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 どうぞ、と招き入れられた江上の自宅はしんと冷たかった。潤は、尚紀に伴われて、初めて親友の部屋に脚を踏み入れた。場所は知っていたのだが、これまで実際に江上の自宅に言ったことはなかった。颯真はよく立ち寄っていたらしいが、潤はそのような機会がなかったのだ。必要があれば、彼から訪ねてくれるという関係性だったためだ。  そのような中で、わざわざ訪ねてきた潤を、江上が逃すはずがなく、そのまま尚紀と一緒になって、三階の部屋まで連れてこられた。  江上の自宅は、単身者用よりは少し広めの間取りだった。大きなリビングルームに続きのキッチン。奥にもう一部屋あるようでそこが寝室のようだ。 「楽にしていいよ」  潤が戸惑っていると、尚紀が潤の背後に回り、コートを脱がしてくれた。そしてハンガーに掛けてくれる。その様子を見ていると、彼は何度もこの部屋に来たことがあるのだろうと潤は思った。  なんとなく、その落ち着いた仕草が潤の安堵を誘う。  江上がいいから座っていろと、尚紀と潤をソファに落ち着けて、エアコンのスイッチを入れてお茶を淹れに行った。  キッチンが続きになっている間取りなので、ケトルを火に掛ける江上の姿が見える。 「……もう退院できたの?」  潤は隣の尚紀に問いかけるが、彼は首を横に振る。 「いえ、まだなんです。ただ年末だし、容態も落ち着いているからって、外泊許可が下りて……」  そうなんだ、と潤は頷いた。しかし、顔色は以前会った時に比べて格段に良くなっているし、なにより満たされたような雰囲気で幸せそうだ。潤は心から尚紀の変化をよかったと思えた。  そして、そう思える自分自身に、潤は心から安堵した。いや、ここまで穏やかな気持ちで、変化のあった二人に向かうことができる自分自身に、潤が驚いていた。 「とりあえず、正月の三が日はゆっくりできればと思ってさ」  江上がマグカップに入った緑茶を持ってきた。 「……ペア・ボンド療法は巧くいったんだね……」  潤の探るような問いかけに、江上も今のところは、と応えた。聞けば、あの日発情期に突入した尚紀と江上は繋がり、項を噛んだという。発情期自体は数日で終わったらしい。  見れば、尚紀の項にはガーゼが当てられている。 「成功かどうかは、完全に前の番の咬み跡が消えると判断できるそうだ」  尚紀が潤の視線に気が付いたようで、ガーゼにそっと手を触れる。その下に、二人の繋がりの証しが付けられているのだ。  聞けば、項に残っていた痛々しい咬み跡は少しずつ瘡蓋になってきているらしい。それと同時に、江上が付けた新たな咬み跡はきれい……といったら語弊があるが、しっかり跡として残っているという。 「それじゃあ、もうほとんど安心だね」 「……だな」  江上は頷く。 「で、お前だよ」  間髪入れられた言葉に、潤は思わず江上を見る。 「お前はもう大丈夫なのか、潤」 「……え」  江上の、眼鏡の奥から投げられる鋭い視線に潤は捕らわれた。 「あんなに誘発剤を打たれて、尋常じゃなかった」  江上の言葉に、どう答えようかと視線が泳ぐ。すると、潤の手に尚紀の手が触れた。  それを辿ると、心配そうな表情を浮かべる尚紀がいる。ペア・ボンド療法を受けて、二人とも心身ともに大きな負担がかかったであろうに、自分の心配までもしてくれたのかと、潤は胸が温かくなった。 「……大丈夫。ちょっと発情期は辛かったけど、もう平気」  そう強がると、江上の顔が潤に近づいてくる。 「本当に?」  潤はうん、と頷いた。江上の手が伸びてきて、潤の後頭部に触れる。 「そうか……。なら、よかった」  そう言って、潤を抱き寄せようとしたところで、尚紀が背後から驚いたような声を出した。 「じゅ、潤さん……」  潤が振り向くと、尚紀が目を見開いて潤を見ている。とっさに江上に近づきすぎたのがいけなかったかと思ったが、そうではないようだ。 「その首筋……」  驚きのあまりだろう、口許を押さえている。 「え?」  潤は自分の首筋に手を当てる。  江上も潤の首筋を覗き込み、表情が凍った。 「お前……。  誰にやられた?」  鬱血が……と尚紀が言った。  心臓を掴まれるような思いで驚いた。立ち上がり、何も言わずとも尚紀が誘導してくれ、そのまま洗面所の備えつけの鏡で確認する。首筋に、いくつもの鬱血の跡があった。  キスマーク。  とっさに思った。  しかし、キスマークなんてものではない。これは所有の証しだ。  潤は血の気がさっと引いたのがわかった。思わず右手で押さえて隠す。  迂闊だった。全く気が付かなかった。  誰に付けられたのかは明白だった。 「それ、噛まれてるのか……?」  江上の言葉に、とっさに潤は首を横に振る。 「ち……ちがう」  嫌がることはしないと言われた。 「潤、ちょっと見せろ」  江上が潤の腕を掴む。右手で首筋を庇い、潤が振り払った。 「ごめん、帰る」 「ちょっと待て!」  潤は江上の言葉に振り向くことなく、コートとボディバッグを掴んで玄関に向かう。 「おい、颯真はどうした!」  質問が核心を突き、潤は動けなくなる。江上の手が、潤を掴んだ。 「そう……」 「颯真だ。あいつずっとお前に付き添っていただろ」  潤は我に返って江上の手から逃れた。 「分からない……」 「潤!」 「潤さん!」 「廉、尚紀。ごめん。また」  江上と尚紀の制止を振り切り、潤は江上の部屋から逃げるように飛び出した。  もう、どこに行けばいいのか、分からなかった。  