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(3)
松也、と呼ばれた男性は、驚いた表情を隠さずに、そのまま潤の横に腰掛けた。そして、潤の顔をまじまじと覗き込む。
潤は少し居心地が悪くなり、僅かにマフラーに顔を埋める。
「本当に潤君かい?」
相手が確かめたくなるのも無理はない。潤自身も驚いているのだ。
こんな偶然ってあるのだろうかと思う。同じように驚いた表情を隠さない目の前の男をぼんやりと見つめる。
「僕もびっくりだ。まさこんなところで松也さんと……」
「何年ぶりだろうね」
松也がくすりと笑った。
天野松也。
潤にとって懐かしい人物だ。実家の近所に住む、潤と颯真にとっての幼友達。しかし年齢が上がるごとに疎遠になり、今ではほとんど顔を合わせることもなくなってしまった。潤はもう十年以上会っておらず、まさかこのような場所で偶然顔を合わせるとは、夢にも思わなかった。
「こんなところでどうしたの?」
松也の疑問はもっともだった。潤は少し困ったが、そのまま素直に答えた。
「ちょっと休んでいました」
「え」
そこに少し嘘を織り交ぜた。
「実は会社に行こうと思ったんです。でも、昨日までちょっと忙しくて。今日は辿り着く前に疲れてしまって、休んでいたんです」
職場が今品川なんです、と潤が言い添えると、松也は頷いた。
「それは知ってるよ。だって森生メディカルの社長さんなんだからな」
潤も苦笑した。
「ですよね。すみません。松也さんが同じ職場にいるって、颯真から聞いています」
松也が誠心医科大学横浜病院で外科医をしていると、以前颯真からは聞いていた。頻繁に顔を合わせる間柄なのかは知らないが、同じ職場にいる自覚はあったらしい。
外科医の松也が、幼友達である潤が家業を継いで製薬会社の社長をしていることは当然知っているだろう。
「松也さんは? どうしてこんなところに? 仕事ですか?」
潤の疑問に、松也は頷いた。
聞けば、若手医師の集まりで品川までやってきたという。しかし、昼すぎに急遽誠心医大の本院に呼び出されたというのだ。その仕事も終わったので、品川の会場近くに停めたままだった自家用車で帰宅するために、ここまで戻ってきたところだという。
「潤君はどうするの? 会社に行くの?」
潤は少し考える。
「そうですね……」
「止めた方がいいよ」
「……」
潤が驚いて思わず見ると、松也が真剣な表情でこちらを見ていた。少し居心地の悪さを感じ、視線を逸らす。
「あまり顔色良くないし、今日は寒いから体調を崩したら大変だ。一緒に帰ろう。送っていくから」
松也が一方的に決める。
「え」
どうせ、実家帰るんでしょう? と松也が確認する。しかし、潤が反応する前に、松也が立ち上がる。
「こんなところで君を放置したと知れたら、父に何を言われるか」
そう言われると潤は何も言えなかった。これは潮時ということかな、と観念した。
「……ですね。お願いします」
潤自身、もう独りで街を彷徨うことが体力的にも精神的にも限界だった。
ともに駅を出て、近くのコインパーキングに停めていた松也の車に乗り込む。
聞けば松也は現在も実家に住んでいるとのこと。
結婚もしていないらしい。
「両親に早く出て行けと言われるんだけど、職場まで車で十分は捨てがたいよね」
そう言って、ハンドルを握りながら笑った。
松也の父は、潤の実家の近所で、父親から譲られた「天野医院」を継いでいる。専門はアルファ・オメガ領域であるため、森生家とは縁深く、両親だけでなく潤や颯真も幼い頃から世話になっていた「かかりつけ医」だ。
そのせいか、松也と顔を合わせる機会も多く、結果として、潤と颯真にとって松也はよく遊んでくれる「近所のお兄さん」だったのだ。
松也の運転するハイブリット車はそのまま大晦日の車の波に乗り、そのまま湾岸線の有料道路に滑り込んだ。
会社から、颯真の病院に行くよく見る風景だ。
