なのに、颯真はベッドに入ると、潤の背後にぴたりとくっ付き離れなかった。  腰に手を回され、背中に顔を当てられる。  颯真の体温を、いやでも感じた。  颯真の手に、潤は自分の手を重ねた。  彼が、心配してくれているのは痛いほど感じていた。  さすが片割れだ。自分が思っていることなんて、お見通しなのだ。自分の考えがダダ漏れなのは恥ずかしいが、颯真にならば抵抗はない。それに、こんなぐつぐつした情け無い感情は、とてもではないが言葉にできない。だから、言わずとも分かってくれる、颯真の存在が有り難かった。  潤は、颯真に対して何をやっても勝てない。颯真の方が背が高いし、成績だって、スポーツだって、人つきあいだって……。でも、それが自分がオメガである証左ではないはずなのに。  颯真に聞こえないように少し鼻をすする。やっぱりショックを受けているみたいだ。この第二の性で格差は生まれないとされている。これからの進学や進級という進路はもちろん、就職やその先のキャリアも、結婚も。何の差別を受けることはないと言われている。  しかし、そんなものは建前でしかないと、中学生になれば分かる。現に明日以降、アルファとオメガと判定された生徒は、個別のカウンセリングを受けることになっている。自分たちは明快にベータとは違うと言われているのだ。 「……潤」  颯真は自分が泣いていることに気が付いているのか。しかし、そこには触れない。  だだ、腰に回した腕に少し力が入った。 「お前はお前だ。何が変わるわけじゃない」  颯真はアルファだった。アルファであると言われた人間にこの気持ちが分かるのか、と拒絶するのは簡単だ。颯真でない人間に言われたならば、潤もそのような反発心が生まれたと思う。  しかし、颯真から静かに告げられた言葉は、すとんと潤の腹に落ち、そして潤は颯真に抱かれながら、頷いた。 「うん……。わかってる、ありがと、颯真」  そう言うのが精一杯だった。どうしても、嗚咽がこみ上げてきて仕方が無かった。  潤の中で何かが崩れた。颯真は分かってくれるとは思っていたが、それでも自分の中で処理すべき気持ちはあると思っていた。でも、実際にそう言葉にされると、颯真の前では抱えきれなければ、晒して素直になっていいのだと思えたのだ。  しゃくりを上げ始めた潤を、颯真が背中を摩ってくれる。 「気にするなというのは無理だと思う。でも、これは覚えておいて。俺は何があっても潤を守るし、何があっても味方だから」  嬉しかった。そして少し安堵した。自分が今後どのような人生を辿ることになるのか、今の潤には不安しかない。でも、この先どんなに自分がしんどい思いをしても、きっとこの片割れは隣に居てくれる。颯真は嘘を吐かないからだ。  潤は寝返りを打つ。そして、彼を正面から抱き寄せて、涙で濡れた顔を颯真の胸に埋めた。  颯真は、潤の背中を、優しくトントンと、叩いてくれた。    泣き疲れて、潤が眠るまで、颯真はそうしてくれていた。

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