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第2章 一人のアルファで一人の兄で(1)
連載を再開します。
とりあえずの1話です。
コツコツ書いていきますので、見捨てない程度にお付き合い頂けると嬉しいです
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オメガ性。
そのように書かれた第二性別通知書を、潤は信じられない思いで見た。中学三年生になった春のこと。約十五年前の話だ。
この国では、義務教育の最終年の春に、全員が性別判定のための血液検査を受けることになっている。その結果は二週間ほどで自治体から学校にまとめて通知書として送付される。
配布された個人宛の通知書を開いて、クラスメイトたちがざわついている。潤もそれらを眺めてから封筒を開いた。そして、飛び込んできた結果に、一瞬誰かのものと間違えてしまったのかと思い、文書を閉じて裏返し、自分の名前を確認した。
え、嘘だよね?
多分そう思ったのだと思う。
予想外の結果に焦り、体温が上がっている気がする。
思わず、隣で同じように配布された通知書を開いた颯真と廉を見る。二人は潤のように戸惑っている様子はない。おそらく、想像していた通りの内容だったのだろう。
ならば自分のは?
間違いではないかとさえ思った。
自分はアルファだと思っていた。いや、ベータという可能性はあるとしても、まさかオメガではないと思っていた。そんな可能性を、考えたこともなかった。
だって、双子の兄の颯真は、どう見てもアルファだからだ。
「潤?」
奇っ怪な動きを始めた潤の異変を颯真が察知したようで、呼びかけられた。
「どうだった?」
困惑していた。たぶん顔に出ていたと潤は顧みる。
「……あ、いや。これ間違ってないかなって……」
颯真が怪訝な表情を浮かべ、潤が手にしている文書を覗き込む。そして隣の廉もそれに倣った。
「……オメガ」
驚きを隠せない声で、廉が呟く。その視線に潤は息を詰めた。いつも向けてくる親友の目ではない気がしたのだ。
颯真からその通知書を受け取った廉もまた、潤と同じように、文書を裏返して名前を確認した。
「だから間違えじゃ……」
「それはないだろ」
颯真が断言した。廉は口を噤んだ。そんなことは潤だって分かっている。しかし、颯真に断言されると、潤は何も言えなくなった。
潤は、自室に篭もりドアに鍵を掛けてから、崩れ落ちるように座り込んだ。涙でぐしょぐしょの顔を手のひらで覆う。
混乱していた。
「発情期にお前は俺を求めた。俺もお前を求めた」
颯真の言葉が蘇る。唇を噛んだ。
さっきはきっぱり否定できたのに、考えれば考えるほど、それが出来なくなる。
自分のベッドが目に入る。確かに、求めた。
颯真に抱かれて、彼を求めた。受け入れて悦びに満ちあふれた気分になった。彼が押し入ってきただけで、満たされて達した。口付けをされて、嬉しくて気持が良くて。いや、口付けを自分から強請った。
颯真に発情した身体を全て任せた。
颯真の香りに身を委ねた。
発情期にたまたまいたアルファだったから、という理屈も一蹴された。
そうだろうと思う。きっと颯真はずっと分かっていたのだ。
発情期になって、彼の指が診察の一環で入ってきただけで、目眩がしそうなほどに感じて達しそうになった。いや、颯真の手が触れただけでドキドキしていた。身体は反応して、心拍数を上げていた。
自覚がなかったのは本人だけなのだと潤は思う。
「お前は俺のオメガだ」
颯真のその言葉だけが潤の脳裏を何度も往き来していた。頭では意味が分からないと言う。僕達は兄弟であるはずだ。……でも。
そんなはずはないと潤は大きく首を横に振る。
新たに涙が溢れる。
チリリン。
スマホがメッセージの着信を報せた。
潤はなんとか立ち上がり、ベッドサイドに置きっ放しにしていたスマホを手にする。メッセージの送信元は、颯真だった。
仕事に行ってくる
暫くは戻らない
ピルだけは飲んでおけ
用件を並べただけの素っ気ないメッセージだが、潤はそれを既読にできなかった。
しばらくしてドアの向こう側で慌ただしく移動する音が聞こえて、玄関ドアが締められた音がした。自室の向こう側はしんとしている。部屋のドアを開けて、先程までふたりで過ごしたリビングに行くと、エアコンも明かりも消されていた。本当に出勤したらしい。
ダイニングテーブルの上に視線が止まった。先ほど放り出してしまった、モーニングアフターピルとミネラルウォーターのペットボトルが置かれていた。
潤は躊躇うことなくPTP包装から錠剤を取り出し、口に含む。そしてミネラルウォーターの栓を開けて、水で飲み下した。
一度水を口にしたら、身体中がカラカラだったことに気がつく。そのままペットボトルの半分くらいを一気に飲み干して、一息吐いた。そして、自分の下腹部に手を当てる。
いつもの居心地の良い自宅のリビングであるはずなのに。
このいろいろな感情が折り混ざったこの空間に、一人で居られる勇気がなかった。
潤も自室に戻ると、ボディバッグに財布やスマホといった必要最低限のものを入れるとコートを羽織る。
昨年の今頃、颯真がクリスマスプレゼントだとふらりと買ってきたキャラメル色のダッフルコートだ。かなり気に入っていて、昨シーズンはプライベートの装いではこのコートが大活躍していた。颯真は、自分が買ってきた服を潤が着ていると、とても嬉しそうに笑みを浮かべるのだ。