潤がそんなことを考えながら車窓を眺めていると、松也がくすりと笑った。
潤が振り向くと、
「すごい久しぶりに潤くんと会ったけど、やっぱり子供の頃の面影って残ってるよね」
松也が苦笑する。
「何年ぶりですかね」
たしか松也とは七つ年が離れていると記憶していた。
潤と颯真も小学校低学年くらいまでは、松也によく遊んで貰っていた。その後、彼自身は高校を全寮制の学校に進学したことをきっかけに、すっかり疎遠になってしまった。
聞けば、彼はアルファであることが判明し、父親と同じアルファ・オメガ科の医院を継ぐことは難しい状態となった。しかし、それでも医師を目指して医学部に入学したと聞いた。
その後は、父親の天野医師から無事に医師免許を取得し、市内の病院に勤めているという話を聞いた。それがいつの間にか颯真にとっては同僚になっていたという話を聞いて、潤も大層驚いたものだった。
ただ実際のところ、潤自身は、院内でも松也と会ったことはなく、ここでの邂逅はおそらく十五年ぶりくらいになるだろう。
「たぶん、最後に会ったのは、君達が中学生のときかなぁ……?」
潤は少し複雑な気分になった。
「それでひと目で僕だと分かったのか……。あまり変わり映えしないのかな……」
松也が前方を見つめながら首を傾げる。
「そういうわけでも……あ、違うな。この間テレビを観たからだな」
密着ドキュメントをやっていただろう? と松也に言われて潤は思い至る。以前取締役会の根回しのカモフラージュとして密着してもらった映像が、年末にBSで放映されたらしいのだ。潤自身はそれどころではなかったため、見なかったが。
そのほかにも、経済誌や専門紙などの取材も受けているため、頻繁、というほどではないがメディアへの露出はある。
「父がね、わりとチェックしているんだ」
潤は天野医師の意外な一面を知った気がした。
「森生家の人たちは、みんな多忙だから。気になっているみたいだよ」
なるほど、と思う。天野医師の意識の高さを見た気がした。
「僕も、松也さんだって直ぐにわかりましたよ」
すると松也は苦笑する。
「本当に? 俺はかなりおじさんくさくなったと言われるんだけどな」
潤も笑みを浮かべた。
「……そんなことは、ないと思うんですが」
たしかに潤の記憶のなかにある松也はもっと若さと力強さが溢れた青年だったと思う。それでも、今の松也は過去とはまた違った魅力に溢れているとも思うのだ。三十代半ばをすぎても精悍な印象で、なぜ結婚していないのかと思う程に。
「寒いかい?」
松也が、コートを脱いでマフラーを巻いたままの潤の姿を気にした。潤は首を横に振る。
「大丈夫です。ちょっと首筋が心許ないだけなので、気にしないでください」
潤は苦笑した。車内はかなり暖かいのに、気にしてくれるんだというのが、どこか嬉しい。やはり人恋しい気持ちになっていたのかもしれない。
「昨日まで忙しくて、動けなくなってしまったって言っていたもんね。こういう時は免疫力が落ちてるし簡単に風邪を拾うから。気をつけて」
潤は頷く。
「お正月は、しっかり滋養のあるものを食べて休息してね」
「はい、松也先生」
潤が冗談混じりで言うと、松也はゆっくり笑った。
松也の実家である天野家と森生家は、横浜元町の丘の上にある。互いの家は歩いて五分ほどの距離。しかも、天野家は、潤の祖母のかつての家の隣であった。
松也は森生家の前まで送っていくと言ってくれていたが、潤はそれを固辞し、天野家のガレージまで乗せてもらった。
この期に及んで、ではあるが、潤は実家に帰るか否かの決断ができていなかったのだ。ここで松也と別れてしまえば、実家に立ち寄らないということもまだまだ可能だ。その選択肢を残しておきたかったのだ。
「本当にありがとうございました」