潤は江上の部屋を出てから、ふらふらと街をあてもなく歩き回っていた。駅から始発の地下鉄に乗る。発車してまもなく、恵比寿駅に到着すると、正月用品を買い込んだであろう大きな荷物を抱えた乗降客で座席が埋まり、一気に活気に満ちる。  そうなんだよな、大晦日だと改めて思う。年が改まるという特別な日を迎えるために浮き足立っている車内において、自分の存在はあまりに場違いな気がしてくる。だんだんと落ち着かなくなり、潤は電車から降りた。改札を出て、地上に上がるとそこは日比谷公園の近く。噴水広場の近くのベンチでしばらく腰を落ち着けたが、肌寒くなり再び立ち上がる。  脚が重かった。思えば、発情期が始まってからほとんど固形物を口にしていない。今日もほとんど食事をしていないのだから、体力的にも精神的にも限界だった。  自宅マンションに帰ろうかと過ぎったが、あの部屋に一人でいたくないというある種の拒絶感と、もし合鍵を持つ江上がいたら逃げられないという僅かな不安、そしてなにより颯真と顔を合わせられないという恐怖が勝り、その選択ができなかった。  実家に戻るという選択もあったが、この異様な精神状態を、母親の茗子に隠し通せる自信が持てなくて足が向かない。  ならばいっそのこと、会社で仕事を片付けようかとも思った。しかし、この状況で集中出来るかと言ったら無理だ。仕事とはもう少し落ち着いてから向き合いたい。  結果、潤は日比谷から有楽町に出て山手線に乗った。そのまま行くあてもなく山手線を周回していたが、それにも体力の限界が来てしまい、品川で下車し、ホームのベンチで所在なく座り込んでいた。  もう、日が落ちようとする時刻だ。  何時間、このやるせない気分を抱えて都内を彷徨っているのだろう、こんなふうに根無し草のような一日を送るとは思っても見なかったと、潤は口許に自嘲の笑みを浮かべた。  自分はどこで年を越そうか。  幸い財布は持ってきているのだから、どこかにホテルの部屋を取る選択肢も考えたが、大晦日に部屋が取れるのかと思い至り、ため息をついた。漫画喫茶やカプセルホテルなら……と思ったが、発情期が明けたばかりで、不特定多数が行き交う場所は不安だ。かといって野宿などもってのほかだ。 「まもなく二番線に渋谷・新宿方面行きが参ります。危ないですから、黄色い線までお下がりください……」  何度となく聞いたアナウンスが耳に触れる。ふっと冷たい風が潤の頬を触り、思わず顔をマフラーに埋めて目を閉じる。  ふと、去年の大晦日は何をしていただろうと思い起こす。  去年は社長に就任したばかりで、年末ぎりぎりまで仕事をしていて、大晦日の朝に颯真と一緒に車で実家に帰宅した。夕方になって、潤以上にぎりぎりまで飛び回っていた父親がようやく帰宅して、久しぶりに家族団らんで年越しをしたと、懐かしい気分に駆られる。  おそらく父は、今年も大晦日の便で東京に戻ってくるのだろうが、昨年のような、リラックスした年越しは難しいだろう。  なんせ、まだ平静な状態で颯真と顔を合わせられる自信がない。  颯真は大丈夫だったとしても自分は無理だ。  発情期明けゆえか、それとも脳に栄養がいきわたっていないためか分からないが、いつものように頭が働いていない気がする。潤の思考は乱れていた。  それでも、今夜実家に帰れない理由を考えないとならないことに気が付く。  颯真のように夜勤が、という訳にはいかないし、江上と一緒に……と嘘を吐いたとしても、ほどなくしてバレるだろう。ならば、体調が悪いと言えば……いや、勢い余って迎えに来そうな気がする。  溜息を吐いて、潤はぐるぐると巻いたマフラーに顔を埋めた。  連絡無し、というのは難しいと潤も思う。ここしばらく心配をかけてしまっているし、もしかしたらすでに連絡がない、帰ってこないということで茗子は心配しているかもしれない。  やっぱり今からどこか部屋を取ろうかなと思い直す。まだ発情期が抜け切れなくて、部屋を出たくないと言えばそれで巧く収まるかもしれない。颯真はいるのかと聞かれるかもしれないが、ごまかすことはできるだろう。  じゃあ、ホテルを探さねば……と思うが、疲れが出てしまい、潤は身体を動かすがの億劫に思った。大きく溜息をつく。 「もしもし、大丈夫ですか?」  すると、突然脇から声をかけてくる人物がいた。  これまで潤の近くを通る人々からは、コートを着込んでマフラーで顔を極力隠すようにしてベンチに浅く腰掛ける姿が、年末にそぐわず荒んでいるように見えるらしく、遠巻きにされていた。まさか声をかけてくる人物がいるとは。  潤はゆっくり視線を上げる。  その人物は、潤の反応にとりあえずは安堵したようで、しゃがみ込んだ。潤はその動きを視線で追う。見れば自分よりいくらか年上の男性だ。 「お話できますか? 体調が悪いんですか?」  男は親切にそう聞いてきた、潤も、マフラーの中から大丈夫ですと頷く。  すると、男性は安堵したような表情を見せたが、あれ、という表情を浮かべた。 「君は…」  その声に、潤も顔を上げる。すると、男が驚いたような声を上げる。 「潤君?」  なぜ自分を知っている?  潤も名前を呼ばれて記憶が刺激され、その男をまじまじと見る。 「あ」  少し軽薄そうながらも端正な顔立ちで、柔らかい光を湛えるその目元に、記憶がひっかかる。  まさかの知り合いだった。 「……もしかして、松也、さん?」  思わぬ場所での偶然の再会だ。潤は心底驚いた。

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