少し迷って違うアウターにしようかと考えたが、自分のクローゼットの中は、颯真が見立てた服ばかりだ。自分で選んでいるのはせいぜい仕事で使うスーツとワイシャツくらい。ネクタイさえ、颯真が見立てたものと兄弟で共有しているものとで半々くらいだ。
颯真のことをしばらく忘れて気持ちを落ち着けたいのに、潤の生活の隅々……、些細なことまで片割れの影響を感じずにはいられない。
潤はボディバッグを背負って、部屋の鍵をかけた。
いざというときに頼れる友人が自分には少ないと、潤は常々思っている。憂慮するべき課題だとずっと考えてはきたが、改善のために実行に移さなかったのは、不便を感じていなかったからだ。
いや、就職したときには同期もいた。今も同期会はあるし、何人も同期の同僚はいる。入社直後の研修合宿では、わいわいとテキストを囲んだし、MRの認定資格を得るための過酷な合宿を耐え抜いた、いわゆる同じ釜の飯を食った仲間だ。
しかし、自分だけがチャンスを与えられ、とんとんと昇進していくのを彼らはどう思っていたのだろうと思うと、気軽に誘うことができなくなった。そして今は、同期がすべて部下になってしまった。
潤がそのようなことを考えているということは、おそらく向こうも同じようなことを感じていて、社長になんてなってしまった同期など、扱いにくいことこの上ないと思うに違いない。そんなことをぐつぐつと考えて、なんとなく疎遠になってしまっていた。
だから、頼れる友人、となると潤の中では自然と極限られてきてしまう。
マンションを出て、しばらく迷い彷徨い、結局辿り着いたのは、自宅からさほど遠くはない、五階建ての大型マンション。ここの三階に、親友であり秘書の江上廉が住んでいた。
ここに来るのに躊躇いがないわけではなかった。
江上に会うのは、取締役会の後、誠心医大横浜病院の処置室で別れて以来だ。あの時、彼の番が尚紀であると、颯真によって知らさせた。すべてをかなぐり捨てて感情のまま号泣したが、傷跡はまだ生々しいように思う。その後がいろいろとありすぎて、正直遠い過去のようにも思えていたが、江上と再会して、あの時の苦い辛い感情が蘇ってこないとは限らない。
でも。それでも誰かに会いたかった。人恋しかった。
それでも、江上の自宅マンションのエントランスで、整然と並んだ郵便受けを眺めて、潤は立ち止まる。頭が冷静になったのか、ふと思ったのだ。あれから江上は帰宅しているのだろうか。
あの日、処置室で潤と別れた江上が向かったのは、アルファ・オメガ科の特別室。そこでペア・ボンド療法に参加したのだろう。……具体的には、発情期を迎えた尚紀を抱いて、番にしたはず……。
発情期がどのくらいの期間だったのか、経験が少ない潤には、想像する材料さえ少ないが、それでも自分のケースよりは短かったのではないだろうかと思う。
あれから一週間が経っている。いくらなんでも帰ってきているだろうという肯定論と、尚紀の入院は年明けまでかかると言われていたのだから、未だに帰ってきていないのだろうという否定論が、脳裏で鬩ぎ合う。
躊躇いつつも、部屋番号を入れてチャイムボタンを押した。
しばらく待っても反応はない。誰も出ない。帰宅していないようだ。
緊張が解けて、潤もそうだろうと思う。無事に番になったのであれば、江上が一人で帰ってくる理由はないのだ。
となると、きっと尚紀と一緒だ。江上と尚紀が番になることを、多分おそらく心から祝福できるとは思う。でも今、彼らの一緒に仲睦まじい様子を目の当たりにして、ダメージを受けない自信はない。
やっぱり、江上には会えないと潤は思った。
身を翻してエントランスを後にしようとすると、丁度その目の前にタクシーが停まった。
足早に去ろうとしていた脚が、ぴたりと止まった。
まさかであった。そのタクシーの車内から出てきたのが、尚紀だったのだ。白いセーター姿で、小脇にダウンコートを抱えている。
潤は、まずいと思った。
しかし、背後はオートロックの自動ドアだ。逃げる場所はない。辺りを見回すが、かといって隠れる場所もない。
そうしているうちに、エントランスにいる人影に尚紀が気が付いた様子で、驚いている表情を浮かべ、潤の名を呼んだ。そして車内に向かって何か話しかけている。
尚紀が呼びかける車内から、慌てて出てきたのは、やはり江上。いつものスーツ姿だった。
潤の脚がすくんだ。
江上が驚いた表情をそのままにこちらにやってくる。
「潤!」
自動ドアが開くと同時に、江上から呼びかけられる。
廉、と口を開きかけて、声が出なかった。
そして、その江上の隣に立つ、尚紀の姿が目に留まる。
「潤さん!」
その呼びかけが、すとんと腹に落ちた。
「尚紀……」
言葉に出来たのは。江上の名前ではなかった。
そして、その行動にも思考は伴っていなかった。
思わず、というにふさわしいリアクションだった。
飛びつくように抱きついた。自分と同じくらいの背丈の、オメガの青年に。
「尚紀っ」
潤の突如の行動に、尚紀が戸惑いつつも潤を抱きしめる。
「潤さん……」
尚紀の身体は温かくて、良い匂いがして、安心できる。
そこは、潤の緊張した身体を、解すことができる場所だった。
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