ガレージに納まったハイブリット車の助手席から降りた潤は、抱えていたコートを着てから、松也に礼を言った。品川までの僅かな時間であったが、松也と話ができて楽しかった。彼にとって、自分は昔の「潤君」のままらしく、それが逆に潤にとっては新鮮で、今の自分を知らない彼との会話は大いに気晴らしになった。
そして、必要以上に事情を探ってこない彼の姿勢にも救われた。
「潤君は、いつまで実家にいるの?」
松也に思わぬ問いかけをされる。実は、まだ実家に帰ることさえ決めかねている状態なのだが……。
「え……」
潤が戸惑うと、明後日は時間ある? と問いかけられた。
「いえ……。なんですか?」
「俺は明日当番で出勤だけど、明後日なら時間があるから、どこかランチでもどうかな?」
「………」
「やっぱり、難しいかい?」
「……明日って元旦ですけど、大変ですね……」
誘いに即断できず、思わず話の論点をずらしてしまった。すると、松也も仕方が無いよねと苦笑した。
「また連絡するから、ちょっと考えておいてよ」
そう言われて、連絡先の交換を求められた。
「お、松也か。お帰り」
背後から声がして、潤は驚く。
振り向くと、玄関から出てきたのは七十絡みの男性。松也の父親で、潤も幼い頃に世話になった、森生家のホームドクターである天野医師だ。
潤が振り向くと、暗い玄関先で天野が驚いたような表情を浮かべたのが潤にも分かった。
「あれ、もしかして潤君?」
松也の隣にいるのが潤であることに気が付いたらしい。
「え、はい。……お久しぶりです」
「ずいぶん、立派になって」
自立して実家を出て以来、世話になることなかったため、天野と会うのも久しぶりだ。
潤も経緯を説明しておく。
「松也さんに、品川から車に乗せて貰いまして」
天野はそうかそうかと頷く。そして、松也に分からないように、密かに身体は大丈夫かと気遣ってきた。
きっと母親の茗子から相談を受けたのだろう。
「はい。お陰様で落ち着きました」
ちゃんと笑えたかは分からないが、潤は頷いた。
「そうか、ならばいいが……」
天野は数度頷いた。そして、これから潤が帰宅するということ知ると、これから帰る旨を森生家に連絡を入れておくと言った。
小さな子供が友人宅から帰る時のような対応に思えたが、天野にとって、森生家の次男である自分はいつまでもそのような存在なのかもしれないと潤は感じた。
断ることはできずに頷いた。やはり、実家には顔を見せなければならなそうだった。
天野と松也に見送られ、天野家を辞去し、とぼとぼと実家に戻る道を歩く。このあたりは昔からあまり変わり映えがしない。暗くなった歩道に立ち止まり、空を仰ぐ。
この辺りは明るすぎて小さな星は見えない。明るい光を湛える星がいくつか見える。
それでも、昔はもっと見えた気がした。
森生家の門扉の前までやってきて、潤は大きく深呼吸をした。鉄の門を開いて入る。
すると、ぽっと明かりが点いた玄関ポーチに人影がある。 歩きながら目を凝らすと、母親の茗子であることが分かった。
ストールを身に纏って、潤の到着を待っている様子。
「ただいま……」
潤が声を上げると、茗子が振り向く。心配そうな表情が、安堵の表情に変わる。
茗子が、潤に抱きついてきた。
「もう……この子は」
茗子の温かい腕に包まれて、潤はごめんね、と小さく呟く。茗子に届いたのかは分からない。潤も何に対して謝ったのかは分からない。
「身体は……? 平気なの?」
潤は頷く。
「うん。平気。心配かけてごめん」
そう、と茗子は軽く頷いた。そして潤を家の中に誘ってくれた。
「お父さんももうすぐ帰ってくるわ。そしたら、三人で年越しそばを食べましょう」
茗子の言葉に潤は疑問が浮かぶ。
「三人? 颯真は?」
顔を合わせることは出来ないと思っているのに、気になってしまう。聞いてしまう。
茗子は困ったような表情を浮かべた。
「さっき連絡があったの。今夜は病院に泊まり込むんですって」
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